- 作家名
- 横山大観
- YOKOYAMA Taikan (index name)
- Yokoyama Taikan (display name)
- 横山大観 (Japanese display name)
- よこやま たいかん (transliterated hiragana)
- 横山秀麿 (real name)
- 酒井秀蔵 (birth name)
- 酒井秀麿 (real name)
- 生年月日/結成年月日
- 1868
- 生地/結成地
- 常陸国水戸
- 没年月日/解散年月日
- 1958-02-26
- 没地/解散地
- 東京都台東区
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
作家解説
1868(明治元)年、水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれる。幼名は秀蔵、後に秀麿。1871年の廃藩置県によって秩禄を失った酒井家は、県内を転々とし、大子、磯浜へと移住しては商売を営んだ。1875年には、捨彦が茨城県庁に出仕し、大観は水戸の小学校に通うこととなった。
1878(明治11)年に一家は上京し、神田区五軒町に居を定めた。渋江信夫(捨彦の兄)らがここで測量や製図の技術を養成する私塾・時習義塾を営んでおり、そこに身を寄せてのことであった。大観はここから湯島小学校に通うこととなった。
卒業後、大観は東京府中学校(現・都立日比谷高校)を経て、1885(明治18)年、父の意向を汲み東京大学入学の準備機関である予備門を受験。だが予備門英語専修科と予備門四級の併願をしたところ、これが内規に抵触し、ともに失格となる。やむなく神田錦町の東京英語学校(私立、東京大学志望者のための予備校)に入学した大観は、その後、官立の美術学校ができるという情報を得て、画家への道に心が動いた。
1889(明治22)年、東京美術学校(現・東京藝術大学)が開校し、これに一期生として入学。以後、校長であった岡倉天心の薫陶を受けることとなる。在学中は、伝統を重んじた教育指導を受け、また古画模写事業への参加等を通じて、近代国家日本を代表する「日本画」創造への基礎を固めた。
卒業後は京都市美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)予備科教諭を経て、1896(明治29)年、東京美術学校図案科の助教授として招聘される。だが1898年、いわゆる東京美術学校騒動で、文部省は天心に同校長と帝国博物館美術部長の辞職を命じた。これに憤慨した大観は、同校の教員であった橋本雅邦、菱田春草、下村観山らとともに総辞職の契約証を作成。ついには懲戒免職となる事態へと発展した。
同年7月、大観らは天心を中心に日本美術院を創設。東洋の思想、文化の優位性を欧米に訴える天心に師事し、日本画の創造に取り組んでいくこととなる。10月には、日本絵画協会と合同で開催された第1回日本美術院連合絵画共進会に《屈原》(1898年、厳島神社、広島)を発表し、東京美術学校を追われた天心の境遇を重ね合わせた表現で話題となった。
その後、伝統諸派において大事とされてきた墨筆の技法を切り捨て、空刷毛[からばけ]を用いて画面全体に淡彩を刷き、色合いで情感を表わすという近代性を取り入れた。また、色線と色隈を用いて立体感の表現も試み、さらには東洋思想の観念性をテーマとするなど、その新奇な表現は画壇を一驚させ、当時の侮蔑語であった「朦朧[もうろう]」「朦朧体」の言葉とともに痛烈な批判を浴びることとなった。だが、大観はこの実験的試みに邁進し、「日本画」として海外へ発信することにも積極的であった。1903(明治36)年、大観と春草はアジア主義の思想を背景に渡印。「朦朧体」は、ベンガルの画家に波及し、民族運動を展開する彼らの重要な指針となった。1904年から翌年にかけて、すなわち日露戦争さなかにあたる滞米中には、春草とともに4度の展覧会を開催。水墨表現も披露するなどして、日本画の振興に努めた。1905年にはイギリスへと渡り、ロンドンに滞在。現地の美術を視察するとともに展覧会を開催した。その後、パリ、ローマなどを巡り、同年8月に帰国した。
天心、大観らの不在のうちに、日本美術院は経済的に立ちゆかない状況に陥っていた。これにともない、1906(明治39)年11月、同院は五浦[いづら](北茨城市大津町)へと移転。だが絵が売れず、生活は困窮を極めた。とくに苦境に立たされたのは、「朦朧体」の不評を買っていた大観と春草であった。
こうしたなか、1907(明治40)年、初の官展である文部省美術展覧会(文展)が開設される。天心の尽力もあって大観は審査委員に任命され、五浦より出品。同展第3回に出品した《流燈》(1909年、茨城県近代美術館)では、イギリス近代絵画を想起させる配色や斬新な構図で好評を得た。同展第5回展に出品の《山路》(1911年、永青文庫、東京)では、地塗りをせず白地の画面に粒子の粗い岩絵具をなすりつける手法を見せ、岩絵具流行のきっかけをもたらした。
この頃より大家としての地位を確立していき、1908(明治41)年、五浦の自邸焼失を機に、下谷区茅町[したやくかやちょう](東京、現・横山大観記念館所在地)に仮寓を得た。だが文展において新派の立場であった大観は、審査をめぐって旧派の画家たちと激しく対立することもあり、1914年8月、審査委員の任から除外されることとなる。
天心の一周忌にあたる同年、9月に下村観山らとともに日本美術院を再興。洋画家であった小杉未醒[みせい]もこれに加わり、画材や表現技法の違いを超えた日本画の在り方を模索していくこととなった。
以後、同院を拠点に大作を次々に発表。1915(大正4)年には、同志たちとともに徒歩と籠のみで東海道旅行をおこない、《東海道五十三次合作絵巻》(1915年、東京国立博物館)を制作した。また明代の名墨「鯨柱墨[げいちゅうぼく]」を用いた40メートルに及ぶ長大絵巻《生々流転》(1923年、東京国立近代美術館、重要文化財)や、越前の紙漉き職人岩野平三郎に史上最大の和紙の抄造を依頼し、壁画《明暗》(1926年、早稲田大学、東京)を制作するなど、衆目を集める革新的な試みによって画壇を牽引していった。さらに、《朝陽霊峯》(1927年、皇居三の丸尚蔵館、東京)や《飛泉》(1928年、皇居三の丸尚蔵館)など、皇室から下命を受けての献上画、神社への奉納(鹿島神宮、日光東照宮、明治神宮、湊川神社、長田神社、氷川神社、伊勢神宮など)、教育機関や公共施設などへの揮毫も多くを数えた。
昭和期もまた、日本画興隆のために比類ない行動力を発揮した。海外における展覧会の開催にも力を入れ、日本画の喧伝に貢献した。なかでも1930(昭和5)年にローマで開催された日本美術展覧会では、代表委員として運営の一切を取り仕切り、床の間ふうの展示空間をつくり生花を添えるなど、絵画だけでなく、総合的な日本文化を紹介することに努めた。
このように、日本美術院というあくまで在野の立場を守りながらも、1931(昭和6)年、帝室技芸員を拝命し、1937年、第1回文化勲章を受章するなど、官展で活躍する画家たちをしのぐ人気を獲得し、画壇でトップの実力者ともいえる存在となっていった。
戦時中においては、国に奉仕する「彩管報国」の信念が顕著なものとなった。1940(昭和15)年の紀元2600年奉祝記念展としての「海に因む十題」「山に因む十題」では、作品の売上金すべてを陸海両軍に献納。その報国の精神は、作品の気魄のこもった充実ぶりとともに当時大いに話題となり、模範として称賛された。日本美術報国会が発足した際には、会長に推され就任した。
終戦直後は、連合国軍総司令部より展覧会再開の要請があり、1945(昭和20)年、日本美術院の小品展を開催した。再興第37回日本美術院展出品の《或る日の太平洋》(1952年、東京国立近代美術館)では、龍が黒雲から這いのぼり富士の頂きを目指す図様を描き、国家再建を願った。
1945年3月の空襲により自邸が焼失したため熱海(静岡)に疎開していたが、1954年、茅町の旧邸宅跡に新居を再建。その後も制作を続け、中国戦国時代末の刺客・荊軻[けいか]の決死の覚悟を描いた《風蕭々兮易水寒[かぜしょうしょうとしてえきすいさむし]》(1955年、個人蔵)が、再興日本美術院展への最後の出品作となった。
1958(昭和33)年、2月26日死去。正三位勲一等に叙せられ、旭日大綬章が贈られた。
(佐藤 志乃)(掲載日:2023-09-11)
- 1949
- 大観画業六十年展, 上野松坂屋, 1949年.
- 1954
- 大観富岳名作展, 日本橋高島屋, 1954年.
- 1955
- 大観米寿記念展: 屏風と絵巻, 銀座松屋, 1955年.
- 1959
- 横山大観遺作展, 東京国立博物館, 国立近代美術館, 1959年.
- 1967
- 横山大観: 生誕100年記念, 松坂屋名古屋店, 松坂屋大阪店, 1967年.
- 1980
- 横山大観勅題画展: 永青文庫秘蔵, 三越本店, 1980年.
- 1987
- 「横山大観屏風絵」展: 生誕120年記念: 心の芸術, 銀座・松屋, 大阪・心斎橋・大丸, 名古屋・松坂屋, 1987年.
- 1991
- 人間横山大観 その人と芸術, 水戸市立博物館, 1991年.
- 1991
- 横山大観名作展, 茨城県近代美術館, 1991年.
- 1993
- 横山大観展, 京都文化博物館, 1993年.
- 1997
- 横山大観の時代 1920s–40s, 三の丸尚蔵館, 1997年.
- 2002
- 「横山大観」その心と芸術: 特別展, 東京国立博物館, 2002年.
- 2004
- 横山大観「海山十題」展: 発見された幻の名画, 東京藝術大学大学美術館, 足立美術館, 2004年.
- 2008
- 横山大観: 新たなる伝説へ: 没後50年, 国立新美術館, 2008年.
- 2012
- 横山大観展: 開館15周年記念, 宇都宮美術館, 2012年.
- 2018
- 横山大観展: 生誕150年, 東京国立近代美術館, 京都国立近代美術館, 2018年.
- 東京国立博物館
- 東京国立近代美術館
- 三の丸尚蔵館, 東京
- 横山大観記念館, 東京
- 永青文庫, 東京
- 東京藝術大学大学美術館
- 茨城県近代美術館
- 熊本県立美術館
- 福井県立美術館
- 大倉集古館, 東京
- 1912
- 山田直三郎編『大観画集』東京: 芸艸堂, 1912年.
- 1916
- 小林寿一編『大観画集』東京: 精華社, 1916年.
- 1925
- 斎藤隆三編『大観作品集』[正], 続. 東京: 日本美術院, 1925-1928年.
- 1926
- 横川毅一郎編『大観自叙伝』東京: 中央美術社, 1926年.
- 1951
- 横山大観『大観画談』東京: 大日本雄弁会講談社, 1951年 [自筆文献].
- 1954
- 難波専太郎『横山大観』東京: 美術探求社, 1954年.
- 1957
- 『本年九十の賀寿を迎えた横山大観翁特集 萌春: 第40号』(1957年1月).
- 1959
- 茨城県横山大観伝記編纂委員会編『横山大観伝』[水戸]: 茨城県, 1959年.
- 1980
- 『横山大観落款印譜集』東京: 大日本絵画, 1980年.
- 1982
- 齊藤隆三『横山大観』東京: 中央公論美術出版, 1982年.
- 1983
- 横山大観, 和田三造, 谷崎潤一郎『鼎談餐』東京: 柏書房, 1983年.
- 1984
- 長尾政憲『横山大観と近親の人々』東京: 鉦鼓洞, 1984年.
- 1985
- 『横山大観 歴史を築いた日本の巨匠: 第1巻』東京: 美術年鑑社, 1985年.
- 1987
- 細野正信, NHK取材班『流転・横山大観「海山十題」』東京: 日本放送出版協会, 1987年.
- 1993
- 横山大観記念館編『大観の画論』東京: 鉦鼓洞, 1993年.
- 2009
- 横山大観記念館監修・責任編集『横山大観画集』全2冊, 東京: 朝日新聞出版, 2009年.
- 2018
- 鶴見香織, 中村麗子, 山田歩, 横山隆, 佐藤志乃, 池田博子『横山大観展: 生誕150年』東京国立近代美術館, 京都国立近代美術館, 日本経済新聞社, 毎日新聞社, 鶴見香織, 山田歩編. [東京]: 日本経済新聞社 : 毎日新聞社, 2018年 (会場: 東京国立近代美術館, 京都国立近代美術館).
- 2018
- 鶴見香織, 勝山滋『もっと知りたい横山大観: 生涯と作品 アート・ビギナーズ・コレクション』古田亮監修. 東京: 東京美術, 2018年.
- 2019
- 東京文化財研究所「横山大観」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8862.html
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「横山大観」『日本美術年鑑』昭和34年版(143-146頁)横山大観は、昭和32年暮以来気管支炎のため自宅で療養中であつたが、その後の衰弱はなはだしく、33年1月26日逝去した。享年89歳。本名秀麿。明治元年9月18日水戸藩士酒井捨彦の長男として水戸市に生れた。明治11年に一家をあげて上京、大観は湯島小学校から東京府中学校、東京英語学校に入学し、傍ら渡辺文三郎に鉛筆画を習つていた。21年母方の親戚横山家を継いで改姓、またこの年東京英語学校を卒業し、結城正明...
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横山 大観(よこやま たいかん、正字体:大觀、1868年(慶応4年 / 明治元年) - 1958年(昭和33年)2月26日)は、日本の美術家、日本画家。本名、横山 秀麿(よこやま ひでまろ)。(生年月日については記録により小異がある。くわしくは後述。)常陸国水戸(現在の茨城県水戸市下市)出身。近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。帝国美術院会員。第1回文化勲章受章。死後、正三位勲一等旭日大綬章を追贈された。茨城県名誉県民。東京都台東区名誉区民。
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- 2023-11-14