李禹煥

1936年、韓国慶尚南道咸安郡に生まれる。幼少期、李家に度々訪れていた文人画家から詩・書・画を学ぶ。李は筆の使い方を学び、点を打ち線を引く訓練を繰り返した。極小の要素を反復することを最初期に経験したことは、李の芸術のその後の発展を基礎づけるものとなった。1950年、咸安を離れ、釜山の慶南中学校に入学。1953年ソウル大学校師範大学附属高等学校に入学。詩人や小説家を志すが、1956年に進学したのはソウル大学校美術大学であった。同年夏、横浜に住む叔父の病気を見舞うために来日し、そのまま日本に滞在した。1957年拓殖大学で日本語を学び、1958年日本大学文学部哲学科に編入。1962年在留資格を得るために日本画団体である日本画府に所属。1966年朝鮮奨学会館（東京都新宿）に勤務し、同会館に付設されたギャラリー新宿の運営にも関わる。同画廊を通じて錯視的効果を狙った新しいスタイルの美術など現代美術全般に関心を持つようになる。また、この頃、批評家石子順造の知遇を得る。1968年5月第3回ジャパン・アート・フェスティバルに分割した鉄板の上にガラスを重ね、その上に石を置いた作品を出品するが国籍を理由に受理されなかった。同年7月「韓国現代美術展」（東京国立近代美術館）に単色の蛍光塗料を全面に塗布した作品《風景I, II, III》（再制作、群馬県立近代美術館 寄託）を出品。また、同年10月、石子順造の薦めで美術出版社の芸術評論募集に論文「事物から存在へ」を応募し、1969年3月に入賞を果たす。 関根伸夫が神戸須磨離宮公園現代彫刻展にて《位相−大地》を発表したのもこの時期であった（1968年10月）。大地に巨大な円筒形の穴を掘り、掘り出した土をその横に同じ形体で置いたその作品を、当時多くの関係者が1968年4–5月に東京画廊と村松画廊で開催された「Tricks and Vision展 — 盗まれた眼」展（石子順造と中原佑介の共同企画）と結び付けて解釈した。それに対して、李はトリッキーな表現ではなく「ものの状態の一時的な変化にすぎない」（註1）と主張した。関根は、トポロジーの理論を援用して生み出した《位相—大地》が、李の解釈によってより拡がりを持つ芸術に繋がると確信し、関根の周囲にいた作家仲間を誘い、李を中心に新しい芸術に関するミーティングを1年以上に渡って繰り返す（註2）。その成果は『美術手帖』1970年2月号特集「発言する新人たち」で誌上公開された座談会「〈もの〉がひらく新しい世界」で披露される。また李は同雑誌に論考「出会いを求めて」を寄稿した。後に「もの派」と称されるようになる美術運動は、この座談会に出席した李禹煥、小清水漸［すすむ］、関根伸夫、菅木志雄、成田克彦、吉田克朗を中心に展開することになる。 1969年8月、「現代美術の動向」展（京都国立近代美術館）に、ガラス板の上に石を載せてガラスが割れた現象をみせる作品《知覚と現象B》（改題《関係項》）などを発表する。このような対比的な性質を持つ素材を組み合わせた最初期の作品である。同展には小清水の巨大な紙袋に巨石が入った作品、吉田の大きな角材に鉄板を載せた作品等が出品された。そのような示威的作品がより集中的に提示されたのは1970年8月に東京国立近代美術館で開催された「1970年8月 現代美術の一断面」展である。企画した東野芳明のコメントによれば同展は若手作家の新しい表現をそのままに提示する試みであり、前述した座談会に参加した作家がほぼ全員揃って出品した当時唯一の展覧会だった（但し、関根伸夫はヴェネチア・ビエンナーレ出品のため不参加）。李は同展に《関係項（於いてある場所）I, II, III》（改題《関係項》）というタイトルで、作品素材とその置かれた場所との関係性を問うインスタレーションを出品した。李が自身の彫刻作品に「関係項」と命名するのは1972年頃からであるという記録もあるが、この作品はその先駆けであり、「問題なのは、ひとつの事物と他の事物の関係ではなく、（項が示しているのは）周囲空間」であることを表したものだった（註3）。1971年9月、第7回パリ青年ビエンナーレに韓国代表として参加、床に置いたカンヴァスの上に石を載せた作品《Situation》（改題《関係項》）などを出品する。しばらくヨーロッパに滞在した後にアメリカを経由して帰国。ニューヨーク近代美術館でバーネット・ニューマン個展と邂逅、同作家の芸術を介して、自らの作品構想に確信を持つに至る。李は、これまでとは異なる絵画の系譜を生み出すことを考えていたのである。1973年9月、東京画廊で個展を開催、新しい絵画作品シリーズ《点より》、《線より》を初めて発表する。カンヴァスに顔料を含ませた筆を繰り返して置いていく、或いは顔料が無くなるまで線を引く、という行為の積み重ねによって成立するそれらの作品は、外界の形象を抽出して生み出されるような近代主義的な芸術とは全く異なり、作家の芸術思考を形象化する表現であった。1974年5月、ドイツのクンストハレ デュッセルドルフで開催した「日本 ― 伝統と現代」展に展示した点・線シリーズ3点（1973年）等が注目され、その後、ヨーロッパで多くのグループ展に招待されるようになる。1978年8月、しばらく絵画制作を中心に活動していた李がギャラリーm（ボーフム、ドイツ）で《関係項》14点による大規模な彫刻展を開催し注目される。そのような環境の変化と併行して、1980年代に入り、李の絵画にも新たな試みが始まる。点・線シリーズは、直線的な垂直・水平構造を形成していたが、斜線の筆触が加わり、その動きに対応する線が現れ、作家の制御を離れた、不規則な表情を持つ筆触が画面を占有するようになる。当初《無題》として現れたそれらの絵画は、《風より》（1982–1990年）、《風と共に》（1987–1991年）と命名され、80年代の李の絵画作品の中心を成すようになる。 1988年1月、岐阜県美術館が企画した大規模な個展が開催される。また、同年4月には、ローマ大学附属現代美術研究所で、日本国外で初めての大規模な「もの派」展が開催される。以下、同様の大規模な個展を列記しよう。1991年5月ハラ･ミュージアム･アーク（現・原美術館ARC）、1993年4月神奈川県立近代美術館、1994年9月韓国国立現代美術館、1997年11月ジュ・ド・ポム国立美術館（パリ）、2001年6月ボン市立美術館（ドイツ）、2003年10月ホアム美術館とロダン･ギャラリー（ソウル、韓国）、2005年9月横浜美術館、2008年4月ベルギー王立美術館（ブリュッセル）、2011年ソロモン・R. グッゲンハイム美術館（ニューヨーク）、2014年6月ヴェルサイユ宮殿（フランス）、2019年2月ポンピドゥー･センター = メス（フランス）、同年9月ハーシュホーン美術館・彫刻庭園（ワシントンDC）、2022年8月国立新美術館（東京）等で開催されている。また、「もの派」の大規模展としては、1987年6月「もの派とポストもの派の展開」展（西武美術館、東京）、1995年2月「1970年 — 物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」（岐阜県美術館、広島市現代美術館、北九州市立美術館、埼玉県立近代美術館、サン = テティエンヌ近代美術館、フランス）、2001年5月「もの派」展（ケンブリッジ大学、ケトルズヤード）、2005年10月「もの派—再考」展（国立国際美術館、大阪）、2012年2月「太陽へのレクイエム：もの派の芸術」展（ブラム&ポー、ロサンゼルス）等がある。これらの「もの派」展で1970年前後の立体作品（鉄板と石による《関係項》）等を再展示する機会を得る。さらに近年では、李禹煥の個人美術館が複数館設けられている。2010年6月、香川県直島に李禹煥美術館、2015年4月、釜山市立美術館敷地内に李禹煥空間、2022年4月、フランスのアルルに李禹煥アルルが、それぞれ開館している。 大規模な回顧展が開催されるようになった1990年以降も、李は自らの絵画・彫刻作品の新たな在り方を続けて考えている。1989年11月、東京画廊とギャラリー上田で開催された個展で発表した《風と共に》は、画面全体に自由な筆致が拡がる。しかしながら、1991年に制作された同じタイトルの作品では、筆触が整理されて画面には余白ができる。同年、新シリーズ〈照応〉の制作が始まる。同作品は、李の初期絵画の原則であった垂直あるいは水平方向の法則が復活し、さらに太く短くそして強い筆触という条件も課され、カンヴァス内数箇所に限定される抑制された画面構成を表した。作品タイトルも、「風」といった自然界の事象から観念的な用語へと変わったようにも見えるが、外からの作用を表す言葉としての繋がりはあるだろう。先に李自身の彫刻から絵画への影響を述べたが、1993年神奈川県立近代美術館での個展開催時には、絵画に現れた余白が彫刻作品《関係項》を構成する鉄板と石の関係性に変化を与えたという指摘もある（註4）。2000年代に入り、李の絵画表現はより限定された表現へとさらに変容する。大きな刷毛を用いてグレーのグラテーションを表す方形状の筆触が画面に数個あるいはひとつだけ配置された作品〈対話〉は、遂には2枚組のカンヴァスの一方が完全な空白となるような表現に至る。言うならば「無」の体現であるだろう。 このような境地に達しても、李は次なる表現を求めた。2007年頃から、絵画は《照応》から《対話》へと移行する。その作品は、モノクロームで貫かれていた自らの絵画作品に、青と赤という対比した色彩がひとつの画面に同時に用いるのである。それは色彩同士の対話でもあり、あるいはその変化を捉えた鑑賞者が、李の作品と語らう対話を誘うものでもあるだろう。李禹煥の芸術作品はこのように観る者まで誘い、自らの芸術作品との合一を考えるかのようでもある。李禹煥の作品は、西洋文明一辺倒であった芸術世界に、東洋の世界観を背景とした芸術思想が成立することを体現してきたと言うことができるだろう。 （中井 康之）（掲載日：2023-09-11） 註1 李禹煥、中原佑介（対談）「トリックス･アンド･ヴィジョン展と石子順造のこと」『石子順造とその仲間たち…対談集』特定非営利法人 環境芸術ネットワーク 虹の美術館、2002年、70頁。 註2 関根伸夫『風景の指輪』株式会社図書新聞、2006年、64–65頁。 註3 崔玉憬「年譜」『李禹煥 余白の芸術』展カタログ、横浜美術館、2005年、93頁。（　）は引用者による加筆。 註4 同上、97頁。