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平川敏夫

| 1924-10-16 | 2006-05-14

HIRAKAWA Toshio

| 1924-10-16 | 2006-05-14

作家名
  • 平川敏夫
  • HIRAKAWA Toshio (index name)
  • Hirakawa Toshio (display name)
  • 平川敏夫 (Japanese display name)
  • ひらかわ としお (transliterated hiragana)
生年月日/結成年月日
1924-10-16
生地/結成地
愛知県宝飯郡小坂井町(現・豊川市)
没年月日/解散年月日
2006-05-14
性別
男性
活動領域
  • 絵画

2021
東京文化財研究所「平川敏夫」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2021-12-10.

日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art

日本画家で創画会会員の平川敏夫は5月14日、肺炎のため死去した。享年81。1924(大正13)年10月6日、愛知県宝飯郡小坂井町に生まれる。1940(昭和15)年に高等小学校を卒業、京都の図案家稲石武男の塾に住み込み、仕事の中で日本画材の扱いなど基礎を身につける。翌年太平洋戦争の勃発により京都から帰郷。戦後、47年に我妻碧宇によって結成された新日本画研究会で中村正義らとともに学ぶ。50年第1回豊橋...

「平川敏夫」『日本美術年鑑』平成19年版(370頁)

Wikipedia

平川 敏夫(ひらかわ としお、1924年10月16日 - 2006年5月14日)は、宝飯郡小坂井町(現在の豊川市)出身の日本画家。創画会会員。新制作協会展を中心に活躍。昭和49年創画会結成に参加。樹木を題材に生命力を表現した樹のシリーズを発表。中国旅行後は水墨画を追求した。代表作に「白樹」「樹濤」などがある。1980年「樹木をテーマにした日本画新様式の確立」に対して中日文化賞受賞。京都の稲石着尺図案塾で日本画の基礎的な技術を学び、開戦のためまもなく帰郷。中村正義との出会いによって本格的に日本画の制作を始めるようになる。1950年には正義の薦めで第3回創造美術展に出品し、以後、創造美術が新制作派協会と合併して新制作協会日本画部となった後も同展に出品を続ける。初期の作風は素朴派を思わせる幻想的な表現で漁村や夜の庭園、水辺の景色などを描き、第18回新制作展では《月の庭》など庭四題が新作家賞を受賞。やがて画面の色調は褐色系に寄り、陰影を強調した線でフォルムを切り抜く新たな表現様式へと踏み込むようになります。1953年、当地方を台風13号が襲い、家屋のみならず樹林にも大きな被害をもたらしたが、翌年にはあらたな芽吹きがみられ、そのたくましい生命力に触発されて樹々のシリーズが生み出された。当初は冬枯れの樹枝が波打つ様を描いていたが、やがて燃えさかる炎と化したかのような樹枝を朱で描いたシリーズに至る。また1970年代からはこれらの樹木のなかに古寺の塔を配した連作を発表。「塔は樹の魂」として画面のなかで象徴的な位置を占める。1980年代より画面から色彩が影を潜めるようになり、墨の濃淡を主体とした画境に到達する。従来の水墨画と一線を画すのは染色を思わせる「白抜き」の画法によるもので、深閑とした雪庭を描く《雪后閑庭》、紅葉の葉が幾層にも重なり合い、無彩であるにもかかわらず装飾美にあふれる《那谷寺仙境》などをあらわす。1990年、豊橋市美術博物館において初の回顧展「平川敏夫展」を開催。1997年には岐阜県美術館で「華麗なる変遷-平川敏夫展」が開催。 2006年5月14日に肺炎のため死去。享年81。

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VIAF ID
38335702
AOW ID
_40587285
NDL ID
00124270
Wikidata ID
Q11482736
  • 2023-02-20