- 作家名
- 和田三造
- WADA Sanzō (index name)
- Wada Sanzō (display name)
- 和田三造 (Japanese display name)
- わだ さんぞう (transliterated hiragana)
- 生年月日/結成年月日
- 1883-03-03
- 生地/結成地
- 兵庫県朝来郡生野町(現・兵庫県朝来市)
- 没年月日/解散年月日
- 1967-08-22
- 没地/解散地
- 東京都
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
作家解説
1883年、兵庫県朝来郡生野町[あさごぐんいくのちょう](現・朝来市)に生まれる。医者であった父・文碩の四男で、長男と三男は鉱山関係の仕事に就き、次男・正造は絵に秀でて東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学するが、夭折した。三造は少なからず正造の影響を受けていた。生野町の尋常高等小学校に入学するが、長男が福岡県大牟田市の鉱山業に従事したため、和田家は一家をあげて福岡市に転入する。1898年に修猷館[しゅうゆうかん]中学に入学し、柔道場明道館に通う。翌年福岡を出奔し上京、磯谷額縁店長尾建吉のもとに寄宿する。白馬会洋画研究所に入所し、1901年には東京美術学校西洋画科選科に入学する。同年第6回白馬会展に《病父》(所在不明)を出品。東京美術学校の柳敬助、熊谷守一、橋本邦助、辻永と下谷区入谷で共同生活を行う。1902年6月に八丈島へ航海中に暴風雨となり、3日間漂流して大島に漂着する。この体験が後の《南風》(1907年、東京国立近代美術館、重要文化財)制作の契機となる。1904年7月に東京美術学校を卒業。1905年には橋本邦助、辻永と雑誌『L.S.』を刊行する。同年の白馬会創立十年紀念絵画展に《伊豆大島風景》、《牧場の晩帰》(ともに所在不明)を出品し、白馬会賞を受賞している。
1907年、東京勧業博覧会に大島や逗子に取材した《漁夫》の出品を目指すが間に合わず、秋の第1回文部省美術展覧会(文展)のために《南風》を制作する。大島での漂流中に得も言われぬ風景に接したことを機に、結局4度の大島渡航を経て完成に至ったという。当時新派と言われた白馬会系の外光表現を用いながら、ヒロイックで力強い画面を構成した《南風》は、青年の覇気が満ちた快作として高い評価を受け、最高賞(二等賞)を受けている。急速な近代化の進展、日露戦争勝利という国家意識向上の時代の空気に適合したことも好評の一因であろう。翌年の第2回文展《煒燻》(所在不明)は賛否両論の話題作となり、再び最高賞(二等賞)を得た和田は美術学生としては異例の官費留学を果すことになる。西洋画研究のため、フランス、イタリアへ1909年から2年間留学の辞令を文部省から与えられるが、滞欧中はヨーロッパを妄信できずに、かえって東洋への意識を強めることとなる。結局帰国は予定を超えた1915年であり、西洋よりも帰途に寄ったシンガポールやインドに強い感化を受けたという。
帰国後は油彩画のみならず多方面に眼を向けることとなる。東洋的画題を中心とした日本画に挑戦し、油彩画においても支持体を紙にとり、砥の粉を塗るなどの工夫を施して油彩特有のテカリを避ける実験も行っている。1917年に委嘱された松本健次郎邸内装飾(旧松本家住宅、北九州市小倉、重要文化財)では南蛮絵更紗を採用することを決め、斎藤五百枝や山形駒太郎、草光信成、京源の染物師などによる共同制作を行い、完成後は各地からの反響を得た。以後、和田はプロデューサーとして様々なプロジェクトに関わっていくことになる。
1920年頃には髙島屋の後援で染色芸術研究所を設置、その後新橋演舞場(東京)や新歌舞伎座(東京)の緞帳制作に関わる。1921年には朝鮮総督府新庁舎(京城、現・ソウル)壁画(現在は韓国国立中央博物館蔵)制作依頼を受けて各種の下絵を制作し、1926年に大西豊次郎らと共に設置に立ち会う。日本と朝鮮に共通する羽衣の伝説を題材に土佐紙や麻、日本画絵具と油絵具などを併用した和田ならではのアイデアを活かしたプロジェクトとして完成している。1927年には日本標準色協会を設立し、『色名総鑑』(春秋社、1931年)、『配色総鑑』(博美社、1933–1934年)を発行するなど色彩研究プロジェクトも立ち上げている。
1931年には朝日新聞社委嘱により満州事変取材を行い陸軍省より満州事変記録画の委嘱を受けている。1932年より東京美術学校図案科教授に就任するが、当初西洋画科へオファーがあったのを図案科ならと承諾したと言われる。1937年のパリ万博に際しては参加計画一般及び日本館の商店部を担当し、各地の職人にかけあって出品物を斡旋した。同年には木版画版元西宮書院の『大日本魚類画集』(大野麥風画、1937–1944年刊)の監修にあたり、1939年には同書院から自作木版画『昭和職業絵尽』(1939–1941年)の刊行を始めている。1940年開催予定で結局中止となった東京オリンピックのポスターも担当した。このように、関係する仕事のヴァリエーションには目を見張るものがある。
戦後も木版画、日本画に力を注ぐとともに、1953年には大映映画「地獄門」(衣笠貞之助監督)の色彩指導を担当、この仕事により1955年にアカデミー賞衣装デザイン賞を受賞した。1956年には京都浮世絵動画研究所を設立しアニメ制作にも乗り出す。1958年には文化功労者の表彰を受けた。
一般には重要文化財《南風》の洋画家と知られ、和田の業績と言えば逆に《南風》以外には想起しにくいというのが正直なところであろう。《牧場の晩帰》や《煒燻》という《南風》以外の主要作が現存していないこともその理由のひとつではあろう。しかし、上記のように色彩研究や染織工芸、日本画、木版画、映画、アニメと、進取の気性に富んだ、器用な多才さが和田自身の個性であったのは本人も自覚するところであり、《南風》の延長線上の作家に留まることは本人の関心外であったはずである。明治生まれの美術家には複数の分野で活躍を見せる人物も多いが、その中でも典型的なマルチタレントの一人だったといえよう。
(平瀬 礼太)(掲載日:2023-09-11)
- 1979
- 和田三造展, 北九州市立美術館, 1979年.
- 1985
- 白滝幾之助・和田三造・青山熊治展: 兵庫が生んだ近代洋画の先駆者, 加古川総合文化センター, 1985年.
- 2004
- The Occupations of Shōwa Japan in Pictures: The Woodblock Prints of Wada Sanzō, 南カリフォルニア大学 パシフィック・アジア美術館, 2004年.
- 2004
- 白滝幾之助・和田三造・青山熊治: 但馬・生野が生んだ三巨匠: 近代日本洋画の先駆者たち , 兵庫県立円山川公苑美術館, 2004年.
- 2009
- 和田三造展, 姫路市立美術館, 2009年.
- 東京国立近代美術館
- 東京藝術大学大学美術館
- 出光美術館, 東京
- 姫路市立美術館, 兵庫県
- 兵庫県立美術館
- 福岡市美術館
- 韓国国立中央博物館, ソウル
- 1979
- 北九州市立美術館編『和田三造展』北九州: 北九州市立美術館, 1979年 (会場: 北九州市立美術館) [展覧会カタログ].
- 1984
- 和田三造生誕百年記念会編『和田三造とその偉業』全2冊, 東京: 六芸書房, 1984年.
- 1999
- 手塚恵美子「和田三造作朝鮮総督府壁画について: 「平和の絵」の意味を求めて」『文化学研究』第8号 (1999年7月): 89-119頁. 川崎: 日本女子大学文化学会.
- 2009
- 姫路市立美術館編『和田三造展』[姫路]: 姫路市立美術館友の会, 2009年 (会場: 姫路市立美術館) [展覧会カタログ].
- 2010
- 加藤信朗「和田三造画「イエスの一生」二十八葉の連作」『宗教と文化』27号 (2010年3月): 121–138頁. 東京: 聖心女子大学キリスト教文化研究所.
- 2010
- 平瀬礼太「一美術家の東洋: 和田三造の見つめたもの」『美術フォーラム21』21号 (2010年5月): 69-74頁.
- 2018
- 松井日向子「和田三造の色彩研究と映画の色彩」『日本文化論年報』21号 (2018年3月): 1-59頁.
- 2019
- 東京文化財研究所「和田三造」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9183.html
- 2019
- 鈴木慈子「和田三造の朝鮮総督府壁画をめぐって」『兵庫県立美術館研究紀要』13号 (2019年3月): 4–11頁.
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「和田三造」『日本美術年鑑』昭和43年版(148-149頁)日本芸術院会員、日展顧問、財団法人色彩研究所長の洋画家和田三造は、8月22日午前零時10分、燕下性肺炎のため東京逓信病院で死去した。享年84才。和田三造は黒田清輝に師事し、東京美術学校西洋画科選科卒業後、第1回文展に、後に日本における外光主義の記念碑的作品を評価されるようになった「南風」を出品、二等賞をうけた。その後、海外留学、帰朝後は工芸美術の研究にもあたり、東京美術学校教授となって、図案科の指...
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和田 三造(わだ さんぞう、1883年(明治16年)3月3日 - 1967年(昭和42年)8月22日)は、明治・大正・昭和期の日本の洋画家、版画家。帝国美術院会員。1953年(昭和28年)、大映映画『地獄門』で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、この作品で、1954年(昭和29年)の第27回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞。玄洋社社員。
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- 2024-04-03