「知らないことを知る」から学ぶ、国際文化交流とアーティスト支援のあり方:キャシー・ハルブライヒ × 神谷幸江

2023年3月5日

対談企画

日本現代アートの国際的認知を広げる布石となった「アゲインスト・ネイチャー 80年代の日本美術」展(1989‒91年巡回)。本展の共同キュレーターを務めた現ロバート・ラウシェンバーグ財団エクゼクティブ・ディレクター、キャシー・ハルブライヒに、80年代の日本で得た経験と影響、国際文化交流の機会創出とアーティスト支援のあり方について話を聞く。APJのステアリングコミッティーの神谷幸江がインタビュー。(敬称略)

2名の女性が白い部屋のなかで斜向かいに座り、こちらをみているようす。机の上には花の絵が描かれたカタログが置かれている左から:神谷幸江、キャシー・ハルブライヒ。ニューヨーク、ラウシェンバーグ財団にて収録

1989年、サンフランシスコ近代美術館を皮切りに、1991年にかけてアメリカ7都市およびICA名古屋に巡回した「アゲインスト・ネイチャー 80年代の日本美術」展は、大竹伸朗、ダムタイプ、宮島達男、森村泰昌など、当時まだローカルな存在だった日本の現代アーティストを初めてアメリカに紹介した展覧会である。タイトルの「ネイチャー」は、自然と結びついた日本の文化や伝統のステレオタイプであり、これに「アゲインスト」(=反発)する都市文化を反映する反自然的傾向に焦点をあてるという企画意図があったようだ。リサーチ期間・後にキャシー・ハルブライヒは来日を繰り返し、トーマス・ソコロフスキ、河本信治、南條史生と共同でキュレーションを手がけた。

きっかけは国際交流基金の招待だった

神谷幸江(以下、神谷):ハルブライヒさんは、アメリカの二つの主要美術館で要職を歴任してきたエグゼクティブ・プロフェッショナルであり、今なお語り継がれる歴史的な展覧会「アゲインスト・ネイチャー」を共同キュレーションなさいました。1989年が初回の展示でしたので、リサーチはさらに前から始まっていたのではないでしょうか?

キャシー・ハルブライヒ(以下、ハルブライヒ):そうですね、80年代中頃には始まっていました。

神谷:日本のアーティストについては、リサーチを始める前から何か情報をお持ちでしたか? あるいはアーティストたちと繋がりがありましたか?

ハルブライヒ:日本に行ってみたいと思っていましたが、知識はありませんでした。きっかけは国際交流基金の招待でした。基金が日本のアーティストのネットワークを広げようとしていたタイミングで、アメリカの美術館の館長やキュレーターたちが招待を受け、大勢で日本を訪ねたのです。

神谷:当初は展覧会を想定していたのではなく、純粋なリサーチだったのですね。

ハルブライヒ:はい。無条件で招待を受けたことは、非常に有益でした。日本の現代アートを、それらが作られる文脈の中で見ることができましたから。

神谷:どのような場所に行きましたか?

ハルブライヒ:美術館を巡ったり、伝統的なアーティストを訪ねたり。建築、掛け軸、着物、織物など、あらゆる日本の伝統的芸術を見せてもらいました。アーティストのスタジオ訪問が叶わなかったのは、ちょっとショックでした。アーティストとはショップやホテルのロビーで会い、コーヒーを飲みながら話を聞いたり、スライドを見せてもらったりしました。

神谷:他都市であれば、1日に何軒もアーティスト・スタジオを訪問するのは普通にできますよね。日本の場合、多くのアーティストはスタジオを持たずに自宅で作業していたり、郊外にスタジオを持っていたりする事情があります。

ハルブライヒ:ウォーカー・アート・センターのディレクターとキュレーターが「Tokyo Form and Spirit」展(1986年) のリサーチで来日した時、「日本のデザインは、洋服や建築、グラフィックデザインなど素晴らしいのに、優れた現代アーティストがあまりいない」と言っていたのを思い出します。どうしてでしょうか? まず訪問できるアーティストのスタジオがなく、ギャラリーの数も少ないという壁のせいではないでしょうか。

私自身、日本のアーティストが常設のスタジオを持つ余裕がないということを理解するのには少し時間がかかりました。何十杯とコーヒーを飲むうちに、どうやって話を進めたらいいのかコツはつかめるようになりましたけど。それでもトーマス・ソコロフスキと私は日本滞在が気に入って、ツアーが終わった後も数週間ほど滞在し、文楽の人形劇や歌舞伎、日本庭園などに行きました。

神谷:日本の文化的背景を知るきっかけになった。

ハルブライヒ:知ることができたのは、何度も足を運んだからです。私は西洋文化のレンズですべてを見ていて、例えばなぜ掛け軸(の絵)に三点透視図法がないのか、とても戸惑ったことを覚えています。ルネサンス的な遠近法はどこにでもあると思い込んでしまっていたのです。

何を知らないかを知ること

神谷幸江とキャシー・ハルブライヒが話をしている写真


ハルブライヒ:この展覧会を進める仕事をする中でどんな学びがあったのかといえば、まずは謙虚であること。本当に何も知らないからです。招聘を受け日本での旅を共にしていたある有名な美術館の人が「具体」の小さな絵画を見て「これはC級の抽象表現主義だ」と言ったのを覚えています。私は思わず「本気で言っているのですか?」と問い返しました。世界に例を見ない壊滅的な爆撃を受けた日本で戦後に活動を開始した「具体」は、アメリカの抽象表現主義とは交わらない文化を反映しているはずなのに。でも、そういうことなのです。最高の教育を受け、非常に高い地位にあってなお、無知である可能性があるということです。

神谷:日本にそのような思慮をもって訪れ、地球の反対側でどのようなことが起こっているのかを観察してくださり、改めてお礼を申し上げます。

ハルブライヒ:しかし、これこそがエキサイティングな経験でした。自分の心と目を開き、自らの専門知識を少しずつ捨て去らなければいけない。世界がどのように描かれ、形作られてきたのか。そしてなぜそうなったのか。新しいアイデアをスポンジのように吸収する経験ができました。白状しますと「アゲインスト・ネイチャー」を企画したのは、単にまた日本に行きたかったからです。

人工的であることの意義

机の上に置かれたカタログとリングノートの写真「アゲインスト・ネイチャー 80年代の日本美術」展のカタログ

神谷:来日で得たインスピレーションから、展覧会のキュレーションを思いついたのですね。そういえばソコロフスキさんが亡くなる前、本展カタログの表紙イメージを説明くださったことがあります。「これは桜の花だけれども、造花なんだ」とおっしゃっていました。 まさにお二人が伝えたかったことですよね。日本の伝統と並行して存在する人工物、都会、変容などの異なる側面が表現されています。展覧会のアイデアはどのように生まれたのでしょうか?

ハルブライヒ:意図的にアート分野以外の専門家と話すようにしていました。私たちが驚いたのは、ドイツに行けばどのバーにも戦前戦後の写真が飾ってあるのですが、日本では戦争についての議論や戦争のイメージがほとんど見あたらなかったことです。思い出す限り、戦争を想起させたのは、最初の旅行で訪ねた「A-Bomb(原爆)」というブティックだけでした。また、日本の若者たちは俳句のようなフレーズをプリントしたトレーナーやTシャツを着ていて、奥が深いなと思っていたのですが、あるアメリカ人の日本美術史学者いわく「誰も自分が何を着ているのか分かっていないよ。英語だから。あなた方が日本語をプリントした服を着ているのと同じ」だと。ミスステップでしたが、このような誤解があったからこそ新たな歩を進めることができました。

失敗は新しい道を開くという意味で、とても大切なことだと信じています。OK、そこに行けないことはわかったけど、あそこかあそこなら行けるかもしれない、という感じでリサーチを繰り返していたように思います。ある時、公園を歩いていると、電柱にぶら下がった偽物の桜が目に飛び込んできました。このような人工物と自然物の組み合わせは、私たちにとって非常に重要な存在となりました。生け花だって生きた人工物なのです。自分たちの歴史の中で触れてきたものとは異なる表現の思想について、私たちは考え始めました。

森村泰昌は、人工性を論じるのに最適なアーティストです。人為的なものは意味を欠いているのではない。とても重要な意味を持っているのです……

コラボレーションが鍵となった

ハルブライヒ:率直に語ってくれたアーティストたち、そしてダメな時ははっきり「NO」と言ってくれたシンジ(河本信治)にも大変助けられました。フミオ(南條史生)にも頼りきりでしたし、パフォーマンスに関する認識を共有してくれたカズエ(木幡和枝)の存在も重要でした。

神谷:日本人の協力者がいて、大きな助けになったのは何よりです。

ハルブライヒ:彼らなしにはやり遂げられなかったと思います。国際交流基金は非常に寛大で、「アゲインスト・ネイチャー」展のアイデアを非常に喜んでくれましたが、私たちが終盤に思いついたタイトルとイメージのいくつかは歓迎されませんでした。最終ミーティングを迎えた時、基金側は何かを恐れている様子だったことを覚えています。なにせ「アゲインスト・ネイチャー」(=自然に逆らう)ですから! このことについて私たちは長い時間をかけて話し合いました。私はその時に妊娠していてお腹が大きくなっていて、でもそれが非常に良い交渉のツールになりました(笑)。日本では(仕事の現場で)妊婦がどこにいるのかいまだに分かりませんね。とにかく今でも「アゲインスト・ネイチャー」はとてもいいタイトルだと思っています。

「アゲインスト・ネイチャー」で私の人生は変わった

神谷幸江とキャシー・ハルブライヒが話しているようす


ハルブライヒ:展覧会は私自身が非常に大きな影響を受けました。現実の見方、専門知識と西洋美術史の考え方、そのすべてが変わりました。私がウォーカー・アート・センターのディレクターになった時、「具体」を蒐集したいと思ったのです。白髪一雄の作品を購入した最初の美術館だと思います。購入すべき絵画を探すのにずいぶん時間がかかりましたが、実はイタリアで見つけました。具体はミラノでよく観られていましたし、アルテ・ポーヴェラの仕事もしていたので、そのアーティストに繋がりを教わりました。非常に面白い交わりです。しかしその後、私が働き始めた当時のMoMAに白髪の作品はなかった。現代アートの美術館の最高峰なのに。

そこで私はMoMAのディレクターであるグレン・ローリーの後押しを受けて、C-MAP(Contemporary and Modern Art Perspectives)という、ウォーカーで一時的でしたがやっていたのと同じようなプログラムを、立ち上げました。

神谷:ハルブライヒさんが日本でリサーチしてコラボレーションに至った経験とその影響についてぜひお聞かせください。あなたの私的な体験は、同時に日本のアーティストを鼓舞して影響を与え、彼らの国際的な知名度を高めて活動を後押しすることになりました。

ハルブライヒ:実際にはどこかひとつの国を可視化するということ以上に、キュレーターが美術史にアプローチする時の確信を解体する一助になったということです。例えば「アゲインスト・ネイチャー」の学際性は、アートの専門家だけでなく、文学、パフォーマンス、歴史などの専門家を巻き込むことにありました。これをC-MAPでも実践しています。南アフリカ、トルコ、ブラジル、そして日本からそれぞれキュレーターを招き、3年に渡ってセミナーを開催しました。セミナーは私自身の感覚、つまり本当に優れたキュレーターに必要不可欠なのは、自分が知らないことを理解することだという感覚に基づいて行いました。

アーティストが生き抜く世界そのものを支える

キャシー・ハルブライヒの写真キャシー・ハルブライヒ

神谷:現在はロバート・ラウシェンバーグ財団を率いていらっしゃいますね。財団がどのようにアートを支援しているのか、お話いただけますか。

ハルブライヒ:ボブ(ロバート・ラウシェンバーグ)は、本当にラディカルに心を開いている人でした。生前、チェンジ・インク(Change Inc.)という小さな財団を立ち上げ、最も困っているアーティストに資金を提供していました。例えばマーティン・ピューライヤーのスタジオが火事で焼け落ちた時、彼は助成金をもらったようです。いろんなところで多くのアーティストが「本当に絶望していた時にボブが助成金をくれた 」という話をします。彼が亡くなった時、その組織はいろんな理由で閉鎖せざるを得ない状況になり、私たちは2つのプログラムを始めました。ひとつは、アーティストのための緊急医療プログラム。ちょうどパンデミックが始まったころにスタートしました。私は、アーティストの生活実態が、市場の愚かさによって追い込まれていると思っています。アーティストのほとんどが健康保険に加入していません。私たちはこの事業を立ち上げ、パンデミックの時には、アーティスト・リリーフと呼ばれる、ディアナ・ハガグ(当時ユナイテッド・ステーツ・アーティスツ、現在はアンドリュー・メロン財団に所属)が設立した団体の最初の資金提供団体のひとつになりました。私が知っているアーティストの中には、偉大でありながら窮状を訴える人たちがたくさんいました。

ボブは最年少のアメリカ人として(ヴェネツィア・ビエンナーレで)金獅子賞を受賞しました。いろんな困難があったと思います。ニューヨークで有名でいることに辟易し、疲れてしまったのでしょう。1970年にキャプティバ島(フロリダ州)に移住し、そこでレジデンシー・プログラムを始めました。港町で育った彼にとって、水は本当に大切なものでした。時間をかけて20エーカーの土地と10棟の建物を手に入れて、住人たちを亡くなるまでそこに滞在させました。とても寛大な人でした。

ボブの生誕100周年(2025年)の発刊に向けて、カタログ・レゾネ(総作品目録)を制作していますが、著者には美術史家だけでなくアーティストを起用しています。グレン・ライゴン、テリー・ウィンタース、エイミー・シルマンが第1版の執筆に当たっています。

不思議なのは、アーティストが創設した財団がこれだけありながら、当のアーティストはどこにいるのだろう、ということです。例えば、クリストファー・ラウシェンバーグは、理事会の唯一のアーティストでした。今はグレン・ライゴンも理事メンバーです。

神谷:アーティストの存在が必要ということですね。

ハルブライヒ:必要不可欠だと思います。私が始めた事業で最も挑戦的だったのは、おそらくアーティスツ・カウンシル(Artists Council)です。匿名のアーティスツ・カウンシルで年間50万ドルを提供するよう理事会を説得し、現在は60万ドルを最も必要と思われるところに慈善的に分配しています。資金の提供先は芸術団体だけではありません。例えば実験的な小規模の出版社も助成しています。また、住むところのない女性のための住居がカリフォルニア州オークランドにあり、そこにも資金を提供しています。アーティストを直接支援するだけでなく、アーティストが生き残るための世界そのものがケアされなければいけません。そうしなければアートは生き残れないということを理解するための確固たる基盤を、このカウンシルは与えてくれました。

部屋の写真。左隅の床には時計が置かれている。右の壁には絵画が横に連なってかかっているロバート・ラウシェンバーグ財団の内観。ラウシェンバーグがかつて暮らした自宅兼スタジオをリノベーションしたビルは今年初めてメディア公開された。
撮影: Ron Amstutz, Courtesy of Robert Rauschenberg Foundation

アーティスツ・カウンシルのスポークスマンであるポール・チャンがとても素晴らしいことを言っています。

「これらの助成金は、ボブの芸術的遺産を尊重し、拡大するという私たちのコミットメントを反映しています。ボブの最高の作品は、美的な注目に値しないものや未だ注目されていないもの、また、人々さえ受け入れるならば、人生そのものを充実させる社会的・政治的経験によって豊かにされるもの、すべてを受け入れる余地を与えてくれました。アートはアートでないすべてのものによって豊かになるという包括的な考えを育むのが、私にとってのカウンシルの仕事です。なぜならアートは多次元的であって、より生き生きとした、より祝祭的な現実を描くことができるからです。だからこそ、アートが繁栄するためには、アートでないものもすべて保護し、支援しなければならないのです。私たちが助成しているものの多様性は、この考えを裏付けるものです」

私たちの財団は以前、アメリカの大量投獄問題に焦点を当てたアーティスト・アズ・アクティビスト・プログラムにも資金提供しています。これにより本当に恩恵を受けたのはアーティストたちでした。私はアーティストの支援を継続しながら、世界をより良く変えることを使命とする団体も支援しよう、と考えました。この分野で最初に行ったひとつが、フロリダ州イモカリーの団体への助成です。ボブが住んでいたフロリダ州で何かしたいと思い、トマトを収穫する移民労働者を支援する団体を助成しました。そこで女性たちはレイプされ、労働者は休憩なしに一日中太陽の下で働き、夜はトラックに閉じ込められていました。この組織は、消費者圧力で労働者の権利に関する法案を作成し、問題のいくつかを解決するのに大きな役割を果たしました。

パンデミック時には、アーティスツ・スペース(Artists Space)、ダンスペース(Danspace)、ザ・キッチン(The Kitchen)などの団体にも資金提供しました。パンデミックの影響を最も受けるのはダンサーであるとの調査結果を受けて、全米の6つの団体が運営する無料のリハーサルスペースにも助成し、ダンサーや振付師がそのスペースでリハーサルをする時間をカバーするための資金を提供しました。

このように私たちはさまざまな方法でアーティストをサポートしています。時代が違うので、ボブがやったことを再現するわけではありませんが、私たちは彼の価値観を強く意識しています。

部屋の写真。左側には黒いキッチン、右側には木目調のダイニングテーブルと食器棚があるロバート・ラウシェンバーグ財団の内観。ラウシェンバーグが使っていたキッチンもリノベーション。
撮影: Ron Amstutz, Courtesy of Robert Rauschenberg Foundation

アーティストと共に、周縁に目を向ける

神谷:5年間のパイロット事業であるAPJは今後、新しく設立されるリサーチセンターが継承します。組織は支援を通して何ができるでしょうか。あなたの財団がやってきたことは、アートの創造性そのものを支援するだけでなく、アートのためのプラットフォームのような存在にもなっています。さらに根底にあるのは、アーティストでいるための人間性、さらにはアーティスツ・カウンシルのように、アーティストとして生きていくための保険や基本的人権を守る組織などの部分までサポートしています。

ハルブライヒ:アーティストに専門家として参加してもらうべきだと思います。どのような分野を研究する必要があるのか、アーティストに協力を仰いで特定するのです。

私はつい先日、パーティシパント(Participant, ヒューストン・ストリートにあるギャラリー)の展覧会に行ってきました。90年代にアート界がエイズによって壊滅的になった後に活動していたアノーニの劇団ブラック・リップスについての展示でした。アノーニは当時、何の支援も受けられず、フードスタンプ(生活扶助のための政府による食料割引券)を使っていました。だからアントニー・アンド・ザ・ジョンソンズのバンドを始めたのです。週給5ドルの演劇よりも、音楽の方が生計を立てることができた。そして彼女の劇団ブラック・リップスは3年間、毎週新作を上演していました。役者のほとんどがトランスジェンダーの人たちでした。彼らは何も持たないままに開放的で、素晴らしくクリエイティブな人たちだったのです。

リサーチセンターは、あまり知られていない歴史を保存するべきです。もしそのようなセンターがニューヨークにあったら、エイズで亡くなった人たちとともに、ダウンタウンのシアターの歴史が消えてしまわないように保存すると思います。しかもそこにいた人たちはまだ生きています。パフォーマンスを続けている人もいます。

ウォーカー・アート・センターの実績で特筆すべきは、他のコレクションの「中心性」を真似るのではなく、「周縁性」に目を向けるようにしたことだと思っています。日本、ナム・ジュン・パイク、フルクサス、ボイス、そしてマルチプル作品まで、私たちはさらに多くのリサーチを手掛け、限られた予算で非常に素晴らしいコレクションを作り上げました。私が助言できるとしたら、周縁に目を向けること。そしてアーティストに参加してもらうこと。

神谷:境界線の外へ向うのですね。

ハルブライヒ:そのとおりです。

とにかく自分で行ってみる

神谷幸江が話をしている写真神谷幸江

ハルブライヒ:ここからが一番難しいのですが、この対談の依頼を受けてからずっと考えていたことがあります。私はもう、国家・民族で規定される展覧会を信じていないのです。

神谷:もうひとつの課題ですね。時代が変わったと言えるのかもしれません。

ハルブライヒ:変わったと思います。80年代にはなかったグローバリズムの負の側面が見えてきて、日本のアーティストをより広いネットワークに露出させることが複雑になっています。最良の方法は、人を招くことだと思います。実際に足を踏み入れる経験に代わるものはないと思うのです。東京の街を歩けば、ネオンやピカピカのビルが並ぶその2ブロック後ろには古い木造の家屋が並んでいる、といったように、時空のぶつかり合いを否応なく理解することになります。その場にいなければわからないことです。

神谷:パンデミックによって、現場にいることがとても貴重だと気づきました。

ハルブライヒ:全くです。シグマー・ポルケの展覧会を催した時、ケルンに16回も通い、文献を読み込みました。リサーチの早い段階で彼は亡くなったのですが、彼の図書館にあるすべての本を見ることができました。とにかくその場に居合わせる必要があります。時差ボケに悩まされるとしても、何かが見えてきますから。国際交流基金が私たちを招待し、何度も訪日させてくれたことは、本当に素晴らしいことだったと思います。

神谷:日本のアートシーンを代表して、お礼を申し上げます。あなたの好奇心と日本への敬意、いろいろなお話を聞いて本当に感銘を受けました。

キャシー・ハルブライヒからのお知らせ
去る1月、ロバート・ラウシェンバーグ財団のエグゼクティブ・ディレクターを5月末で退任すると発表しましたが、これは、目標の多くを達成し、次世代のリーダーのために機会を作ることが最も望ましいと確信したからです。私は、素晴らしい人たちと一緒に仕事ができたという大きな達成感と満足感と共に退任します。ボブの功績は確実に受け継がれており、私たちの慈善活動は、非常に困難な時期に人々の生活に変化をもたらすことができたと思います。次に何をするかは分かりませんが、これまで多くのことを学んできたアーティストと一緒に仕事をし続けることになると思います。


対談者プロフィール(敬称略)

キャシー・ハルブライヒ:ロバート・ラウシェンバーグ財団エグゼクティブ・ディレクター
ウォーカー・アート・センターの館長を16年間務めた後、2008年2月ニューヨーク近代美術館(MoMA)のアソシエイト・ディレクターに就任。2016年3月より同美術館の初代ローレンツ財団キュレーター、2017年9月より現職。過去100年でアメリカの博物館の各分野で先導的な役割を果たした功労者を表彰する American Association of Museums Centennial Honor Roll に選出されたひとり。バード大学より Award for Curatorial Excellence(2015)を受賞、フランス芸術文化勲章のシュヴァリエも受勲している。1995年の光州ビエンナーレではコミッショナーとして北米とキューバを代表。カーネギー・インターナショナルの企画アドバイザー、第10回および第13回ドクメンタに国際コミッティーのメンバーとして参加。2019年までドリス・デユーク財団とアンディ・ウォーホル財団のボードメンバーを務めた。

神谷幸江:キュレーター、美術評論
神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部史学科美術史専修卒業。デ・アペル(アムステルダム)キュレトリアル・プログラム修了。ニューミュージアム(ニューヨーク)アソシエイト・キュレーター、広島市現代美術館学芸担当課長、ジャパン・ソサエティー(ニューヨーク)ギャラリー・ディレクターを歴任。「第12回上海ビエンナーレ」(2018)共同キュレーター。国内外でアジアと他地域、異分野を横断する展覧会を企画する。手掛けた主な展覧会に小沢剛、オノ・ヨーコ、蔡國強、ス・ドホ、サイモン・スターリング、森村泰昌らの個展、「Re:Quest─1970年代以降の日本現代美術」(2013)、「ふぞろいなハーモニー:アジアという想像力についての批評的考察」(2015‒18)などの共同企画がある。2011年西洋美術振興財団学術賞を受賞。AICA(美術評論家連盟)会員。共著に『Creamier –Contemporary Art in Culture』(Phaidon/2010)、『Ravaged –Art and Culture in Times of Conflict』(Mercatorfonds/2014)、『Hiroshi Sugimoto: Gates of Paradise』(Skira/Rizzoli/2017)など。

写真:Ofra Lapid
編集・文:Kiri Falls
翻訳:小出彩子
構成:合六美和