A1470

下村観山

| 1873-04-10 | 1930-05-10

SHIMOMURA Kanzan

| 1873-04-10 | 1930-05-10

作家名
  • 下村観山
  • SHIMOMURA Kanzan (index name)
  • Shimomura Kanzan (display name)
  • 下村観山 (Japanese display name)
  • しもむら かんざん (transliterated hiragana)
  • 下村晴三郎 (real name)
  • しもむら せいざぶろう
  • 北心斎東秀 (art name)
  • ほくしんさいとうしゅう
生年月日/結成年月日
1873-04-10
生地/結成地
和歌山県和歌山市
没年月日/解散年月日
1930-05-10
性別
男性
活動領域
  • 絵画

作家解説

1873年、代々紀州藩に仕える小鼓方幸流[こつづみかたこうりゅう]の家系である下村家の三男として、和歌山県和歌山市に生まれる。本名は晴三郎[せいざぶろう]。長兄の清時はのちに能面師を経て彫刻家(号・豊山)に、次兄の時有はのちに彫刻家(号・栄山)となった。幕藩体制の崩壊により家禄を失った一家は1881年に上京。父は篆刻や輸出用の牙彫[げちょう]を生業とした。この頃観山は謡曲を習い始め、また祖父の友人の藤原常興[つねおき]に絵の手ほどきを受ける。絵師ではなく技術者だった常興は、より本格的な絵画指導を受けさせるためにほどなく観山を狩野芳崖に託し、観山は芳崖、さらには芳崖が紹介した橋本雅邦のもとで、狩野派の教授法である粉本臨模により画技の研鑽を積んだ。芳崖は観山に「北心斎東秀[ほくしんさいとうしゅう]」の号を授けたとされ、この号の署名がある少年期の古画の臨模作品が複数現存する。1886年、東洋美術史家のアーネスト・F・フェノロサらが主宰する鑑画会にわずか13歳で山水図を出品してその早熟ぶりを披露し、賛辞を受けた。 1889年に東京美術学校(現・東京美術学校、以下美校)が開校すると、横山大観らとともに第1期生として入学し、翌年校長として着任した岡倉天心(覚三)の薫陶を受けることとなった。「観山」の号は美校入学の頃に使い始めたとされる。少年期にすでに狩野派の筆法を習得していた観山は、美校ではやまと絵の研究に熱心に励み、調和を重んじた穏やかな色彩と流麗な線描を探究。能に材を取った卒業制作の《熊野観花[ゆやかんか]》(1894年、東京藝術大学)や、卒業後に助教授となり校友会展に出品した《日蓮上人辻説法》(同前)などに見られるように、古典から学んだ諸要素を巧みに組み合わせて独自の構図に昇華させ、清雅な色彩による生き生きとした群像表現を獲得した。 1898年、美校内部の確執に端を発して岡倉天心が校長の職を追われると、観山は天心に殉じて大観や菱田春草ら他の教職員とともに美校を去り、天心らとともに日本美術院を設立。その第1回展覧会に釈迦が荼毘に付される場面を描いた《闍維[じゃい]》(1898年、横浜美術館)を出品し、大観の《屈原》(1898年、厳島神社、広島)とともに最高賞の銀牌を受賞した。フェノロサはこれを「外国と日本との古格を離れ、無限の力と創意とを以て未だ抵触されたるなき画題を捕らえたる二氏の傑作」(「〈雑録〉フェノロサ氏日本絵画論」『日本美術』第3号、1898年12月)と評し、新しい日本画の萌芽を絶賛した。初期の日本美術院においては、西洋画を意識した革新的な試みとして、空気や光線を表すために、輪郭線を用いずにぼかしを伴う色面描写を用いた技法が試行され、これが「朦朧体」と揶揄されて美術界に賛否両論を巻き起こした。その中にあって観山は、《元禄美人図》(1899年、右隻:石水博物館、三重、左隻:個人蔵)などのように線を主体とする復古的な作品を制作する傍ら、大観との合作《日・月蓬莱山図》(1900年、静岡県立美術館)などに見られるような、徹底した無線描法による作品にも同時期に取り組んだ。さらには《春日野》(1900年、横浜美術館)などのように、ひとつの画面の中に無線描法による背景表現と綿密な線描による主要モチーフを巧みに融合させた折衷的な作品を発表しながら、堅実な歩みを進めた。 教授として美校に復帰した翌年の1902年、文部省より2年間のイギリス留学を命ぜられ、その翌年に渡英。色彩の研究を第一の目的として、西洋画の研究と模写を行った。ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する模写(原画はピッティ宮殿パラティーナ美術館、フィレンツェ)を写したとされる《ラファエロ作「椅子の聖母」模写》(1904年、横浜美術館)や、帰国前のヨーロッパ諸国巡遊時にウフィツィ美術館で写したとされる《ラファエロ作「まひわの聖母」模写》(1905年、横浜美術館)は、油彩による原画の柔らかな陰影を水彩によって絹に写したもので、観山の技術の高さをよく示している。 一方で、新たな日本画の創造を目指して創設された日本美術院の活動は次第に停滞し、1903年には経済的に逼迫。観山の帰国翌年の1906年、日本美術院は茨城県の五浦[いづら]に拠点を移し、観山も一家を伴って五浦に転居となった。観山が第1回文部省美術展覧会(文展)に審査員として出品した《木の間[このま]の秋》(1907年、東京国立近代美術館)は、五浦の雑木林に取材したとされ、その緻密な自然描写と琳派を思わせる装飾性の融合が大きく好評を博した。伝統的な二曲一双の金地屏風に描かれた同作では、伝統的な顔料とともに西洋顔料も使用されたと見られている。両隻に描かれた直立する樹々が水平方向の広がりを感じさせ、また手前を濃く奥を薄く描く空気遠近法が林の奥深くへと見る者の眼差しを引き込む同作は、卓越した古典的素養の上に西洋での研究成果が結実した画期作といえる。また、1909年の「国画玉成会研究会展覧会」に出品した六曲一双屏風の《小倉山》(横浜美術館)では、より復古的な傾向を打ち出し、百人一首に撰ぜられた藤原忠平貞信公[ていしんこう]の和歌に材を取った。複雑に交差する樹木やもみじ葉の中に座す貞信公を描いた右隻では、古典研究に裏づけられた平安人の姿と写生に基づく自然の情景を融合させて華麗に表現。一方の左隻では大きな余白を活かして心象的な世界をあらわし、その後の観山作品を予見させた。 1913年に天心が亡くなると、観山は大観とともに、有名無実化していた日本美術院の再興を企図。またこの年の末、観山は天心を通じて知遇を得ていた実業家・原三溪の招きにより、横浜本牧の和田山に新邸を設けて移り住む。以降、三溪の支援のもとで制作を行い、三溪との交流は観山が亡くなるまで続いた。1914年、大観、木村武山、安田靫彦、今村紫紅、洋画家の小杉未醒[みせい]とともに再興日本美術院を創立すると、再興院展[再興日本美術院展覧会]を舞台に、《白狐》(1914年、第1回展出品、東京国立博物館)、《弱法師[よろぼし]》(1915年、第2回展出品、東京国立博物館、重要文化財)、《春雨》(1916年、第3回出品、東京国立博物館)といった大作を発表。いずれも一双屏風の形式を活かし、余白を大きくとった空間表現によって、自らの出自にも連なる能の世界観を思わせる高い精神性と静寂に満ちた独自の画境を極めた。それ以降は次第に、宋元画の枯淡な画風に傾倒し、また道釈画や仏画を主体に、墨の濃淡と抑揚による線描の妙を追求するようになる。しかし1921年頃より衰え始めたとされる健康状態はその後大きく回復することはなく、簡潔な鉄線描と気品ある色彩によって院体画への共感を示した絶筆《竹の子》(1930年、個人蔵)を残し、57歳の生涯を閉じた。 (内山 淳子)(掲載日:2023-09-26)

1931
故下村観山遺作展覧会, 東京府美術館, 1931年.
1936
下村観山遺作展覧会, 恩賜京都博物館, 1936年.
1955
四人の作家: 下村観山・靉光・荻原守衛・橋本平八, 国立近代美術館, 1955年.
1958
横浜開港百年記念 天心・大観・観山遺品展, 横浜松屋, 1958年.
1959
下村観山代表作展: 物故三十年記念, 日本橋三越, 1959年.
1965
下村観山名作展, 致道博物館, 1965年.
1967
下村観山展: 特別展, 秋田市美術館, 1967年.
1979
五浦の作家展: 大観・観山・春草・武山, 茨城県立美術博物館, 1979年.
1980
下村観山: その人と芸術: 開館記念特別展, 山種美術館, 1980年.
1981
下村観山: その人と芸術, 和歌山県立近代美術館, 1981年.
1986
五浦の五人展: 近代日本画の夜明け, 東京・日本橋東急, 名古屋・松坂屋, 大阪・三越, 1986年.
1987
四人の巨匠展: 近代日本画の夜明け: 横山大観・菱田春草・下村観山・西郷孤月: 松本市制施行80周年記念, 日本民俗資料館, 1987年.
1990
大観と観山展, 横浜美術館, 1990年.
1990
大観・観山・武山: 平櫛田中をめぐる画家たち, 井原市立田中美術館, 1990年.
1993
下村観山展: 生誕一二〇年記念, 小田急美術館, 大阪・三越, 1993年.
2003
下村観山・木村武山展: 新しい日本画の創造をめざして: 岡倉天心来五浦一〇〇年, 茨城県天心記念五浦美術館, 2003年.
2006
下村観山展 : 観山と三溪, 三溪記念館, 横浜, 2006年.
2009
大正期、再興院展の輝き: 大観・観山・靫彦・古径・御舟: 日本画創造の苦悩と歓喜, 滋賀県立近代美術館, 栃木県立美術館, 2009年.
2013
生誕一四〇年記念下村観山展: 岡倉天心生誕一五〇年・没後一〇〇年記念, 横浜美術館, 2013–2014年.
2014
第三の男 下村観山 Kanzan: 生誕140年記念, 駿府博物館, 静岡市, 2014年.

  • 東京国立博物館
  • 東京国立近代美術館
  • 東京藝術大学大学美術館
  • 横浜美術館
  • 三溪園, 横浜
  • 神奈川県立歴史博物館
  • 北野美術館, 長野市
  • 水野美術館, 長野市
  • 福井県立美術館

1915
観山会編『観山画集』第1-3集. 東京: 精華社, 1915-1920年.
1925
斎藤隆三編『観山作品集』東京: 日本美術院, 1925年.
1931
下村仙編『観山遺作集』乾・坤, [出版地不明]: 下村仙, 1931年.
1959
河北倫明, 下村英時, 福田豊四郎「座談会 下村観山を語る」『三彩』118号 (1959年7月): 19-38頁.
1963
『下村観山・川合玉堂 日本近代絵画全集: 第18巻』東京: 講談社, 1963年.
1965
吉沢忠「下村観山: 近代作家論」『三彩』182号 (1965年2月): 29-33頁.
1972
細野正信編『下村観山 近代の美術, 9』(1972年3月).
1976
永井信一, 難波専太郎解説『下村観山・川合玉堂 現代日本の美術: 第1巻』東京: 集英社, 1976年.
1980
草薙奈津子「観山と朦朧体」『下村観山: その人と芸術――開館記念特別展』東京: 山種美術館, [1980年], 88-91頁 (会場: 山種美術館).
1981
座右宝刊行会編『観山画集 下村観山』東京: 大日本絵画, 1981年.
1981
細野正信「下村観山の芸術」和歌山県立近代美術館編集『下村観山: その人と芸術』[和歌山]: 和歌山県立近代美術館, 1981年, 83-91頁 (会場: 和歌山県立近代美術館) [展覧会カタログ].
1981
下村英時『下村観山伝』後藤茂樹編集. [東京]: [大日本絵画], [1981年].
1982
小池賢博解説『下村観山・菱田春草 現代日本絵巻全集: 4』東京: 小学館, 1982年.
1983
佐々木直比古『横山大観・下村観山 現代の水墨画: 2』東京: 講談社, 1983年.
1990
大塚雄三「下村観山: 『小倉山』を起点として」横浜美術館編『「大観と観山」展』[東京]: 日本経済新聞社, 1990年, 18-29頁 (会場: 横浜美術館).
2003
八柳サエ「下村観山の滞英時代について: 《ダイオゼニス》考」『横浜美術館研究紀要』第5号 (2003年3月): 53-73頁.
2006
清水緑「下村観山と原三溪にみる作家と支援者の関係」『鹿島美術研究: 年報別冊』第24号 (2007年11月): 286-297頁.
2013
横浜美術館編『生誕140年記念下村観山展 : 岡倉天心生誕150年没後100年記念』[横浜]: 横浜美術館, 2013年 (会場: 横浜美術館).
2015
椎野晃史「下村観山筆『魔障図』をめぐる考察: 近代白描画試論」『美術史』178号 (2015年3月): 350-366頁. 東京: 美術史学会.
2015
柏木智雄「資料紹介: 下村観山画房日記『やまの上』」『横浜美術館研究紀要』第16号(2015年3月): 60-87頁.
2016
柏木智雄「資料紹介: 下村観山画房日記『やまの上』」承前『横浜美術館研究紀要』第17号(2016年3月): 19-43頁.
2019
柏木智雄「資料紹介: 下村観山画房日記『日記帳』」『横浜美術館研究紀要』第20号(2019年3月): 33, 35-83頁.
2021
日比野民蓉「下村観山《魔障図》の変遷」『横浜美術館研究紀要』第22号(2021年3月): 11-29頁.
2021
内山淳子「資料紹介: 入江家旧蔵「下村観山 画稿・素描等作品資料群」総覧」『横浜美術館研究紀要』第22号(2021年3月): 31-56頁.

Wikipedia

下村 観山(しもむら かんざん、1873年(明治6年)4月10日 - 1930年(昭和5年)5月10日)は、明治 - 昭和初期の日本画家。本名は晴三郎。

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VIAF ID
72735237
ULAN ID
500122610
AOW ID
_00041397
Benezit ID
B00097103
Grove Art Online ID
T078265
NDL ID
00071982
Wikidata ID
Q2113306
  • 2023-11-14