- 作家名
- 安井曾太郎
- YASUI Sōtarō (index name)
- Yasui Sōtarō (display name)
- 安井曾太郎 (Japanese display name)
- やすい そうたろう (transliterated hiragana)
- 安井曽太郎
- 生年月日/結成年月日
- 1888-05-17
- 生地/結成地
- 京都府京都市中京区
- 没年月日/解散年月日
- 1955-12-14
- 没地/解散地
- 神奈川県足柄下郡湯河原町
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
作家解説
1888年5月17日、京都市中京区六角通富小路東入る大黒町に生まれる。父は木綿問屋安井商店を営み、五男であった安井曾太郎は、尋常小学校に学んだ後、京都市立商業学校に学ぶ。しかし洋画家を志して、同校の本科1年終了後退学し、同校の図画教師・平清水亮太郎について鉛筆・水彩画を学ぶ。1904年16歳の時、浅井忠の聖護院[しょうごいん]洋画研究所に入り、梅原龍三郎らとともに浅井忠や鹿子木孟郎[かのこぎたけしろう]の指導を受ける。
後に同研究所が発展した関西美術院にも学ぶ。1907年4月、津田青楓のフランス留学に同行し、渡欧するが、この渡欧以前の学習の成果を示す最初期の油彩画が3点残されている。1点は、《粟田口風景》(1905年、京都市美術館)、そして2点の《自画像》(ともに1906年制作、京都市美術館・東京国立博物館が所蔵)である。とりわけ現在もその面影が偲ばれる京都の名所・青蓮院入り口の楠の大樹を描いた《粟田口風景》は、光の描写も見事で、《自画像》とともにすでにその才能の片鱗が認められる。現存するこの時期のクロッキーやデッサンにも、その力量が如実に示されている。
そしてその自信を心に秘めて、1907年4月に渡欧。6月パリに着き、早速、アカデミー・ジュリアンに入学し、ジャン・ポール・ローランスの指導を受ける。翌年、20歳を迎えて、津田とともにグレー = シュル = ロワンに滞在し、制作に励む。津田とはさらに行動をともにして、1909年には、藤川勇造も含めた3人で、オーヴェールの村を訪れている。この年の制作になる《田舎の寺》(京都国立近代美術館)は、留学初期の成果を物語る代表作の1点である。翌年、アカデミー・ジュリアンを退学して独学するが、なお制作は継続し、スペインやイタリアなどにも足をのばしている。しかし、1914年から健康を害して、第一次世界大戦の勃発もあり、この渡欧で制作した45点の作品を携えてロンドンに向かい、帰国の途について、同年の11月、京都の自宅に戻った。
1915年10月、第2回二科展で滞欧作44点が特別陳列され、会員に推挙される。また、関西美術院で鹿子木孟郎の後任として指導する。健康も回復し、1916年5月に、東京都豊島区目白町に転居し、第3回の二科展に出品、以後1934年まで、毎年同展に出品を続けた。1917年、水野浜と結婚。1923年6月には、長男・慶一郎が誕生している。この年の9月に発生した関東大震災の後、しばらくは京都に滞在して制作する。1925年、京都の山本画箋堂で個展を開く。しかし、この時期は、たとえば京都に戻って描かれた《京都郊外》(1923年、東京国立近代美術館)など新たな展開への兆しのある作品があるものの、帰国後は一時創作の不振にも陥り、模索の時代として捉えることができる。
そうした数年が経過する後、1929年に乃木希典の親族の女性を描き、第16回二科展に出品した《座像》(アーティゾン美術館、東京)で、いわゆる「安井様式」といわれる作風の確立が示される。人物像では、第17回二科展に出品の《婦人像》(1930年、京都国立近代美術館)や《ポーズせるモデル》(1931年、京都国立近代美術館)が続き、風景画では、1931年制作の《外房風景》(大原美術館、倉敷)や《奥入瀬の渓流》(1933年、東京国立近代美術館)、そして静物画での《薔薇》(1932年、アーティゾン美術館)はじめ、堰を切ったように代表作が生み出されていく。1933年4月、座右宝刊行会の後藤真太郎によって清光会が組織され、梅原龍三郎、坂本繁二郎らとともに会員になる。この時期の制作では、細川護立[もりたつ]の依頼で描かれた《金蓉》(1934年、東京国立近代美術館)や《玉蟲先生像》(1934年、東北大学史料館、仙台)、《本多光太郎肖像画》(1936年、東北大学金属材料研究所、仙台)などの作品に、人物の性格描写にも切り込んだ境地を示す。1935年には、帝国美術院会員に任命され、帝展改組(帝国美術院展覧会の改組)の余波もあって二科会会員を辞している。
自らの創作様式を確立し、梅原龍三郎とともに日本洋画界の頂点に位置することになる安井は、1936年、新たに創立された一水会に参画し、以後亡くなるまで同会委員をつとめる。第1回展に《承徳の喇嘛廟》(1937年、永青文庫、東京)、《深井英五氏像》(1937年、東京国立博物館)など風景、人物それぞれのジャンルに高く評価された作品を出品、絶賛される。この後も活発な制作活動は続き、1944年に、梅原龍三郎とともに東京美術学校(現・東京藝術大学)教授となり、7月に帝室技芸員となる。同年夏には、北京に赴いたが病を患う。1945年3月に帰京後、直ちに埼玉県に疎開する。終戦の後、翌年の第1回日展(日本美術展覧会)の審査員をつとめる。1947年に東京・下落合の自宅に戻る。翌年には、一時失明の恐れもあった病も克服する。1949年に、神奈川県湯河原町の日本画家・竹内栖鳳の旧画室に転居。同年6月、日本美術家連盟が結成され、その初代会長となる。1950年1月から、雑誌『文藝春秋』の表紙絵を描き、以後、毎号担当する。1951年に、湯河原の画室で、浜夫人を描いた《画室にて》(大原美術館、倉敷)を第13回一水会展に出品。依頼を受けた肖像画も多いなか、前年に一人息子の孫を描いた《孫》(大原美術館)とともに、最も身近な人物を描いた作例として特筆できる。
1952年3月には、東京藝術大学教授を辞任。この年の11月3日、生涯のライバルでもあった同郷の梅原龍三郎とともに文化勲章を受章。翌年に本間美術館(山形)で、「文化勲章受章記念展」が梅原龍三郎との二人展として開かれた。この年の10月には、神奈川県立近代美術館で「安井曾太郎自薦展」が開催された。1954年に九州各地を旅行し、坂本繁二郎を訪ねた。この年の8月、湯河原に自宅とアトリエを新築して転居したが、翌年12月、肺炎のため自宅で静養中に心臓麻痺を併発して死去。絶筆は《秋の城山》(1955年、東京国立近代美術館)。1949年に日本美術家連盟が結成された時、その初代会長となり、同連盟は毎年、年末の助け合い運動としてチャリティー展を開催し、この作品もその展覧会に出品するため、病をおして屋外制作を続け、完成させたものであった。明快な対象把握と色彩によって、安井の人生と画業を象徴する作品といって過言ではない。そして梅原龍三郎とともに、日本洋画界の重鎮として、また指導者としての活動はいうまでもなく、「日本的油絵」の典型として、明快な色調と形態把握による「写実(リアリズム)」を追求した洋画家であった。没後、1956年に開催された遺作展終了の後、1957年に画業を顕彰して、具象画家の発掘と育成などを目的に安井賞が設定され、第40回(1997)まで続き、野見山暁治や鴨居玲、絹谷幸二ほかが受賞した。
(山野 英嗣)(掲載日:2023-09-11)
- 1915
- 安井曾太郎特別陳列: 二科展 第二回, 日本橋・三越呉服店, 1915年.
- 1949
- 梅原龍三郎・安井曽太郎自選展, 銀座松坂屋, 1949年.
- 1952
- 文化勲章受章記念展覧会 梅原龍三郎・安井曾太郎展, 本間美術館, 1952年.
- 1953
- 安井曾太郎自薦展, 神奈川県立近代美術館, 1953年.
- 1956
- 安井曾太郎遺作展, ブリヂストン美術館, 国立近代美術館, 京都市美術館, 1956年.
- 1958
- 安井曾太郎名作回顧展, 日本橋白木屋, 1958年.
- 1969
- 安井曾太郎回顧展, 西武百貨店池袋店, 1969年.
- 1972
- 安井曾太郎・梅原龍三郎名作展, 岡山県総合文化センター, 1972年.
- 1978
- 安井曽太郎展: 生誕90年記念, ブリヂストン美術館, 1978年.
- 1979
- 安井曽太郎展: 京都が生んだ洋画の巨匠, 京都国立近代美術館, 1979年.
- 1980
- 梅原龍三郎・安井曽太郎展, 愛知県美術館, 大丸大阪店, 1980年.
- 1981
- 安井曽太郎展: 写実絵画の原点, 尼崎市総合文化センター, 1981年.
- 1982
- 日本の洋画三大巨匠展: 梅原龍三郎・安井曽太郎・坂本繁二郎, 大丸・京都店, 1982年.
- 1982
- 梅原龍三郎・安井曽太郎展, まちだ東急百貨店, 浦和伊勢丹, さっぽろ東急百貨店, 1982年.
- 1989
- 生誕100年記念: 安井曽太郎展, 西武美術館, 大丸・大阪心斎橋店, 北海道立近代美術館, そごう美術館, 1989年.
- 1994
- 日本洋画壇の三巨匠: 梅原龍三郎・安井曾太郎・須田国太郎, 大丸ミュージアムKYOTO, 大丸神戸店, 福岡天神・大丸, 大丸心斎橋店, 1994–1995年.
- 1995
- 安井曽太郎若き日の素描展, 池田町立美術館, 1995年.
- 1998
- 生誕110年記念: 安井曽太郎展, 千葉そごう美術館, 京都高島屋グランドホール, そごう美術館 (横浜), 1998年.
- 1999
- 梅原龍三郎 安井曽太郎展, 井原市立田中美術館, 1999年.
- 2005
- 安井曾太郎展: 歿後50年, 宮城県美術館, 茨城県近代美術館, 三重県立美術館, 2005年.
- 東京国立近代美術館
- 京都国立近代美術館
- 京都市美術館 (京都市京セラ美術館)
- 兵庫県立美術館
- 三重県立美術館
- 茨城県近代美術館
- 大原美術館, 岡山県倉敷市
- 石橋財団アーティゾン美術館, 東京
- ポーラ美術館, 神奈川県箱根町
- メナード美術館, 愛知県小牧市
- 1927
- 『安井曾太郎画集』東京: アトリエ社, 1927年.
- 1932
- 『安井曾太郎版画集』東京: 求龍堂, 1932年.
- 1941
- 直木友次良編『素描集: 第2輯』東京: 美術思潮社, 1941年.
- 1942
- 藤本韶三編『安井曾太郎肖像画集』東京: 造形芸術社, 1942年.
- 1950
- 『滞欧習作デッサン集: 安井曾太郎』東京: 座右宝刊行会, 1950年.
- 1952
- 『安井曾太郎 日本現代画家選』1-3. 東京: 美術出版社, 1952年.
- 1954
- 石原竜一編『安井曾太郎表紙画集』[1], 2. 東京: 文芸春秋新社, 1954-1956年.
- 1954
- 座右宝刊行会編『現代世界美術全集: 第11巻』東京: 河出書房, 1954年.
- 1956
- 木下正男編『安井曾太郎』東京: 美術出版社, 1956年.
- 1956
- 『安井曾太郎 角川写真文庫: 39』[東京]: 角川書店, 1956年.
- 1962
- 『安井曾太郎 日本近代絵画全集: 第6』東京: 講談社, 1962年.
- 1962
- 新規矩男[ほか]編『安井曾太郎・坂本繫二郎 世界名画全集: 続刊7』東京: 平凡社, 1962年.
- 1972
- 富山秀男, 乾由明 [解説]『安井曾太郎 小出楢重 現代日本美術全集: 10』東京: 集英社, 1972年.
- 1972
- すいどうばた美術学院出版部編『安井曾太郎デッサン集: 滞欧作』東京: 高澤学園, 1972年.
- 1973
- 原田実編著『安井曾太郎 日本の名画: 38』東京: 講談社, 1973年.
- 1975
- 『安井曾太郎素描集: 1904-1910』東京: 日動出版部, 1975年.
- 1979
- 嘉門安雄『安井曾太郎』東京: 日本経済新聞社, 1979年.
- 1987
- 富山秀男, 原田実責任編集『梅原龍三郎/安井曽太郎. 20世紀日本の美術: アート・ギャラリー・ジャパン: 14』東京: 集英社, 1987年.
- 1993
- 島田康寛編『安井曾太郎 日経ポケットギャラリー』東京: 日本経済新聞社, 1993年.
- 1996
- 兵庫県立近代美術館編『安井曾太郎デッサン全作品図録: 兵庫県立近代美術館所蔵』[神戸]: 兵庫県立近代美術館, 1996年.
- 2005
- 宮城県美術館, 茨城県近代美術館, 三重県立美術館, 東京新聞編『安井曾太郎展: 没後50年』東京: 東京新聞, 2005年 (会場: 宮城県美術館, 茨城県近代美術館, 三重県立美術館) [展覧会カタログ].
- 2019
- 東京文化財研究所「安井曽太郎」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-08-14. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8914.html
- 2022
- 貝塚健「安井曾太郎《座像》と「安井様式」の誕生」『アーティゾン美術館研究紀要』第3号 (2022年12月): 14-23頁.
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「安井曽太郎」『日本美術年鑑』昭和31年版(155-158頁)日本芸術院会員、帝室技芸員、一水会委員、日本美術家連盟会長などの要職にあつた洋画壇の巨匠安井曽太郎は、12月初めから神奈川県湯河原の自宅で肺炎療養中同14日心臓麻痺のため逝去した。享年67歳。明治21年5月17日京都市に生れ、若くして平清水亮太郎に洋画の初歩を学び、同37年浅井忠の研究所に入り、のち関西美術院に移つて浅井、鹿子木孟郎の指導を受けた。同40年渡仏、アカデミイ・ジュリアンに入つてジャン...
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安井 曾太郎(やすい そうたろう、1888年5月17日 - 1955年12月14日)は、大正~昭和期の洋画家。
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- 2023-09-26