- 作家名
- タウト, ブルーノ
- TAUT,Bruno (index name)
- Bruno,Taut (display name)
- ブルーノ・タウト (Japanese display name)
- ぶるーの たうと (transliterated hiragana)
- Bruno Julius Florian Taut
- 生年月日/結成年月日
- 1880-05-04
- 生地/結成地
- 東プロイセン・ケーニヒスベルク
- 没年月日/解散年月日
- 1938-12-24
- 没地/解散地
- イスタンブール
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 建築
- 2021
- 東京文化財研究所「ブルノー・タウト」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2021-12-10. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8429.html
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「ブルノー・タウト」『日本美術年鑑』昭和15年版(118頁)独逸の建築家ブルノー・タウトはトルコ、イスタンブールに於て脳溢血のため旧臘24日逝去した。享年59歳。昭和8年来朝して、3ヶ年余り日本に滞在、高崎市外少林山に寓居し、我が国の古建築及び文化全般に就て研究を続けた。「ニツポン」「日本文化私観」をはじめ数種の著述がある。滞在中、自己の建築作品は終に残さなかつたが、商工省工芸指導所及び高崎工芸指導所に関係して、工芸の方面に於て忘却し得ぬ大いなる業績を残し...
東京文化財研究所で全文を読む
Powered by
Wikipedia
ブルーノ・タウト(Bruno Julius Florian Taut、1880年5月4日 - 1938年12月24日)は、ドイツの東プロイセン・ケーニヒスベルク生まれの建築家、都市計画家[1]。鉄の記念塔(1913年)、ガラスの家(1914年)が評価され、表現主義の建築家として知られる。 1933年、ナチスの迫害から逃れるため海外に滞在先を探していた際に、前年にあった上野伊三郎率いる日本インターナショナル建築会からの招聘を受け入れ、1933年に来日し3年半滞在した[2]。日本では建築設計の仕事を得られなかったことから、トルコ政府の招きにより転地し、1938年に当地で没した。
Information from Wikipedia, made available under theCreative Commons Attribution-ShareAlike License
- 2023-02-20