A2088

和田英作

| 1874-12-23 | 1959-01-03

WADA Eisaku

| 1874-12-23 | 1959-01-03

作家名
  • 和田英作
  • WADA Eisaku (index name)
  • Wada Eisaku (display name)
  • 和田英作 (Japanese display name)
  • わだ えいさく (transliterated hiragana)
生年月日/結成年月日
1874-12-23
生地/結成地
鹿児島県肝属郡垂水村(現・鹿児島県垂水市)
没年月日/解散年月日
1959-01-03
没地/解散地
静岡県清水市
性別
男性
活動領域
  • 絵画

作家解説

1874年、鹿児島県肝属郡垂水村[きもつぐんたるみずむら](現・垂水市)に生まれる。父・秀豊は牧師だった。英作が3歳だった1878年に一家は上京し、秀豊は海軍兵学校の英語教官となる。1887年、芝区立鞆絵[ともえ]小学校を卒業し、明治学院に入学。同校の図画教師・上杉熊松に洋画の基礎を学ぶ。上杉は工部美術学校でサン・ジョヴァンニに学んだ画家だった。1890年4月、15歳のとき第3回内国勧業博覧会で、原田直次郎《騎龍観音》や曽山幸彦《武者試鵠[むしゃしこく]》、本多錦吉郎《羽衣天女》などを見て、洋画の道へ進む気持ちを固める。翌年1月、明治学院を中退して上杉の個人指導を受けるようになり、4月には、上杉の紹介で曽山の画塾に入門した。同門に、岡田三郎助、中澤弘光、三宅克己[こっき]、矢崎千代二らがいた。1892年1月に曽山が急逝したため、原田直次郎の画塾・鍾美館[しょうびかん]に移る。明治美術会に油彩画を出品する傍ら、円山派の久保田米僊に日本画を学んだ。1894年、原田が病気療養に入ったため、前年にフランスから帰国したばかりの黒田清輝と久米桂一郎が主宰していた画塾・天真道場に移る。1880年代後半にパリで画家となった黒田の画面は、それまでの日本にはなかった外光表現を備えていた。のち和田は、最初の印象を「黒田先生を画室にお訪ねして、製作を見せて貰つて全く自分の夢にも見なかつた、天地の境の幕を切つて見せて貰つた様な、嬉しさを感じた」と述懐している。脂派[やには]とも呼ばれるようになる旧来の油彩画に親しんだ画家たちには眩しいほどの明るさから、和田と同様、多くの同世代の洋画家たちが、黒田がフランスから持ち込んだ画面に衝撃を受けていた。1896年6月に黒田が中心になり、旧派に飽き足らなかった画家たちが糾合して結成された白馬会に、和田は会員として参加。9月、黒田が主任となって東京美術学校(現・東京藝術大学)に西洋画科が開設されると、和田はその助教授に指名された。黒田の高い評価と厚い信頼が窺える。 しかし翌1897年2月、和田は思うところあって助教授を依願退官し、西洋画科選科4年級に入学した。直ちに卒業制作に取りかかり、《渡頭の夕暮》(東京藝術大学)を完成させて7月に卒業、これを10月の第2回白馬会展で発表した。この大画面作品は、黒田《昔語り》(1898年、焼失)の現代風俗画という側面を受け継ぎ、夕景の広々とした多摩川畔で渡し船を待つ農民一家を題材とすることによって、見る者が共有しやすい牧歌的郷愁を、群像表現で描き出すことに成功した代表作である。再び助教授となったのち、黒田の紹介で知り合ったオーストリア人アドルフ・フィッシャーの日本美術収集品の整理を補佐することを名目に、1899年8月ベルリンへ渡る。ドイツにいながらにして文部省留学生となることを命じられ、翌年3月にはパリに移った。かつて黒田が師事したラファエル・コランにつき、1903年7月に帰国するまで、ルーヴル美術館でジャン = フランソワ・ミレーやカミーユ・コローの模写を行う。またパリ近郊のグレー = シュル = ロワンに、東京美術学校の同僚教官でもある浅井忠とともに長期滞在し作品を制作。この間、旧派の流れを汲む鹿子木孟郎[かのこぎたけしろう]や、建築史家・塚本靖らと親交を深める。帰国後、ヨーロッパ留学の実績により教授に昇任した。 和田は東京美術学校の指導者として、黒田が移入しようと考えた美術教育を実践した。特に、1924年に黒田が死去したのちは、その正統な後継者と位置づけられる。黒田の遺作画集編纂の中心となったことはまさに象徴的である。1936年に辞するまで、和田は長く同校で後進の指導にあたるが、特に最後の4年間は校長となり、文部大臣松田源治による1935年の松田改組など、文部行政と美術界の軋轢や混乱のなか、困難な学校運営に腐心した。作品の発表は、1907年から始まる文部省美術展覧会(文展)、のち帝国美術院展覧会(帝展)という、政府主催の展覧会を主な舞台とする。 黒田清輝が生涯をかけて形成しようとした官立美術学校と官展を頂点とするアカデミズムを、黒田に代わって牽引したという側面が、従来強調されてきた。1910年代以降、次々に流入する西洋美術の新思潮に背を向け、黒田を敢えて乗り越えようとしなかった油彩画家だという常套句で語られることが多い。たしかに、清新な感覚を前面に打ち出す1890年代、20代のときの作品に比べて、洋画壇と美術教育界の中心に立ってからの作品には、依頼肖像画や、風景画、静物画に堅実な写実主義を示しつつも、新しい挑戦に向かおうとする意欲が乏しいように見える。しかし一方で、1900年代から1910年代にかけて、大画面の建築装飾画を手がけたことには注目すべきだろう。岩崎彌之助高輪邸(現・関東閣)舞踏室壁画(1908年)、交詢社演芸室壁画(1908年)、帝国劇場天井画《羽衣》(1911年)、東宮御所赤坂離宮喫煙室(現・迎賓館東の間)壁画(1914年)、中央停車場(現・東京駅)皇室専用入口中央大ホール壁画《海の幸・山の幸》(1914年)、日光東照宮宝物館壁画《百物揃千人行列の図》(1915年)、開港記念横浜会館(現・横浜市開港記念会館)階段室壁画(1917年)などである。東京美術学校西洋画科の卒業生を動員する組織力と、大画面をつくりあげる構想力がなければ実現できなかった作品群である。その多くは震災と戦災によって焼失し、あるいは広く公開される環境にはないことが惜しまれるが、近年、そうした作例の研究と再評価が進んでいる。空間を装飾する公的な大画面への希求という点では、1918年に法隆寺金堂壁画に取材した歴史画《壁画落慶之図》(法隆寺、奈良)を描き、その金堂壁画そのものを1940年に油彩で模写したことにも通底している。 第二次世界大戦末期の1945年4月に戦火を避けて東京市麻布区(現・港区)笄町[こうがいちょう]から愛知県知立町(現・知立市)に疎開し、戦後さらに静岡県三保(現・静岡市清水区)に転居する晩年は、凡庸とも思える題材であるバラと富士山を軸に穏健な作品を繰り返し描き、浮沈の少ない画業を送った。「バラ富士太郎」などとも揶揄される。だが、黒田との出会い以前に身につけた旧派の表現や、日本固有の題材への選好が、生涯に渡って見え隠れする。1920年代に天平期を主題にする時代錯誤ともいえる歴史画を手がけ、前述のように東京美術学校長退官後は法隆寺金堂壁画の模写にも取り組み、最晩年には、居住地・三保ゆかりの羽衣伝説を絵画化する願望を周辺に洩らしていた。身辺雑記的な題材以外にも民族史に連なる大きな物語への志向も失われていなかったといえる。一見ではわかりにくい振り幅を隠しもった油彩画家だったということができるだろう。黒田への全幅の信頼と尊敬を保ち続けた一方で、黒田との出会い以前の、曽山や原田から学んだもの、あるいは東京美術学校奉職以後の、旧派の代表者ともいえる浅井や鹿子木との心温まる交流も、この画家の厚みを支えている。 (貝塚 健)(掲載日:2023-09-11)

1961
和田英作遺作展, 日本橋三越, 1961年.
1974
和田英作展: 生誕百年記念, 鹿児島市立美術館, 1974年.
1983
日本近代洋画の巨匠とフランス: ラファエル・コラン, ジャン=ポール・ローランスと日本の弟子たち, ブリヂストン美術館, 三重県立美術館, 愛媛県立美術館, 長崎県立美術博物館, 1983–1984年.
1985
鹿児島市立美術館開館記念展: 日本近代洋画史における郷土作家たち その1: 黒田清輝・藤島武二・和田英作, 鹿児島市立美術館, 1985年.
1988
写実の系譜Ⅲ: 明治中期の洋画, 東京国立近代美術館,京都国立近代美術館, 1988–1989年.
1996
白馬会: 明治洋画の新風: 結成100年記念, ブリヂストン美術館, 京都国立近代美術館, 石橋美術館, 1996–1997年.
1998
和田英作展, 静岡県立美術館, 鹿児島市立美術館, 1998年.
2002
油画の卒業制作と自画像: 「洋画」の青春群像, 東京藝術大学大学美術館, 2002年.
2007
近代洋画の巨匠: 和田英作展: 三河・知立と刈谷に残した足跡を中心に, 刈谷市美術館, 2007年.
2011
ぬぐ絵画: 日本のヌード 1880–1945, 東京国立近代美術館, 2011–2012年.
2016
和田英作展: 日本近代洋画の巨匠, 刈谷市美術館, 佐野美術館, 神戸市立小磯記念美術館, 都城市立美術館, 2016年.

  • 石橋財団アーティゾン美術館, 東京
  • 岩崎美術館, 鹿児島県指宿市
  • 鹿児島県歴史・美術センター黎明館
  • 鹿児島市立美術館
  • 静岡県立美術館
  • 泉屋博古館東京
  • 東京藝術大学大学美術館
  • 東京国立近代美術館
  • 府中市美術館
  • 松下美術館, 鹿児島県霧島市

1902
浅井黙語[浅井忠], 和田外面[和田英作]「愚劣日記」『ホトトギス』第5巻第4号 (1902年1月): 10-19頁 [自筆文献].
1909
杢助[浅井忠], 紫桐[和田英作]「愚劣日記」『木魚遺響』76-139頁. 京都: 山田芸艸堂, 1909年.
1910
坂井犀水「和田英作氏 現今の大家: 11」『美術新報』第10巻第2号 (1910年12月): 4-9頁.
1957
隈本謙次郎「白馬会を中心として 明治中期の洋画, 2」『美術研究』第192号 (1957年5月): 6-34頁.
1985
丹尾安典「和田英作: 世紀末のこだま」『比較文学年誌』21号 (1985年3月): 85-101頁.
1992
丹尾安典「1900年パリ万博と本邦美術」 『日本近代美術と西洋: 明治美術学会国際シンポジウム』東京: 中央公論美術出版, 1992年, 257-271頁.
1994
『和田英作 アサヒグラフ別冊: 第20巻第9号 美術特集日本編: 81』東京: 朝日新聞社, 1994年.
1998
岡部幹彦「花袋の小説『渡頭』と和田英作」『絵』第410号 (1998年4月): 23-26頁.
1999
泰井良「和田英作「欧州日記」について」『静岡県立美術館紀要』14号 (1999年3月): 41-61頁.
2005
植野健造『日本近代洋画の成立: 白馬会』東京: 中央公論美術出版, 2005年.
2005
泰井良「和田英作《富士》について: その制作姿勢と位置付け」『静岡県立美術館紀要』20号 (2005年3月): 78-69, 16頁.
2007
手塚恵美子「和田英作日記 1921年8月16日-1922年2月7日 資料紹介」『近代画説』16号 (2007年12月): 1-43頁.
2008
手塚恵美子「研究発表: 要約: 和田英作と装飾美術――アール・ヌーヴォーから建築装飾へ」『近代画説』第17号 (2008年12月): 138-140頁.
2014
岩瀬慧「和田英作《こだま》とアレクサンドル・カバネルをめぐる一考察」『NACT review 国立新美術館研究紀要』1号 (2014年11月): 222-223頁.
2016
冨士根智之 [ほか] 編『和田英作展 : 日本近代洋画の巨匠』[笠間, 刈谷, 三島, 神戸]: 日動美術財団 , 刈谷市美術館 , 佐野美術館 , 神戸市立小磯記念美術館, 2016年 (会場: 刈谷市美術館, 佐野美術館, 神戸市立小磯記念美術館, 都城市立美術館).
2019
東京文化財研究所「和田英作」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8932.html

日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art

帝室技芸員、日本芸術院会員で洋画壇の長老和田英作は、1月3日静岡県清水市に於いて、膀胱癌のため没した。享年83歳。同10日明治学院講堂で葬儀を行つた。明治7年12月23日鹿児島県に生まれ、幼くして上京、明治学院に学び、上杉熊松の指導を受けた。同24年退学して画業に専心し、曾山幸彦、原田直次郎に学び、次いで天真道場に入つて黒田清輝、久米桂一郎の指導を受けた。同29年東京美術学校助教授に任ぜられたが、...

「和田英作」『日本美術年鑑』昭和35年版(137-139頁)

Wikipedia

和田 英作(わだ えいさく、1874年12月23日 - 1959年1月3日)は、鹿児島県出身の洋画家・教育者。東京美術学校校長(1932年-1936年)。文化勲章受章者、文化功労者。父は和田秀豊、弟は和田秀穂。

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VIAF ID
49189873
ULAN ID
500337255
AOW ID
_00001862
Benezit ID
B00193344
NDL ID
00089834
Wikidata ID
Q11418113
  • 2024-02-08