- 作家名
- 萬鉄五郎
- YOROZU Tetsugorō (index name)
- Yorozu Tetsugorō (display name)
- 萬鉄五郎 (Japanese display name)
- よろず てつごろう (transliterated hiragana)
- 萬鐵五郎
- 万鉄五郎
- 生年月日/結成年月日
- 1885-11-17
- 生地/結成地
- 岩手県東和賀郡十二ケ村(現・花巻市東和町土沢)
- 没年月日/解散年月日
- 1927-05-01
- 没地/解散地
- 神奈川県茅ケ崎市
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
作家解説
萬鉄五郎は、1885(明治18)年11月17日、岩手県花巻市東和町土沢[とうわちょうつちざわ]に生まれる。幼いころから絵を描くことが好きだった彼は、小学校時代から水墨画の本格的な指導を受けていた。1901(明治34)年には、水彩画家の大下藤次郎が著した『水彩画之栞』(東京:新声社、1901年)を知り、色彩に富んだ西洋絵画に魅了されていく。1903(明治36)年に中学進学を許され上京。早稲田中学に入学した萬は、著者の大下のもとを訪ね直接指導を受けるなど、水彩画熱はますます高まっていく。一方、日暮里にあった禅道場「両忘庵[りょうぼうあん]」に参禅するようになり、1906(明治39)年に中学を卒業すると禅道場の一行とともに渡米。ニューヨークの美術学校入学を目指すものの望みは叶わず、半年足らずで帰国している。翌1907(明治40)年4月、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科予備科に入学し、同年9月には同科本科に首位の成績で進む。
美術学校の初期は、教授の黒田清輝がもたらした外光派といわれる陽光をとり入れた平明な写実表現に惹かれ、色彩豊かな明るい描写を試みる。高学年の1910(明治43)年前後になると、ヨーロッパの新しい美術思潮が次々ともたらされ、萬は逸早く感応し後期印象派やフォーヴィスムといった主観的な表現に傾倒していく。卒業制作の《裸体美人》(1912年、東京国立近代美術館、重要文化財)は、「ゴッホやマチスの感化のある」(萬鐵五郎「私の履歴書」『中央美術』第11巻第10号、1925年11月1日発行)と自ら語るように、日本におけるフォーヴィスムの最も早い主体的な作品である。しかし教授陣の評価は低く、卒業さえ危ぶまれるものだった。1912(明治45)年、東京美術学校を卒業した萬は、同年の秋には「フュウザン会」結成に参加。この会は、後期印象派やフォーヴィスムなど新しい絵画表現を求める青年画家たちによる日本初の集団として画期的な役割を果たすことになる。萬は、ゴッホの感化が顕著な《女の顔(ボアの女)》(1912年、岩手県立美術館)、フォーヴィスムやナビ派の傾向が色濃い《風景・春》(1912年、宮城県美術館)他を出品。その後は、《雲のある自画像》(1912年頃、岩手県立美術館)や《軽業師[かるわざし]》(1912–1913年頃、萬鉄五郎記念美術館、岩手)、《赤い目の自画像》(1913年頃、岩手県立美術館)、さらには《心象風景》(1912–1913年頃、萬鉄五郎記念美術館)といった表現主義的な傾向や未来派またはキュビスム、さらには抽象表現に迫る多様な絵画空間を創出し、大正前期の日本美術界に新たな造形性を示すことになる。
その後、制作と生活の狭間で行き詰まりを感じた萬は、1914(大正3)年から1916(大正5)年まで家族を伴い郷里の岩手県土沢に戻り制作に没頭する。土沢では自画像や故郷の風景をモティーフに独自表現を模索することになる。それまでの鮮烈な色彩は姿を消し、褐色の暗く沈んだ画面となり、形態は解体され明暗は色面へと単純化がすすみ、キュビスム的な造型思考が萬のなかで胎動し始める。しかし西欧のそれとは異なり、郷里の風土のなかで培った土俗的な匂いが染みこんだ独自色の強いキュビスム表現が生みだされていく。
1916(大正5)年、再び家族と共に東京へ戻った萬は、郷里土沢での成果を世に問うことになる。翌1917(大正6)年の第4回二科展に出品された《もたれて立つ人》(1917年、東京国立近代美術館)と《筆立のある静物》(1917年、岩手県立美術館)が世評の的になり、賛否両論の注目を浴びる。なかでも前者は日本におけるキュビスム受容の先駆的な作品と評される。故郷での探求をふまえ再上京後に描かれた作で、洗練された絵画空間を獲得しつつも土着的な空気感を内包したモダンでダイナミックな造形性を示す。再上京後の作品はいずれも、土沢帰郷時代の野性的フォルムや粗削りな筆のタッチは姿を消し、完成度の高い作品群が生みだされていく。それらは一点毎に異なる多様な絵画スタイルを展開しており、この時期の表現傾向をひと括りに形容するのは難しい。《木の間から見下した町》(1918年、岩手県立美術館)は、キュビスムのフォルムと神秘的な絵画空間が融合した作品。《木の間風景[このまふうけい]》(1918年頃、新潟県立近代美術館・万代島美術館)は、キュビスムに留まらずカンディンスキーの感化が色濃い。さらには《かなきり声の風景》(1918年、山形美術館寄託)や《丘のみち》(1918年、萬鉄五郎記念美術館)では、表現主義や抽象化さえも盛り込んだ洗練された絵画空間を創りだしている。萬絵画が土沢帰郷時代を経て、ここに完成期を迎えることになる。
一方、睡眠不足と過労が重なり1918(大正7)年秋頃から肺結核を患い、翌年3月には療養のため神奈川県茅ヶ崎へ移り住むことになる。約一年間で健康を取りもどした萬は、さらなる独自表現を求めて新たな探求を開始する。その突破口として萬は、日本の伝統絵画である南画(文人画)と本格的に向き合い洋画表現との融合を試みる。
南画理論と墨画技術の習熟に努めていた萬は、1922(大正11)年の「萬鐵人[よろずてつじん]日本画展覧会」(野島康三[のじまやすぞう]邸・東京小石川、1922年)でその成果を発表する。そこでは闊達な筆墨と淀みのない運筆に加え、詩的な画面構成に進化が認められる。さらに表現主義的なタッチやフォルムが随所にみられ、独自色の濃い南画空間を獲得する。片や誌上では、南画家の菅原白龍[すがわらはくりゅう]をめぐり論争を繰り広げ、加えて江戸期の南画家、浦上玉堂[うらがみぎょくどう]や池大雅[いけのたいが]について、「玉堂琴士のこと及びその余談」(『純正美術』第2巻第7号、1922年7月)、「池翁雑感」(『純正美術』第2巻第10号、1922年11月)と題し南画論を展開する。一方、美術界の動きとしては、後に日本を代表する美術団体に成長する春陽会[しゅんようかい]結成に参加。さらに画友の小林徳三郎[こばやしとくさぶろう]とともに独自の発表の場を求め円鳥会[えんちょうかい]を結成する。この会は既成会派の枠を超えた集まりで、二科会の青年画家たちが多く加わり、萬の芸術に多少とも影響され、さらに萬が素質を認めた若者たちの集団であった。このように画壇における萬の影響度も増していくことになる。
油彩表現にも南画の手法がとりいれられ、リズミカルな筆のストロークに伴い特有の調子が加わり南画と洋画がリンクしはじめる。風景画はもとより、人物像や裸体像においても多彩な表現世界が展開される。キュビスムのフォルムを応用した《男》(1925年、岩手県立美術館)は、極端に肉体をデフォルメした大作で、勢いよく筆を走らせた線描のみで仕上げた裸体像。続く《羅布[らふ]かづく人》(1925年、岩手県立美術館)は、顔のパーツが描かれていない奇怪と思えるほど直線的に単純化した平面的な裸婦像で、東洋的な空気感をまとった異様さとユーモアが交叉する。1926年の《裸婦(ほほ杖の人)》(1926年、東京国立近代美術館)は、島田髷を結った簡略化されたフォルムの裸婦像が、東洋的な空気感のなかに道化的な可笑しみを醸しだしている。このように東洋と西洋の融合を図った作品を精力的に発表していた萬だったが、1927(昭和2)年の第5回春陽会展会期中の5月1日、茅ヶ崎の自宅で41歳の若さで病に罹り亡くなる。
萬鉄五郎の画家としての活動は15年余りと短いものの、明治末から大正期にかけて西洋の新たな美術思潮に果敢に挑み、日本人ならではの独自の表現性を求め続けた。彼は南画に西洋画の表現主義に通じる絵画理論を見いだし、両者を融合させ咀嚼し唯一無二の絵画空間を生み出した。萬という画家は、日本人であることの主体性を絵画の土壌で醸成し、誰も成し得なかった独自の造形性を創出しようと燃える炎を内に秘めた表現者であった。
(平澤 広)(掲載日:2024-02-14)
- 1928
- 春陽会 第6回展 (萬鐵五郎遺作室), 東京府美術館, 白木屋 (大阪), 1928年.
- 1962
- 萬鉄五郎展, 神奈川県立近代美術館, 1962年.
- 1972
- 萬鐵五郎展, 新宿・小田急百貨店, 1972年.
- 1985
- 萬鐵五郎展: 生誕百年記念, 神奈川県立近代美術館, 三重県立美術館, 宮城県美術館, 1985年.
- 1994
- 萬鉄五郎 多面体展: 萬鉄五郎と郷土の造形, 萬鉄五郎記念美術館, 1994年.
- 1997
- 萬鐡五郎展: 絵画の大地を揺り動かした画家, 東京国立近代美術館, 京都国立近代美術館, 岩手県立博物館, 1997年.
- 2006
- 再考・萬鉄五郎展, 萬鉄五郎記念美術館, 2006年.
- 2013
- 萬鉄五郎七変化: わが内なる自画像, 萬鉄五郎記念美術館, 2013–2014年.
- 2017
- 没後90年 萬鐡五郎展, 岩手県立美術館, 萬鉄五郎記念美術館, 神奈川県立近代美術館 葉山, 新潟県立近代美術館, 2017年.
- 2018
- Museum Global. Mikrogeschichten Einer Ex-Zentrischen Moderne [Microhistories of An Ex-Centric Modernism], Kunstsammlung Nordrhein-Westfalen, K20, Düsseldorf, 2018–2019.
- 東京国立近代美術館
- 神奈川県立近代美術館
- 岩手県立美術館
- 萬鉄五郎記念美術館, 岩手県花巻市
- 平塚市美術館, 神奈川県
- 三重県立美術館
- 宮城県美術館
- 茅ヶ崎市美術館, 神奈川県
- 大原美術館, 岡山県倉敷市
- 1974
- 『萬鉄五郎画集』東京: 日動出版部, 1974年.
- 1975
- 陰里鉄郎編『萬鉄五郎 近代の美術, 29』(1975年7月).
- 1977
- 小菅精一『萬鉄五郎素描』東和町(岩手県): くさかご社, 1977年.
- 1985
- 萬鉄五郎『鉄人画論』東京: 中央公論美術出版, 増補改訂1985年 [自筆文献].
- 1985
- 神奈川県立近代美術館, 三重県立美術館, 宮城県美術館編『萬鉄五郎展: 生誕百年記念』[鎌倉; 津; 仙台]: 神奈川県立近代美術館, 三重県立美術館, 宮城県美術館, 1985年 (会場: 神奈川県立近代美術館, 三重県立美術館, 宮城県美術館).
- 1988
- 中村義一「文人画とキュビズム: 萬鉄五郎の南画論」『京都教育大学紀要 A, 人文・社会』73号 (1988年9月): 111-130頁.
- 1988
- 佐々木一成「萬鐵五郎のスケッチブック (岩手県立博物館蔵)」『岩手県立博物館研究報告』第6号 (1988年8月): 93-116頁.
- 1989
- 中村義一「日本版Cubo-Futurismの成立: 大正アヴァンギャルド絵画の空間」『文学・芸術における空間表現の比較文化的研究 科学研究費補助金 (総合研究(A)) 研究成果報告書, 昭和63年度』[東京]: [阿部良雄], 1989年.
- 1991
- 村上善男『萬鉄五郎: 土沢から茅ヶ崎へ 有隣新書』横浜: 有隣堂, 1991年.
- 1991
- 中谷伸生「キュビスムへの抵抗: 一九一七年・一八年の萬鉄五郎」『三重県立美術館研究論集』第3号 (1991年3月): 56-90頁.
- 1994
- 萬鉄五郎記念美術館編『萬鉄五郎多面体: 「開館10周年記念」萬鉄五郎と郷土の造形』東和町(岩手県): 萬鉄五郎記念美術館, 1994年 (会場: 萬鉄五郎記念美術館) [展覧会カタログ].
- 1995
- 羽床正範「萬鉄五郎の水墨画」『北九州大学文学部紀要』第52号 (1995年11月): 1-14頁.
- 1997
- 東京国立近代美術館, 京都国立近代美術館, 岩手県立博物館編『萬鉄五郎展: 絵画の大地を揺り動かした画家』[東京]: 朝日新聞社, 1997年 (会場: 東京国立近代美術館, 京都国立近代美術館, 岩手県立博物館).
- 1997
- 有川幾夫「萬鉄五郎の裸体表現について」『宮城県美術館研究紀要』第9号 (1997年7月).
- 1999
- 萬鉄五郎記念美術館編『萬鉄五郎書簡集』東和町(岩手県): 萬鉄五郎記念美術館, 1999年.
- 2005
- 佐々木一成「円鳥会の成立と消滅: 萬鉄五郎を中心として」『大正期美術展覧会の研究』東京文化財研究所美術部編, 東京: 中央公論美術出版, 2005年, 177-194頁.
- 2005
- 田中淳『画家がいる「場所」: 近代日本美術の基層から』国立: ブリュッケ, 2005年.
- 2009
- 蔵屋美香「寝る人・立つ人・もたれる人: 萬鉄五郎の人体表現」『東京国立近代美術館研究紀要』13号 (2009年3月): 5-17,119頁.
- 2010
- Volk, Alicia. In Pursuit of Universalism: Yorozu Tetsugorō and Japanese Modern Art. The Phillips Book Prize Series. Berkeley,Washington, D.C.: The University of California Press, Phillips Collection, 2010.
- 2012
- 田中淳『太陽と「仁丹」: 一九一二年の自画像群・そしてアジアのなかの「仁丹」』国立: ブリュッケ, 2012年.
Wikipedia
萬 鉄五郎(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、1885年11月17日 - 1927年5月1日)は、大正~昭和初期の洋画家。岩手県和賀郡東和町(現在の花巻市)出身。1907年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。1912年、岸田劉生や高村光太郎らの結成したフュウザン会に参加している。萬は、その頃日本に紹介されつつあったポスト印象派やフォーヴィスムの絵画にいち早く共鳴した。特にフィンセント・ファン・ゴッホやアンリ・マティスらの影響が顕著であった。黒田清輝らのアカデミックな画風が支配的であった日本洋画界に、当時の前衛絵画であったフォーヴィスムを導入した先駆者として萬の功績は大きい。晩年は日本画の制作や南画の研究も行った。
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- 2023-12-12