- 作家名
- 吉原治良
- YOSHIHARA Jirō (index name)
- Yoshihara Jirō (display name)
- 吉原治良 (Japanese display name)
- よしはら じろう (transliterated hiragana)
- 生年月日/結成年月日
- 1905-01-01
- 生地/結成地
- 大阪府大阪市
- 没年月日/解散年月日
- 1972-02-10
- 没地/解散地
- 兵庫県芦屋市
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
作家解説
1905(明治38)年1月1日、大阪市東区大川町(現・大阪市中央区北浜)に、植物油の製造・販売を手がける父、吉原定次郎[さだじろう]、母、アイの子として生まれる。アイは前妻が長男を出産後死去したのち迎えられた後妻であり、吉原は次男であったが、吉原8歳の時に長男が病没したため、幼くして家業を継ぐことを宿命付けられた。大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)在学中、ファン・ゴッホやセザンヌなどポスト印象派の絵画に関心を持ち、独学で油彩画の技法の習得を始める。1924(大正13)年、関西学院高等商業学部に入学。1926年、兵庫県武庫郡精道村(現・兵庫県芦屋市)に転居。翌年、関西学院の絵画部弦月会[げんげつかい]に入部。この頃、精道村に居住していた洋画家、上山二郎[かみやまじろう]を知り、油彩画の手ほどきを受ける。また、関東大震災の報を聞き帰国するまでパリで活動していた上山から、現地の美術界に関するさまざまな情報を得た。
1928(昭和3)年、大阪朝日会館で初めての個展を開催、出品作のほとんどが魚をモチーフにしたもので、「魚の画家」として注目を集めた。同年末、父が経営する吉原定次郎商店(現・J-オイルミルズ)に入社。翌年、上山二郎の紹介で、17年ぶりに帰国した藤田嗣治と会い、自作への批評を請うも、他の画家からの影響を指摘され、オリジナリティの重要性を強く認識する。この体験が、後の具体美術協会(「具体」)のモットー「人のマネをするな」の原点になった。1932年、ソ連留学中に美術団体、四美術社の会員となった洋画家、小西謙三が帰国後大阪に開設した四美術社日本支部研究所の絵画部指導者となり、同年、四美術社からロシア絵本の影響が色濃い『絵本スイゾクカン』(創元社)を出版。1934年、藤田と再会、二科美術展覧会(二科展)への出品を勧められ、9月に第21回二科展に応募。《朝顔の女》(大阪中之島美術館)などデ・キリコを思わせるシュルレアリスム風の絵画5点すべてが入選を果たす。11月には東京、銀座の紀伊國屋ギャラリーで個展を開催、関西から現れた前衛絵画のホープとして中央画壇にデビューする。1935年、吉原定次郎商店が吉原製油株式会社になり、監査役に就任。以後、亡くなるまで約40年間、企業経営者と美術家の二足の草鞋を履き続ける。1937年、3年ぶりの第24回二科展に今度は《図説》(東京都現代美術館)など抽象絵画を出品して特待賞を受賞する。1938年、二科会の前衛的な美術家たちと九室会を結成、大阪支部の代表となる。以後、戦局悪化のため二科会が解散を余儀なくされる1944年まで、二科展、九室会展に出品した。1941年、二科会会員となる。1945年3月の大阪大空襲の後、兵庫県有馬郡上大沢村(現・兵庫県神戸市北区大沢町)に疎開、同地で敗戦を迎えた。まもなく、東郷青児から二科会再興の呼びかけを受け、関西方面の会員の消息確認や勧誘に奔走。同年10月、再び二科会の会員となる(1961年から同会理事、1970年退会)。
1946年、美学者の井島勉を中心にした関西の文化人の集い、転石会[てんせきかい]に参加。1947年には、所属団体を超えた関西の美術家の団体、汎美術家協会の結成に参加する。同年9月、日本アヴァンギャルド美術家クラブの結成に参加し、幹事となる。1948年、芦屋市美術協会が創立。代表として亡くなるまで芦屋市美術展覧会(現・芦屋市展)の審査員を務めた。この頃から、アトリエに若い美術家が指導を求めて集まるようになり、後の「具体」の母体が形作られた。また、この頃から晩年まで、演劇やバレエ、野外コンサート、ファッションショー、能などの演出、美術をしばしば手がける。1951年、大阪府芸術賞受賞。1952年、日本の国際社会への復帰を機に、欧米の同時代の抽象美術が紹介されたことに刺激され、関西在住の公募団体の前衛画家たちと、所属団体やジャンル、世代を超えた総合的な見地から新しい美術を研究する現代美術懇談会(ゲンビ)を結成。1953年6月、日本アブストラクト・アート・クラブ、7月には国際アートクラブの結成に参加。この頃から日本独自の抽象表現を求めて、井上有一[いのうえゆういち]、森田子龍[もりたしりゅう]ら墨人会[ぼくじんかい]の前衛書家と交流。それを受け、敗戦後の少女や鳥をモチーフにした具象画から、一転して線を主体にした抽象へと展開する。
1954年8月、私淑する阪神間在住の若い美術家たち16名を率いて具体美術協会(「具体」)を結成。代表となり、「人のマネをするな」をモットーに、美術の革新に乗り出す。1955年1月、機関誌『具体』を発行。同年7月、芦屋公園を使った「真夏の太陽にいどむ野外モダンアート実験展」を企画・開催。本展には、今日のインスタレーション、体験型作品、テクノロジーアート、ライトアートに通じる作品が多数出品された。また、10月には、第1回具体美術展を東京の小原会館で開催。1957年5月、大阪の産経会館で「舞台を使用する具体美術」を企画・開催し、表現の形式をパフォーマンスにも広げる。この「舞台を使用する具体美術」は7月に東京の産経ホールでも再演された。メディアを使った作品情報の発信や東京での発表など、吉原は当初から「具体」の活動を中央の美術界で認知させ、全国区に押し上げることに熱心だったが、その意に反し、東京での評論家の反応は冷ややかなものだった。
「具体」が注目を集めるようになったのは、1957年9月、フランス人のフリー・キュレイター、ミシェル・タピエが来日し、「具体」の活動を激賞してからのことである。ミシェル・タピエは、戦後、欧米各地で同時多発的に現れた新しい抽象美術を、それまでの美術とは一線を画す「別の美術(Un art autre)」と呼び、企画展や著作において、「アンフォルメル(Informel)」という独自の概念で論じようとした。この「別の美術」は、1956年に日本で紹介されるや大きな話題となり、1957年にかけてアクションや作品の素材の物質性を強調する表現が爆発的に流行、「アンフォルメル旋風」などと称された。一方のタピエも、「アンフォルメル」が欧米以外の戦後美術にも有効な概念であることを示すべくアジアに眼を向け、とりわけパリで目にした機関誌『具体』を通じて「具体」に強い関心を抱いていた。こうした相互の機運の高まりのなか来日したタピエは、大阪で「具体」の実作を見てその質の高さを確信し、かねてから国際的な活動を志向していた吉原もまた、タピエと意気投合。以後、両者は日本で共同企画展を開催したり(1958年新しい絵画 世界展—アンフォルメルと具体―、1960年国際スカイフェスティバル)、タピエが推す「別の美術」を日本で、反対に「具体」の作品を欧米で紹介し合うなど、1965年まで密に交流した。それにともない、吉原自身の絵画もアクションや素材の物質性を強調したものへと変化した。1958年、ニューヨーク、マーサ・ジャクソン・ギャラリーでの「具体」グループ展準備のため渡米、ヨーロッパを回って2か月後に帰国。1962年、大阪中之島に自身が所有する古い土蔵を改装し、「具体」の活動拠点としてグタイピナコテカを開設。1963年、兵庫県文化賞受賞。
1965年、オランダ・ドイツの美術家によるグループ、ゼロの展覧会に「具体」が招待され、アムステルダムでの会場準備のため次男の通雄[みちお]とともに二度目の渡欧。この頃アメリカから次々に新しい動向が現れ、タピエの「別の芸術」がもはや時代遅れになったことを自覚した吉原は、タピエとの関係に終止符を打ち、あらたな会員を大量に迎え入れることで「具体」の刷新を図る。あわせて、自身もそれまでのアンフォルメル風の表現から脱却、1963年頃からモチーフとしてきた一筆書きの円を発展させ、物質性を抑えた画面と明確な形態を特徴とするハードエッジの抽象絵画を具体美術展で発表するようになった。1967年には東京画廊で約30年ぶりの個展を開催。ここで円の連作は広く美術界に知られるところとなり、日本の伝統的な線の美とアメリカの最新の抽象表現を融合させた点で高く評価され、翌年の第9回日本国際美術展に出品した《白い円》(大原美術館)が国内大賞を、さらには1971年の第2回インド・トリエンナーレで《作品(黒地に白)》(東京国立近代美術館)、《白地に黒い円》(大阪中之島美術館)がゴールドメダルを受賞する。1969年、日本万国博覧会(大阪万博)の美術展示委員会専門委員に就任。1970年の大阪万博には美術家としても「具体」を引き連れ積極的に参加した(みどり館でのグタイ・グループ展示、お祭り広場での「具体美術まつり」。万博美術館での共同制作《ガーデン・オン・ガーデン》)。同年4月、高速道路の出入口建設のため大阪中之島の実家が立ち退きを余儀なくされたことから、隣接するグタイピナコテカが閉館。大阪万博後には「具体」の古参会員が相次いで退会したが、翌年10月に同じ大阪中之島にグタイミニピナコテカを開設、「具体」の存続に意欲を見せた。しかし、その矢先の1972(昭和47)年1月18日、芦屋市の自宅で電話中にくも膜下出血のため倒れ入院、意識が回復することなく2月10日に死去した。勲四等旭日小綬章が追贈される。「具体」は吉原の死去をもって同年3月末に解散した。
革新性やオリジナリティに絶対の価値を置き、その追及を自らや「具体」の会員に厳しく課した吉原は、欧米由来のモダニズムを実直に実践し、それゆえ戦後早い段階で欧米の美術界に受け入れられ、同じ地平で活動し得た稀有な日本人美術家であった。1980年代の「具体」の欧米・日本での再評価以降、その優れた美的感覚や今日のグローバル社会を見通した先見性、個性あふれる美術家たちを束ねたオルガナイザーとしての手腕があらためて評価された吉原であるが、1992年の「没後20年 吉原治良展」(芦屋市立美術博物館ほか)を機に、未発表作品の発掘、作家資料や素描の分析など本格的な研究が始まり、2005年の「生誕100年記念 吉原治良展」(ATCミュージアムほか)などの回顧展で、作品制作の背景に欧米の最新の美術情報の収集と独自研究、試行錯誤があったことが明らかにされている。
(平井章一)(掲載日:2024-10-16)
- 1928
- 吉原治良油絵個人展覧会, 大阪朝日会館, 1928年.
- 1934
- 第21回 二科美術展覧会, 東京府美術館, 1934年.
- 1934
- 吉原治良油絵個展, 銀座紀伊國屋画廊, 1934年.
- 1937
- 第24回 二科美術展覧会, 東京府美術館, 1937年.
- 1939
- 第1回九室会展, 日本橋白木屋, 大阪朝日会館, 1939年.
- 1940
- 第2回九室会展, 銀座三越, 大阪朝日会館, 1940年.
- 1952
- サロン・ド・メ, パリ, 1952.
- 1953
- 抽象と幻想: 非写実絵画をどう理解するか, 国立近代美術館, 1953–1954年.
- 1955
- 真夏の太陽にいどむ野外モダンアート実験展, 芦屋公園, 1955年.
- 1956
- 野外具体美術展, 芦屋公園, 1956年.
- 1957
- 舞台を使用する具体美術, 産経会館 (大阪), 1957年.
- 1957
- 世界現代芸術展, ブリヂストン美術館, 1957年.
- 1957
- 第2回舞台を使用する具体美術, 大阪朝日会館, 1957年.
- 1958
- 新しい絵画 世界展: アンフォルメルと具体, 大阪なんば高島屋 [ほか], 1958年.
- 1960
- インターナショナル スカイ フェスティバル, 大阪なんば高島屋, 1960年.
- 1967
- 吉原治良展, 東京画廊, 1967年.
- 1967
- 第9回日本国際美術展, 東京都美術館, 京都市美術館, 高松市美術館, 北九州市立八幡美術館, 佐世保市中央公民館, 長崎県立美術博物館, 愛知県美術館, 1967年.
- 1970
- 吉原治良個展, グタイピナコテカ, 1970年.
- 1971
- 第2回インド・トリエンナーレ, ラリットカラ・アカデミー, 1971.
- 1973
- 吉原治良展: 明日を創った人, 神奈川県立近代美術館, 1973年.
- 1975
- 吉原治良展, 東京画廊, 1975年.
- 1992
- 吉原治良展: 没後20年, 芦屋市立美術博物館, 大原美術館児島虎次郎記念室, 1992年.
- 1998
- 発見!吉原治良の世界: 清らかな詩心をつらぬく造形の軌跡, ATCミュージアム, 1998年.
- 2005
- 吉原治良展, ATCミュージアム, 愛知県美術館, 東京国立近代美術館, 宮城県美術館, 2005–2006年.
- 2016
- 未知の表現を求めて: 吉原治良の挑戦; 芦屋市立美術博物館 & 大阪新美術館建設準備室共同企画, 芦屋市立美術博物館, 2016年.
- 東京国立近代美術館
- 国立国際美術館, 大阪
- 京都国立近代美術館
- 東京都現代美術館
- 兵庫県立美術館
- 大阪中之島美術館
- 芦屋市立美術博物館, 兵庫県
- 1956
- 吉原治良「具体美術宣言」『芸術新潮』第7巻第12号 (1956年12月): 202–204頁. [自筆文献].
- 1967
- 吉原治良「わが心の自叙伝」[連載]1–6『神戸新聞』1967年6月4日, 11日, 18日, 25日, 7月2日, 9日. [自筆文献].
- 1973
- 吉原治良展委員会編『吉原治良展: 明日を創った人』[s.l.]: 吉原治良展委員会, 1973年 (会場: 神奈川県立近代美術館). [展覧会カタログ].
- 1973
- 「特集 吉原治良: 前衛精神の軌跡」『みづゑ』第819号 (1973年6月): 7–49頁.
- 1979
- 「特集 吉原治良: 絵画の行方」『美術手帖』第446号 (1979年3月): 45–156頁.
- 1992
- 芦屋市立美術博物館編『吉原治良展: 没後20年』[芦屋]: 芦屋市立美術博物館, 1992年 (会場: 芦屋市立美術博物館, 大原美術館). [展覧会カタログ].
- 1992
- 「特集 吉原治良: 変革する自己」『美術手帖』第660号 (1992年10月): 31–94頁.
- 1998
- 大阪市立近代美術館(仮称)建設準備室編『発見!吉原治良の世界: 清らかな詩心をつらぬく造形の軌跡』[大阪]: 「吉原治良の世界」展実行委員会, 1998年 (会場: ATCミュージアム). [展覧会カタログ].
- 2001
- 平井章一編『三岸好太郎, 吉原治良: 抒情のコスモロジー コレクション・日本シュールレアリスム: 12』復刻版. 東京: 本の友社, 2001年.
- 2002
- ポーラ美術振興財団助成吉原治良研究会編『吉原治良研究論集』芦屋: 吉原治良研究会, 2002年.
- 2005
- 大阪市立近代美術館建設準備室[ほか]編『吉原治良展: 生誕100年記念』クリストファー・スティヴンズ翻訳. [東京]: 朝日新聞社, 2005年 (会場: ATCミュージアム, 愛知県美術館, 東京国立近代美術館, 宮城県美術館).
- 2016
- 高柳有紀子, 國井綾, 小川知子編『未知の表現を求めて: 吉原治良の挑戦: 芦屋市立美術博物館&大阪新美術館建設準備室共同企画』[大阪; 芦屋]: 大阪新美術館建設準備室, 芦屋市立美術博物館, 2016年 (会場: 芦屋市立美術博物館). [展覧会カタログ].
- 2019
- 東京文化財研究所「吉原治良」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9412.html
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「吉原治良」『日本美術年鑑』昭和48年版(61-63頁)具体美術協会の主宰者であり、国際的にも活躍していた、もと二科会会員の吉原治良は、2月10日午後7時15分、クモ膜下出血のため兵庫県芦屋市立市民病院で死去した。享年67才であった。吉原治良は明治38年(1905)1月1日、大阪市に三代つづいた油問屋の老舗の家に生まれ、愛珠幼稚園から愛日小学校、北野中学校へと進み、9才のとき兄をなくし、11才のとき母を喪なった。中学時代から絵画に対する関心はたかまり、...
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吉原 治良(よしはら じろう、1905年1月1日 - 1972年2月10日)は、日本の抽象画家、実業家。吉原製油社長。具体美術協会の創設者。
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- 2023-02-20