- 作家名
- 吉田克朗
- YOSHIDA Katsurō (index name)
- Yoshida Katsurō (display name)
- 吉田克朗 (Japanese display name)
- よしだ かつろう (transliterated hiragana)
- 生年月日/結成年月日
- 1943-09-23
- 生地/結成地
- 埼玉県深谷市
- 没年月日/解散年月日
- 1999-09-05
- 没地/解散地
- 神奈川県鎌倉市
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
- 彫刻
- 版画
作家解説
吉田克朗は、1943年に埼玉県深谷市で4人兄弟姉妹の末子として生まれた。深谷市立深谷小学校の担任であった画家・花崎守[はなざきまもる]と出会い、美術に興味を抱くようになる。7歳の頃から花崎の画塾に3年ほど通い、絵の手ほどきを受けた。埼玉県立深谷商業高等学校3年生の時に結核を患い2年間闘病するが、療養中に油絵を始め、画家を志す。
1964年に多摩美術大学絵画学科に進学し、1966年から斎藤義重の教室に入る。優れた指導者であった斎藤の下で、美術に限定されない幅広い議論を通して、柔軟な思考方法を身につけた。1968年に卒業すると、多摩美術大学出身者らが関わっていた横浜市中区の富士見町アトリエと不老町の作業場に通い、関根伸夫、菅木志雄、小清水漸らと制作を行う。この時代は、高松次郎に代表されるように、視覚の不確定性や見ることの制度を問う作風が議論の中心になっていた。大学卒業直後の吉田は、実物の机や原寸で作った電話ボックスの模型を真中から切り開き、物体の断面の意外性を見せる立体作品《Cut 1》(1968年、現存せず)、《Cut-off》(1968年、現存せず)などを制作しており、視覚と認識の齟齬に着眼する当時の傾向に通じる側面が窺える。その一方、身近な事物に目を向け、「Cut」、「Cut-off」という題名に暗示されているように、現実世界の一部を切り取る手法は、その後の制作に連なる特質といってよい。
1968年10月に神戸須磨離宮公園現代彫刻展で、時代の転換点となったと言われる《位相-大地》を関根伸夫が発表した際は、吉田は小清水漸らとその制作に加わった。円筒形に大地を掘って、その脇に掘った土を円筒形に積み上げた《位相-大地》から、吉田は通常の美術とは異なる新たな可能性を感じ取り、自らの制作の再考を促される。こうして1969年になると、物体をそのまま用いて、その文字通りの特性が自然に表出される作品を次々と制作した。折って広げた紙の四隅に石を置いた《Cut-off (Paper Weight)》(1969年4月、現存せず。2024年の没後再制作作品:The Estate of Katsuro Yoshida[2025年現在])、長い鉄管に綿を詰めた《Cut-off》(1969年5月、現存せず。2007年の没後再制作作品:ブラム、ロサンゼルス[2025年現在])、太い角材を天井からロープで吊るし、重い石でロープを固定した《Cut-off (Hang)》(1969年7月、現存せず。1986年の再制作作品:ラチョフスキー・コレクション、ダラス)、厚みの異なる鉄板4枚を角材の上に載せて自重でたわませた《Cut-off No. 2》(1969年8月、現存せず。1990年の再制作作品:国立国際美術館、大阪)、電源コードを角材に巻きつけその先の電球を点灯させる《Cut-off 8》(1969年9月、高松市美術館、香川)などである。これらの作品には、異質な物体の組み合わせ、物体の重量やテンションの視覚化、物体の状態やそれが置かれた状況の提示など、後にもの派と称される動向の特質が端的に表れている。実現しなかったものも含めプランなどが濃密に記された当時の制作ノートを見ると、人間の意味付けから隔絶された、無名の事物に視線を注ぎ、それらと相互に呼応しあうところから、自己と世界の関係を捉え直そうとしていたことが分かる(註1)。もの派と称される動向において、先鋭的な手法をいち早く打ち出した実践者として、吉田が果たした役割は極めて大きい。
1971年になると、反復的な赤い筆触を取り入れた作品があらわれる。1971年1月の個展(シロタ画廊、東京)では、壁面や床に赤い筆触を施し、その前にワイヤーロープを張った《赤・ワイヤーロープ・壁など》(現存せず)を発表する。同年の第7回パリ青年ビエンナーレでは、横長の画布を5つの領域に分け、赤い筆触を連ね、画布の前面に即物的に光る5個の電球を吊り下げた《赤・カンヴァス・電気など》(現存せず。1994年の再制作作品:The Estate of Katsuro Yoshida[2025年現在])を出品した。この頃から、物体を提示するもの派の作風から離れ、当時、表現性を伴うとして敬遠されがちであった絵画的な要素へ、作者の関心が徐々に移行している点が見て取れる。
物体を用いた作品と並行し吉田は、1969年から自ら撮影した風景写真を題材に、シルクスクリーンによる版画制作も始めている。特定のモチーフを網掛けしたり、ずらしたりしながら制作される版画からは、日常風景に存在する事物や人物への作者の眼差しが読み取れる。吉田の版画は、1970年に第1回ソウル国際版画ビエンナーレで東亜日報賞(大賞)を受賞するなど、注目されるようになる。文化庁芸術家在外研修員として1973年から約1年間イギリスに留学した際も吉田は、版画を集中的に学んだ。ロンドンの版画工房「プリント・ワークショップ」に通い、写真製版を用いるフォトエッチングの技法を習得し、ロンドンの街路で撮影した写真を題材に銅版画を制作した。
1974年に帰国すると、版画制作を継続する一方、シリーズごとに平面作品に取り組む。時には異なるシリーズを並行して手がけ、もの派期との連続性を自問しながら絵画を模索する時期が、1980年代前半まで続く。例えばシリーズ〈Work D〉(1975–1978年)では、撮影した風景写真のモチーフを断片的に鉛筆やコンテで描く作品のほか、物体に絵具を塗り、それを支持体に押し付けて転写(作者は「直撮り」、「フロッタージュ」と呼ぶ)した表現をもとにした作品を制作している。
1978–1979年からは、〈Work 3〉、〈Work 4〉のシリーズに着手する。前者は紙を支持体に、後者はカンヴァスを支持体にしているが、原理的には同じで、壁面に線条の筆触を施したり、絵具を塗った物体を押し付けたりした後、その状態を壁面の表情ごと支持体に転写している。いわば事物の痕跡による絵画であるが、1979年に東京画廊の個展で発表された大作《Work 4-44》、《Work 4-45》(ともにThe Estate of Katsuro Yoshida[2025年現在])などでは、線条の配置に工夫が見られ、オールオーヴァーの画面に絵画的表現をもたらそうとする様子が窺える。筆触を転写する手法はシリーズ〈Work 6〉(1980–1986年)に応用され、薬品を筆で印刷物の誌面に塗り、その筆触を誌面ごと支持体に転写し、コラージュなどを施す作品も多数制作された。
吉田の転写の手法は即物的であり、作為的な表現性をある程度排除できる。しかし、ひとたび平面作品として成立すると、転写された事物の実在は消え、不可避的に絵画的なイメージが浮上する。こういった絵画におけるイメージの問題に吉田が正面から向き合ったのが、1982年から始まる〈海へ〉と〈かげろう〉のシリーズである。これらのシリーズを特徴づけている不定形で謎めいた形態/イメージは、感覚的に描かれたものではなく、風景写真などを断片化、抽象化したものである。色彩はモノトーンを基調にしながら、次第に赤や黄の系統の色彩も併用され、アルミ粉末を混ぜた絵具で光沢感やマチエールをみせる表現もあらわれる。1986年になると〈かげろう〉は副題 “婉” を伴って、雑誌の人物写真を拡大して描くシリーズに展開する。局所的な人体が拡大されたイメージは抽象化されているが、見る者の身体感覚の深部に触れるような作用をもたらす。
〈かげろう “婉”〉の作風は、同時期の1985–1986年頃から始まるシリーズ〈触〉へと引き継がれる。〈触〉は、絵具を地塗りしたカンヴァスを平置きにし、手指で粉末黒鉛をカンヴァスにこすり付けて制作される。カンヴァスに触れた手指の物理的な痕跡が画面に蓄積され、その疎密や濃淡によって、有機的イメージが画面に生まれる。画面にあらわれるイメージはマクロにもミクロにも見え、身体的でもあり、風景的でもあり、宇宙的でもあり、様々な印象が喚起される。当初、〈触〉のシリーズは “体” という副題が添えられていたが、その後、色調、マチエール、形象が少しずつ変化し、副題も “鳥”、“湖底”、“山々”、“緑の内へ”、“春に” などに代わっていく。〈触〉は1999年に癌で病没する直前まで、作家活動の約半期となる15年弱にわたり継続され、2メートルを超える大作も多数制作された。作者にとって〈触〉は、1970年代後半から模索し続けた絵画表現において、ようやく手応えを感じて専心し得たシリーズであった。1960年代末に、事物と自己の呼応しあう関係を起点に活動を始めた吉田が到達したのが、手指で触れるという、確かな身体的感触を通して生まれるイメージ/世界と交感しながら制作される〈触〉のシリーズであったといえる。また〈触〉に専心した時期が、最初期に関わったもの派の動向が国際的に再評価された時期に重なっている点も、興味深い事実である。
吉田は作品制作をする一方で、1980年代初めから晩年まで、版画制作の教育現場にも熱心に関わった。美学校、東京芸術専門学校、東京藝術大学、明星大学、武蔵野美術大学で、銅版画、シルクスクリーン、リトグラフなどを教えながら、表現の根幹にあるコンセプトや美術家としての在り方を技法以上に重視する指導を行った(註2)。また1992年に設立された青森県の三戸町立現代版画研究所(現・三戸町立版画工房)においては、同地出身の建築家で多摩美術大学の同級であった小井田康和とともに、構想時から創設に関わった。若手美術家が滞在制作できる場所を設け、版画を地域に普及させることを目指した同研究所は、ロンドンの版画工房「プリント・ワークショップ」での吉田の経験がもとになっていると思われるが、その運営面でもアドバイザーとして尽力した。制作現場の改善も含め、熱意をもって後進の指導にあたった吉田の教育者として姿勢は、現在でも指導を受けた関係者の中で語り継がれている。
(平野 到)(掲載日:2025-12-01)
註1
吉田克朗の制作ノートの一部は、下記で紹介されている。山本雅美編『吉田克朗 制作ノート 1969–1978』水声社、2024。
註2
教育現場における吉田克朗の活動については、以下の論考に詳しい。菊地真央「教育現場における吉田克朗の姿」『吉田克朗 ものに、風景に、世界に触れる』展図録、神奈川県立近代美術館/埼玉県立近代美術館、水声社、2024年、196–199頁。
- 2019
- 東京文化財研究所「吉田克朗」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28159.html
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「吉田克朗」『日本美術年鑑』平成12年版(261頁)武蔵野美術大学教授の美術家吉田克朗は9月5日午後2時39分食道がんのため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。享年55。1943(昭和18)年9月23日、埼玉県深谷市に生まれる。68年、多摩美術大学絵画科を卒業、在学中は斎藤義重の指導をうけた。同年、第8回現代日本美術展のコンクール部門に、机を二つに切りはなした作品「cut-1」が初入選した。その後、個展によって発表活動をするかたわら、69年の「現代美術...
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