- 作家名
- 八木一夫
- YAGI Kazuo (index name)
- Yagi Kazuo (display name)
- 八木一夫 (Japanese display name)
- やぎ かずお (transliterated hiragana)
- 生年月日/結成年月日
- 1918-07-04
- 生地/結成地
- 京都府京都市
- 没年月日/解散年月日
- 1979-02-28
- 没地/解散地
- 京都府京都市伏見区
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 彫刻
- 版画
- 工芸
作家解説
1918年7月4日に陶芸家の八木一艸[いっそう]の長男として京都市に生まれる。父の一艸は1920年に京都市陶磁器試験場の同窓生であった楠部彌弌[くすべやいち]らと個性尊重や表現の自由を謳った赤土(赤土会、赤土社)を結成するなど京都の近代陶芸界における重要人物の一人である。1931年に京都市立六原尋常小学校を卒業後、京都市立美術工芸学校[現・京都市立美術工芸高等学校]彫刻科に入学し、彫刻を石本暁海、松田尚之、矢野判三に、デッサンを太田喜二郎に、美術史を加藤一雄に学ぶ。1937年に同校卒業後、国立陶磁器試験所伝習生となり、彫刻部主任嘱託として陶彫を指導していた沼田一雅に師事。沼田はフランス・セーブルの国立陶磁器製作所で陶磁彫刻の技術を学んだ東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科教授であった。同年に沼田が設立した日本陶彫協会に参加し、1939年1月に日本橋三越で開催された同会の第1回展に《猫》(1938年、京都国立近代美術館)を出品する。しかし、同年5月に大阪歩兵第八連隊に補充兵として入隊。8月に中国の広東方面に派遣されたが、翌月に病気を患い帰国。和歌山県の加太にある陸軍病院で療養後、1940年8月に除隊して京都に戻った。後の回想の中で自身がやきものと真に接したのは、入隊した時に使用したアルミの食器の味気無さと中国で目にした色絵磁器の盃の美しさであったことを述べている(八木一夫「私の自叙伝」『芸術新潮』1979年5月号)。その後、療養を続けながら第6回から第8回の歴程美術協会展に出品。歴程美術協会は日本画家の山岡良文、丸木位里、山崎隆らが会員で戦前より抽象主義、キュビズム、シュールレアリズムなどを研究して前衛活動を繰り広げていた団体である。この頃の八木はこうした海外の前衛表現を参考にして陶器を造っていたが、自身の活動について「『在野と曳かれもんとは一緒にならへんで』そう父からもいわれたこともある。『まず、官展で実力をつけて、それから、在野というのならねえ』今は亡い河村喜太郎さんが相槌をうっていた。(中略)つまり陶器自体が、まだ私には判っていなかったのである」との回想を残している(八木一夫「出発の頃 私の陶磁誌/1」『日本美術工藝』437号、1975年2月)。歴程美術協会展への出品をやめた後、八木は《豚児蘭春》で1946年の第2回日展(日本美術展覧会)にようやく初入選を果たし、翌年の第3回日展にも《白瓷三彩草花文釉瓶》が入選。これをもって日展への出品をやめたが、1948年には京展(京都市主催美術展覧会)に《金環触》(京都市美術館)を出品して京展賞受賞。同年6月の新匠工芸会の第1回展にも作品を出品するなど日展以外の大きな公募展・団体展への出品は基本的にこの年まで続けている。その間、1946年9月に中島清を中心とした青年作陶家集団の設立に参加。翌年の2月に趣意書を発表し、5月に第1回展、10月に第2回展を開催した。八木は第1回展に《掻落向日葵図壺》(1947年、京都国立近代美術館)、第2回展に《春の海》(1947年、京都国立近代美術館)を出品した。青年作陶家集団は、1948年6月に第3回展を開催したが、この回限りで解散。会員間の意見の相違からこの時の出品者は、八木の他に叶哲夫、鈴木治、山田光、松井美介の5人だけであった。この5人で翌月に走泥社を結成し、同年9月に第1回走泥社展を大阪の髙島屋で開催した。ちなみに走泥社はその後、50年間にわたり、会員の増減を繰り返しながら日本の現代陶芸を牽引することになる。走泥社の実質的なリーダーとして八木は、1950年に第2回展を京都市美術館事務所で、第3回展を大阪の松坂屋で、第4回展を京都府ギャラリーで開催するなどこの年に3回の走泥社展を実施した。1951年以降は基本的に毎年春に東京で、秋に京都で走泥社展を開催した。
八木は、走泥社結成前後の頃は、轆轤で挽いた器形に白化粧を施し、掻き落しや鉄絵でパブロ・ピカソ、マックス・エルンスト、ジョアン・ミロ等に倣った絵付けをしていたが、1950年代初頭にイサム・ノグチのテラコッタの彫刻に出会って、土の生理や物質性を活かした構造を有す陶器とは何かを模索するようになった。そして、現在、オブジェ陶の記念碑的作品だとされる《ザムザ氏の散歩》(1954年、京都国立近代美術館)が1954年の走泥社展で発表された。この作品は従来は同年の東京でのフォルム画廊で発表されたといわれてきたが、『日本美術工藝』194号(日本美術工藝社、1954年11月)に掲載された展覧会評から初出展は走泥社展であったことがわかる。轆轤で全てのパーツを制作し、それらを結合させて形を作ったものであり、伊羅保釉(いらぼゆう)に似た質感の条痕釉が施されている。発表当時は、八木の詩的表現だとされていたが、後になって轆轤で制作した点が注目されるようになり、器物を作る道具である轆轤の技術で非器物的表現を成立させた、つまり轆轤の権威を解体させたとして現在のような高い評価が与えられることとなった。
その後、八木は様々なオブジェ陶を発表していくが、釉薬が施された《ザムザ氏の散歩》の一方で、土味をそのまま提示する焼き締め陶による彫刻的表現が模索される。そして1957年頃からは黒陶の技術も用いて活発な造形活動を展開する。黒陶は中国古代の土器制作の技術であり、表面に炭素を吸着させて漆黒の色彩を獲得する手法である。また、《ザムザ氏の散歩》の前後の時期は、やきものの口の象徴である筒状のパーツを用いた造形を試みていたが、1960年代に入ると土による襞や皺のようにみえる形態が登場する。薄く伸ばした土の板をつまみ上げながら襞を作っていくこの手法は、いわゆる「皺寄せ手」と称されるもので、素材が人々に与える生理的な感覚を根底においた仕事である。八木は1957年に京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)彫刻科の非常勤講師となる(1971年より工芸科陶磁器専攻教授)。1959年に第2回オステンド国際陶芸展(ベルギー)にて《鉄象嵌壺》がグランプリを獲得。1962年にはチェコのプラハで開催された国際陶芸展で《碑・妃》(京都国立近代美術館)がグランプリ受賞。1965年から1967年にかけてニューヨークをはじめとするアメリカ8都市を巡回した「日本の新しい絵画と彫刻」展が開催され、《女王》(1964年)がサンフランシスコ近代美術館に、《雲の記憶》(1959年)がニューヨーク近代美術館に収蔵される。1966年には信楽で穴窯焼成を試みて同年11月に東京の壱番館画廊で「八木一夫・壺展」を開催してこれらの作品を発表。1966年には京都市美術館の平常陳列にて八木の初期から近作にいたる17点が特集展示された。1967年にはガラス作品、1969年にはブロンズで作品を制作し、後者は東京の伊勢丹で「八木一夫銅器展」において発表された。1973年7月に京都市立芸術大学シルクロード調査隊隊長としてパキスタン、アフガニスタン、イランへ赴く。この年に日本陶磁協会賞金賞を受賞。日本陶磁協会賞は1954年から始まったもので当初は新進作家に限定されていたが、八木はタイミングが合わずに受賞していなかったことから、この年に八木の現代陶芸界での功績をたたえるために金賞が新設された。1977年に「いつも離陸の角度で」という自作の詩から作品名をつけた黒陶作品を中心とした個展「八木一夫展 — いつも離陸の角度で —」を大阪のカサハラ画廊で開催。1978年には《ザムザ氏の散歩》などの旧作を新しい解釈で再制作し、新旧の作品を対比して展示する「還暦記念八木一夫展」を東京・伊勢丹で開催。これからの展開を予感させたが、翌年2月28日に心不全のために急逝した。
(大長 智広)(掲載日:2023-09-26)
- 1954
- 八木一夫展, フォルム画廊(東京), 1954年.
- 1965
- The New Japanese Painting and Sculpture: An Exhibition, サンフランシスコ近代美術館, デンバー美術館, イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校クラナート美術館, ジョスリン美術館, コロンバス美術館, ニューヨーク近代美術館, ボルチモア美術館, ミルウォーキー・アート・センター, 1965-67年.
- 1966
- 京都市美術館 平常陳列, 京都市美術館, 1966年.
- 1966
- 八木一夫・壺展, 壱番館画廊(東京), 1966年.
- 1969
- 八木一夫作品集刊行記念展, 壱番館画廊(東京), 1969年.
- 1969
- 八木一夫銅器展, 伊勢丹(東京), 1969年.
- 1977
- 八木一夫展: いつも離陸の角度で, カサハラ画廊(大阪), 1977年.
- 1978
- 還暦記念八木一夫展, 伊勢丹(東京), 1978年.
- 1979
- Sodeisha: Avant-garde Japanese Ceramics, ニューカッスル リージョン アートギャラリー (Newcastle Region Art Gallery), 1979年.
- 1981
- 八木一夫展, 京都国立近代美術館, 東京国立近代美術館, 1981年.
- 1991
- 辻晉堂・八木一夫・堀内正和: 1950年代京都から: 新たなる造形への出発: 辻晉堂没後10周年記念特別企画展, 米子市美術館, 1991年.
- 1993
- 八木一夫が出会った子供たち: 土・造形の原点, 滋賀県立陶芸の森, 1993年.
- 2003
- Isamu Noguchi and Modern Japanese Ceramics: A Close Embrace of the Earth, アーサー・M・サックラー・ギャラリー [Arthur M. Sackler Gallery], 2003年.
- 2004
- 八木一夫展: 没後二十五年, 京都国立近代美術館, 広島県立美術館, 茨城県陶芸美術館, 東京都庭園美術館, 岐阜県現代陶芸美術館, 2004–2005年.
- 2016
- 前衛陶芸の先駆者たち: 走泥社の挑戦, 樂翠亭美術館, 2016年.
- 2018
- 土に挑む: 走泥社の作家たち, 福島県立美術館, 主催: Shindō, 2018年.
- 2023
- 走泥社再考: 前衛陶芸が生まれた時代: 開館60周年記念, 京都国立近代美術館, 2023年.
- 京都国立近代美術館
- 国立工芸館, 石川県金沢市
- 京都市美術館 (京都市京セラ美術館)
- 広島県立美術館
- 愛知県陶磁美術館
- 岐阜県現代陶芸美術館
- 高松市美術館, 香川県
- 国立国際美術館, 大阪
- 菊池寛実記念 智美術館, 東京
- 滋賀県立陶芸の森, 甲賀市
- 1955
- 浜村順, 大辻清司「火を通した土のオブジェ: 八木一夫の作品」『美術手帖』第91号(1955年2月): 26-27頁.
- 1968
- 堀内正和「八木一夫: 作家登場」『みづゑ』第767号 (1968年12月): 34-45頁.
- 1969
- 海上雅臣編, 奈良原一高写真『八木一夫作品集』東京: 求龍堂, 1969年.
- 1975
- 乾由明編『八木一夫・鈴木治・加守田章二 現代の陶芸: 第12巻』東京: 講談社, 1975年.
- 1976
- 八木一夫『懐中の風景』東京: 講談社, 1976年 [自筆文献].
- 1977
- 司馬遼太郎「八木一夫と黒陶」『芸術新潮』第28巻第8号 (1977年8月): 66-67頁.
- 1980
- 『八木一夫作品集』東京: 講談社, 1980年.
- 1981
- 八木一夫『刻々の炎』京都: 駸々堂出版, 1981年 [自筆文献].
- 1981
- 京都国立近代美術館, 東京国立近代美術館, 日本経済新聞社編『八木一夫展』東京: 日本経済新聞社, 京都国立近代美術館, 東京国立近代美術館, 1981年 (会場: 京都国立近代美術館, 東京国立近代美術館).
- 1981
- 鈴木健二「八木一夫の芸術: 創造の心理と土の生理」『現代の眼』319号 (1981年6月): 2-3頁.
- 1982
- 乾由明責任編集『八木一夫 現代日本陶芸全集: やきものの美: 14』東京: 集英社, 1982年.
- 1988
- 海上雅臣『やきものこの現代: 八木一夫前後』伊藤時男写真. 東京: 文化出版局, 1988年.
- 1991
- 米子市美術館編『辻晉堂・八木一夫・堀内正和: 1950年代京都から: 新たなる造形への出発: 辻晉堂没後10周年記念特別企画展』米子: 米子市美術館, 1991年 (会場: 米子市美術館).
- 1992
- 乾由明, 林屋晴三責任編集『日本の陶磁: 現代篇: 第4巻』東京: 中央公論社, 1992年.
- 1993
- 滋賀県立陶芸の森編『八木一夫が出会った子供たち: 土・造形の原点』[信楽]: 滋賀県立陶芸の森, 1993年 (会場: 滋賀県立陶芸の森陶芸館) [展覧会カタログ].
- 1999
- 八木一夫『オブジェ焼き: 八木一夫陶芸随筆』東京: 講談社, 1999年 [自筆文献].
- 2004
- 京都国立近代美術館, 日本経済新聞社編『八木一夫展: 没後二十五年』東京: 日本経済新聞社, 2004年 (会場: 京都国立近代美術館, 広島県立美術館, 茨城県陶芸美術館, 東京都庭園美術館, 岐阜県現代陶芸美術館).
- 2008
- 樋田豊次郎, 稲賀繁美編『終わりきれない「近代」: 八木一夫とオブジェ焼 Arts and Culture Library: 2』東京: 美学出版, 2008年.
- 2019
- 東京文化財研究所「八木一夫」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9533.html
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「八木一夫」『日本美術年鑑』昭和55年版(268-270頁)京都市立芸術大学教授の陶芸家八木一夫は、2月28日心不全のため京都市伏見区の国立京都病院で死去した。享年60。1918(大正7)年、7月4日京都市東山区に生まれ、37年京都市立美術工芸学校彫刻科を卒業する。その後陶芸に専念し、47年第3回日展に「白瓷三彩草花文釉瓶」が入選したが、同年「青年作陶家集団」の趣意書を発表、その第1回展を行い、48年同集団解散後、美術陶芸グループ走泥社を結成主宰し、伝統に...
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八木 一夫(やぎ かずお、1918年(大正7年)7月4日 - 1979年(昭和54年)2月28日)は日本の陶芸家である。戦後復興期に前衛陶芸家集団「走泥社」を結成、器としての機能を持たない「オブジェ焼」と呼ばれる作品を発表し、現代陶芸に新分野を確立した。陶芸家・八木一艸の長男。長男は陶芸家の八木明。
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- 2023-09-26