- 作家名
- 柳原義達
- YANAGIHARA Yoshitatsu (index name)
- Yanagihara Yoshitatsu (display name)
- 柳原義達 (Japanese display name)
- やなぎはら よしたつ (transliterated hiragana)
- 生年月日/結成年月日
- 1910-03-21
- 生地/結成地
- 兵庫県神戸市
- 没年月日/解散年月日
- 2004-11-11
- 没地/解散地
- 東京都世田谷区
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 彫刻
作家解説
1910年3月21日、兵庫県神戸市栄町に父・達二郎、母・みねの第3子として生まれる。広告宣伝業を営む父は美術好きであり、少年期より病弱だった柳原に運動部への加入と日本画家の道を勧めた。これを受け、柳原は兵庫県立第三神戸中学校(現・兵庫県立長田高等学校)在学中に陸上部(中距離)のキャプテンとなるとともに、2年生より藤村良一(良知)から日本画の手ほどきを受ける。中学校卒業後に京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に合格したが、日本画家・福田平八郎のアドバイスを受けたことで、その難しさを痛感。洋画に転向すべく関西美術院でデッサンを研究したが、そのころに『世界美術全集第33巻 欧洲近代と明治大正時代』(平凡社、1929年)に掲載されたブールデルの《アルヴェル将軍大乗馬像》図版を目にして彫刻家となることを決意した。
1930年に上京し、同舟舎[どうしゅうしゃ]でデッサンを学んだ後、1931年東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科塑造部に入学した。在学時には朝倉文夫、北村西望、建畠大夢らが教鞭をとっていたが、柳原は学校教育からは意識的に距離を置き、高村光太郎『ロダンの言葉』(東京:阿蘭陀書房、1916年)を読みつつ、当時帰国したばかりの清水多嘉示[たかし]を慕って指導を受けた。在学中の1932年、帝国美術院第13回美術展覧会(帝展)に入選した《女の首》(所在不明)が清水多嘉示に評価され、翌年より清水が所属する国画会彫刻部に出品するようになる。1936年に東京美術学校を卒業し、2年ほど研究科で学ぶ傍ら、1933年には国画奨学賞受賞、1937年に国画会同人となり、1939年には《山羊》(三重県立美術館)にて国画会賞を受けるなど、躍進を続けた。1939年に国画会を脱会すると、山内壮夫、本郷新、佐藤忠良、舟越保武らともに新制作派協会彫刻部の創立に参加し、以降新制作派協会(1951年以降は新制作協会に改称)に出品を続けた(1963年脱退)。
柳原自身が後に批判的に回顧しているように、このころの制作は、書物を通して知ったロダンやブールデル、マイヨール、デスピオらの作品や言葉を範に、眼前のモデルを写し取る手法を採った。骨格が大きく、量感ある独自の人体表現は、その歪みや不均衡が揶揄されることもあったが、同時代の彫刻家たちからは皮相的な描写とは一線を画す存在感を持つものと評価を受けていたという(山本恪二「首のモデルになった頃」『三彩 特集:春の院展/柳原義達/荻須高徳/國領經郎』428号、1983年)。
私生活では1937年にファッション画の先駆である小島操と結婚。以降、早くから成功していた操が柳原の制作を支えた。1939年には東京都世田谷区赤堤に住宅兼アトリエを建て、最晩年までここで生活と制作を続けた。
戦争の時代が到来すると、鉱山の労務管理の仕事に就き、1944年ごろには軍需生産美術推進隊における彫像の共同制作などにも携わった。1945年に佐倉部隊への召集令状を受けるが、8月15日、出立する駅のホームで終戦を知った。
1946年には佐藤忠良とともに作品を預けていたコレクターの家が火災に遭い、それまでの作品のほとんどを焼失。この事故によって、現存が確認される柳原の戦前作品は、《モニュマン試作 楠妃諫子之像》(1936年、三重県立美術館)、《山羊》(1939年、三重県立美術館)、《山本恪二さんの首》(1940年、三重県立美術館)のみとなった。
1950年には、第14回新制作派協会展にちんちんをする身振りをする女性の姿を象った《犬の唄》(三重県立美術館)を発表。同作はエドガー・ドガのパステル画《カフェ・コンセールにて―犬の歌》(1876-1877年、ジェロルド・ペレンチオ・コレクション)から着想を得たもので、柳原は知人の宇田博より、同作が普仏戦争にて敗戦したフランスの抵抗精神を描いていると聞き、これに共感して同じテーマの作品を制作した。制作の背景には柳原が占領下の日本で感じていたやるせない気持ちと怒りがあり、《犬の唄》には勝者への柔軟と抵抗にゆらぐ、日本人の複雑な態度が表現されている。裸婦の姿勢はロダンの説く螺旋の動きを意識しつつ、ちんちんをする手振りは勝者へのおもねりを、後ろにまわした手は内に秘めた抵抗心を示した。
発表の数年後、イタリアで美術批評家の土方定一と知り合い、薫陶を受けたことをきっかけに、「犬の唄」の主題は柳原の重要なテーマとなった。以降1960年代から1980年代まで、「犬の唄」と題する作品を複数制作した。
1951年にサロン・ド・メ東京展が開かれると、ヨーロッパ同時代の表現に衝撃を受け、1953年12月よりフランスに私費留学に赴く。パリのアカデミー・ドゥ・ラ・グランド・ショミエールに通い、エマニュエル・オリコストのもとで彫刻の再修業に励んで、「平面的な自分の目を、立体的な量の目にする」(「反省の歴史」『美術ジャーナル』24号、1961年、23頁)ことに努めた。滞在中にはヨーロッパ各地の美術館を巡り、同時代彫刻家の知遇も得た。このような経験を経て、柳原は対象を写し取ることから、対象を通して自然や生命をとらえることへと関心を移していく。また、抽象彫刻家の仕事を通して彫刻素材への意識を高めたこと、イタリア現代彫刻の作家たちやジェルメーヌ・リシェらと出会ったことも、柳原ののちの作風転換に大きく寄与しただろう。
1957年2月に帰国すると、対象を大きくデフォルメし、荒々しい粘土の質感を残した具象彫刻を発表するようになる。1958年には前年の一連の彫刻作品によって第1回高村光太郎賞を受賞、1974年には《道標・鳩》(1973年、三重県立美術館)で第5回中原悌二郎賞を受賞するなど、具象彫刻を代表する作家として知られるようになった。
自らと彫刻のあるべき方向について反省を続け、思いを巡らせた柳原は、1960年代半ばより後半生の代表作である〈道標[どうひょう]〉シリーズに取り組み始める。絶え間なく動く自然、生命の美しさを写し取ることは、彫刻家でなければできない仕事であると考え、動物園のカラスやアトリエで飼育していたハトをモデルにこれに取り組んだ。反省を繰り返しながら模索を続けた柳原にとって、作品一つ一つが道に迷わず制作を行ってゆくための「道標」であるという思いが、これらの作品には込められている。
1960年代より土方定一と協働し、宇部市野外彫刻展(山口)や須磨離宮公園現代彫刻展(兵庫)など、初期の野外彫刻展への運営、出品などに携わったほか、1968年からは日本大学藝術学部で教鞭を執り、後進の指導に努めるなど、戦後の彫刻界において果たした役割は大きい。1996年には文化功労者に選ばれている。
文筆に優れ、美術雑誌などに彫刻のあるべき姿について積極的に寄稿するほか、戦後日本におけるフランス彫刻、イタリア現代彫刻の紹介にも努めた。主要な文章は1985年に『孤独なる彫刻—柳原義達美術論集』(筑摩書房)にまとめられ、柳原含む戦後彫刻について知るための重要な文献となっている。
2002年には、それまで展覧会開催などで関わりのあった三重県立美術館に代表的な彫刻、デッサンを寄贈し、翌年三重県立美術館に柳原義達記念館が開館した。2004年11月11日、東京都世田谷区の病院で逝去。没後、アトリエに残された一部の旧蔵書籍、石膏原型、道具などの資料は遺族によって三重県立美術館に寄贈されている。
(髙曽由子) (掲載日:2024-10-18)
*解説中に言及している柳原義達作品の所蔵館は、すべて石膏原型の所蔵館。
- 1959
- 柳原義達・辻晋堂展, 神奈川県立近代美術館 鎌倉, 1959年.
- 1974
- 柳原義達展: 道標鳩の連作を中心とした近作––彫刻とデッサン, 大阪・現代彫刻センター, 現代彫刻センター, 1974年.
- 1977
- 柳原義達新作デッサン展, 現代彫刻センター, 1977年.
- 1983
- 柳原義達展, 神奈川県立近代美術館鎌倉, 兵庫県立近代美術館, 大原美術館, 北海道立旭川美術館, 1983年.
- 1986
- 柳原義達自選展, 現代彫刻センター, 大阪・現代彫刻センター, 1986年.
- 1987
- 柳原義達展, 日本橋髙島屋, なんば髙島屋, 1987年.
- 1993
- 柳原義達展, 東京国立近代美術館, 京都国立近代美術館, 1993年.
- 1993
- 奈良ゆかりの現代作家: 柳原義達・井上武吉・上村淳之・絹谷幸二の世界, 奈良県立美術館, 1993年.
- 1995
- 柳原義達展: 道標––生のあかしを刻む, 宮城県美術館, 茨城県近代美術館, 佐倉市立美術館, 山梨県立美術館, 三重県立美術館, 芸術の森美術館, 長岡市美術センター, 神戸市立博物館, 1995–1996年.
- 1999
- 柳原義達デッサン展, 三重県立美術館, 1999年.
- 1999
- 柳原義達展: デッサンの魅力, 神奈川県立近代美術館(別館), 1999年.
- 2000
- 卒寿記念 柳原義達展, 山形美術館, 2000年.
- 2000
- 卒寿記念 柳原義達展, 世田谷美術館, 2000年.
- 2001
- 向井良吉・柳原義達: 特別展: 宇部市制施行80周年・野外彫刻展40周年記念, 宇部市野外彫刻美術館, 2001年.
- 2007
- 柳原義達・土谷武・江口週彫刻三人展: 練馬区独立60周年記念 ねりまの美術, 練馬区立美術館, 2007年.
- 2018
- 柳原義達: ブロンズ彫刻と原型, 三重県立美術館, 柳原義達記念館, 2018年.
- 2020
- 前略よしたつ様: 言葉で触れる彫刻 コレクション展 柳原義達特集展示, ときわ湖水ホール アートギャラリー, 2020年.
- 三重県立美術館
- 東京国立近代美術館
- 神奈川県立近代美術館
- 奈良県立美術館
- 茨城県近代美術館
- 愛知県美術館
- 兵庫県立美術館
- 千葉市美術館
- 国立国際美術館, 大阪
- 京都国立近代美術館
- 1950
- 柳原義達「塑造2: 首と浮彫」美術出版社編『彫刻の技法』東京: 美術出版社, 1950年, 49–71頁.
- 1958
- 竹林賢「ぶらり見参 柳原義達」『美術手帖』146号 (1958年9月): 76–82頁.
- 1960
- 三木多門「柳原義達 現代日本の作家像」『美術手帖』179号 (1960年10月): 103–111頁.
- 1961
- 柳原義達「反省の歴史」『美術ジャーナル』24号 (1961年). [自筆文献].
- 1981
- 『特集柳原義達 みづゑ: 917』(1981年8月): 3–49頁.
- 1983
- 『特集柳原義達/荻須高徳 三彩: 428』(1983年5月): 28–54頁.
- 1983
- 柳原義達展実行委員会編『柳原義達展』[出版地不明]: 柳原義達展実行委員会, 1983年 (会場: 神奈川県立近代美術館, 兵庫県立近代美術館, 大原美術館, 北海道立旭川美術館).
- 1985
- 柳原義達『孤独なる彫刻: 柳原義達美術論集』東京: 筑摩書房, 1985年 [自筆文献].
- 1986
- 「巻頭特集 柳原義達: 孤独なる抵抗の連鎖」『アート・トップ: 96』(1986年12月): 14-48頁.
- 1987
- 『柳原義達作品集』東京: 講談社, 1987年.
- 1993
- 東京国立近代美術館編『柳原義達展』東京: 東京国立近代美術館, 1993年 (会場: 東京国立近代美術館, 京都国立近代美術館).
- 1995
- 芳野明[ほか]編『柳原義達展: 道標––生のあかしを刻む』[出版地不明]: 柳原義達展実行委員会, 1995年 (会場: 宮城県美術館, 茨城県近代美術館, 佐倉市立美術館, 山梨県立美術館, 三重県立美術館, 芸術の森美術館, 長岡市美術センター, 神戸市立博物館).
- 1998
- 柳原義達, 柳原操, 清水真砂(聞き手)「インタビュー」世田谷美術館編『世田谷美術展. ’99』東京: 世田谷美術館, 1998年, 66–71頁 (会場: 世田谷美術館).
- 1999
- 三重県立美術館編『柳原義達デッサン展』[津]: 「柳原義達デッサン展」図録制作委員会, 1999年 (会場: 三重県立美術館県民ギャラリー).
- 2000
- 世田谷美術館編『柳原義達展: 卒寿記念』東京: 世田谷美術館, 2000年 (会場: 世田谷美術館).
- 2003
- 三重県立美術館編『柳原義達作品集』[津]: 三重県立美術館協力会, 2003年.
- 2003
- 加藤薫, 川村兼章「柳原義達の彫刻に関する一考察」『国際経営論集』25巻 (2003年3月): 383–414頁.
- 2017
- 三重県立美術館編『Yoshitatsu Yanaguihara: 呼吸するブロンズ––柳原義達』津: 三重県立美術館協力会, 2017年.
- 2018
- 三重県立美術館編『柳原義達: ブロンズ彫刻と原型』[津]: 三重県立美術館, 2018年 (会場: 三重県立美術館).
- 2019
- 東京文化財研究所「柳原義達」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28312.html
- 2020
- 柳原義達『孤独なる彫刻: 造形への道標』東京: アルテヴァン, 2020年 [自筆文献].
- 2020
- 『柳原義達への手紙. UBEビエンナーレ (現代日本彫刻展)柳原義達賞新設記念誌』[宇部]: 宇部市, 2020年.
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「柳原義達」『日本美術年鑑』平成17年版(358-359頁)新制作協会会員で文化功労者の彫刻家柳原義達は11月11日午前10時7分、呼吸不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年94。 1910(明治43)年3月21日、神戸市栄町6丁目に生まれる。1928(昭和3)年3月兵庫県立神戸第三中学校(現、長田中学校)を卒業。在学中、神戸第一中学校の教師で日本画家村上華岳の弟子であった藤村良一(良知)に絵を学び、卒業後、京都に出て福田平八郎に師事するうち、『世...
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柳原 義達(やなぎはら よしたつ、1910年3月21日 - 2004年11月11日)は、近現代日本の彫刻家。
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- 2023-02-20