- 作家名
- 村山知義
- MURAYAMA Tomoyoshi (index name)
- Murayama Tomoyoshi (display name)
- 村山知義 (Japanese display name)
- むらやま ともよし (transliterated hiragana)
- 生年月日/結成年月日
- 1901-01-18
- 生地/結成地
- 東京府東京市神田区(現・東京都千代田区)
- 没年月日/解散年月日
- 1977-03-22
- 没地/解散地
- 東京都渋谷区
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
- パフォーマンスアート
- 舞台芸術
- 建築
作家解説
1901年、東京市神田区に生まれる。父・知二郎[ともじろう]は医者である。叔父・三浦守治[もりはる]はドイツに留学した病理解剖学を専門とする東京帝国大学(現・東京大学)教授。1904年父は結核を病み、海軍医として母・元子[もとこ]、弟・忠夫とともに走水(横須賀市)に転居するも、知義は東京に残った。1906年療養と医院開業を兼ねて、一家で沼津(静岡)に転居。父は1910年に死去。1912年東京に転居し、1913年東京開成中学に入学、同期に戸坂潤、内田昇三らがいた。1915年母が雑誌『婦人之友』編集部員となった。1918年第一高等学校に入学。1920年岡田三郎助が指導する本郷洋画研究所に通った。また、母が記者として所属した婦人之友社が刊行した『まなびの友』誌に挿画を提供しはじめたが、同社の『子供之友』誌にも無署名での挿画が掲載されたとされる。
1921年東京帝国大学文学部に入学したが、中退し、翌年1月渡独した。ベルリン到着後、第一次世界大戦前から尖端的な美術を紹介した「シュトゥルム」画廊のヘアヴァルト・ヴァルデンと交流し、東郷青児の義弟・永野芳光[ながのよしみつ]とともに、3月イタリア未来派の国際巡回展、5月デュッセルドルフのグループ「若きラインラント」主催の国際美術展と美術家会議に参加した。これがその後の国際的な連携の布石となった。さらに9月にはトワルディー画廊において個展を開催した。ベルリン時代の作品は、到着当初こそ表現主義的な作風であったが、さまざまな物体を画面に貼り付けたもの、そしてこれと正反対の、古典的な絵画技法への傾倒を示す肖像画に大別される。前者はダダイストのクルト・シュヴィッタースの作例、またイタリア未来派の領袖マリネッティの触覚主義の主張などから触発された。後者は水沢勉の指摘するように(註1)、すでに渡欧の船中での作例から関心の所在がうかがわれ、また「若きラインラント」が「古典技法への回帰を模索」していたという状況にも際会していた。
1922年12月ベルリンを発ち、翌年2月に帰国すると、『中央美術』誌4月号に寄稿し、表現主義を批判して、「真に形成芸術の範囲に於て、全部[傍点]であり永劫[傍点]なるべき主義」として「意識的構成主義」を打ち上げ、5月には「村山知義の意識的構成主義的小品展覧会」(文房堂、東京・神田)を催すなど、旺盛な活動を開始した。同展には、詰め物をした布が貼り付けられた《美しき少女等に捧ぐ》(1923年、神奈川県立近代美術館)などのほか、劇場の幕、演劇映画の舞台装置のデザイン、くわえて自らがダンスを踊る姿を写した写真も展示され、村山のその後の多彩な活動を予告した。
1923年6月、村山は旧未来派美術協会メンバーとともに「マヴォMAVO」を結成し、翌月最初の展覧会を開いた。村山の存在は際立ち、箱にガラス容器の中の花と女性用ハイヒールを組み合わせた《花と靴の使ってある作品》(所在不明)等を発表した。その一方で、同船で帰国した永野芳光が主導した「アウグスト・グルッペ」による「最近露独表現派展」(7月、流逸荘、東京・神田)にアーキペンコ作品などを展示した。
9月1日の関東大震災により、「マヴォ」は村山を中心に再編された。11月には市内外で「マヴォ第二回展」が実施され、復興が進む東京を舞台にして、1924年にはグループ活動が頂点を迎えた。雑誌『マヴォ』の刊行のほか、「帝都復興草案展」(竹之台陳列館、東京・上野)への参加、映画館・葵館の緞帳制作などがつぎつぎに実現した。一方で、村山個人の活動も活発となり、とりわけ開場したばかりの築地小劇場によるゲオルク・カイザー作「朝から夜中まで」公演で舞台装置を担当し「日本最初の構成派舞台装置」(小山内薫/註2)として脚光を浴び、同劇場で舞台美術を手がける端緒となった。
1925年は、新興美術運動の諸グループを前年10月に再編統合して結成された「三科」が運動を主導した年であった。5月に三科会員作品展覧会(松坂屋、東京・銀座)が開催され、これに関連して築地小劇場で12の演目による「劇場の三科」が挙行された。展示作品として板に布や金属片、雑誌や広告の写真などを貼り付けた代表作《コンストルクチオン》(東京国立近代美術館)が知られる。「劇場の三科」ではダンスを踊り、「子を産む淫売婦」の作・演出を手がけた。しかし、9月の三科第二回展覧会(東京自治会館、上野)は内部対立から中止をよぎなくされ、運動として一気に求心力を失った。
この間、村山知義はますます活動範囲を拡大した。『文党』誌同人となり、また同誌のみならず、『近代劇全集』(東京: 第一書房、1927–1930)など、さまざまな雑誌書籍の装丁を手がけた。写真表現の展開にも関心を払い、1929年国際光画協会の創立に参画し、1931年写真表現の現在を提示した大規模な「独逸国際移動写真展」(東京朝日新聞社/大阪朝日会館)の将来に貢献した。1927年には武井武雄らと日本童画家協会を立ち上げて、『子供之友』のみならず、左傾化すると『少年戦旗』にも童画を提供した。また河原崎長十郎らと「心座[こころざ]」を結成し、1925年9月の第1回公演ではゲオルク・カイザー作「ユアナ」を演出した。
一方で、村山は1925年12月、日本プロレタリア文芸連盟創立大会に参加するなど、急速に左傾化し、プロレタリア芸術運動に積極的に関与した。同年11月神田美術館(神田会館か、東京)(註3)で回顧展を開催し、美術家としての活動の一区切りをつけ、1926年2月刊行の『構成派研究』(中央美術社)では、エル・リシツキーとハンス・アルプの共著『諸芸術主義 Die Kunstismen』(E. レンチュ、1925年)に即してモダニズムの展開を整理し、構成主義については欧米のモダニズム雑誌に掲載された論説によって特質を割り出し、最後に社会主義的な地球改造のヴィジョンを示唆した。
1934年には弾圧により終息させられるプロレタリア文化運動では、路線対立や政治的な圧力もあって離合集散が激しいなかで、トランク劇場(1926年)、日本プロレタリア芸術連盟ついで労農芸術家連盟の前衛座(1926年)、前衛芸術家同盟の前衛劇場(1927年)、全日本無産者芸術連盟の左翼劇場(1928年)、また日本プロレタリア演劇同盟解散後の新協劇団(1934年)などで、劇作家、演出家、舞台美術家として指導的な役割を果たした。著作として戯曲集『スカートをはいたネロ』(原始社、1927年)などがあり、また関連して『プロレタリア映画入門』(前衛書房、1928年)、『改定版プロレタリア美術のために』(アトリヱ社、1930年)などを執筆した。村山は1926年7月には柳瀬正夢らと日本漫画家連盟の結成に参加して、漫画を「娯楽のためでなく、諷刺の、攻撃の、教育の、宣伝のための物」と規定し(註4)、さらに1927年にはこれを「意識画」と再定義した(註5)。
治安維持法違反により1930年5月に検挙されて以来、3回にわたって、村山は相当の期間を獄中で過ごした。2度目の保釈後に発表した「白夜」(『中央公論』1934年5月)は転向小説として反響を呼んだ。1942年6月保釈後は芸術活動が禁止された。1944年10月周囲の演劇人を描いた「人物画」の個展を銀座ギャラリーで開催。翌年3月渡鮮して朝鮮演劇文化協会嘱託となり、京城を中心に演劇活動を再開し、8月京城三越で主に「朝鮮芸能界の人々」の「人物画」の個展を開催した。敗戦後12月に帰国したが、直ちに新協劇団の再建に取り組み、1946年2月に邦楽座での公演に漕ぎ着けた。以後、同劇団を拠点として、1959年からは東京藝術座において、脚本家、演出家として活動を継続した。1960年から連載した戦国時代を舞台とする「忍びの者」は5巻本の長編小説となり、また映画化もされて人気を博した。晩年は「演劇的自叙伝」を『テアトロ』に長期連載し、順次単行本にまとめた(第1部〜第3部、東邦出版、1970年、1971年、1974年)。村山は連載中の1977年3月22日に他界したが、翌月に第4部(東京芸術座発行)が刊行された。
(五十殿 利治)(掲載日:2023-09-11、更新日:2024-12-16)
註1
水沢勉「「すべての僕が沸騰する」という現象 — 村山知義の現在のために」『すべての僕が沸騰する:村山知義の宇宙』(展覧会図録)、神奈川県立近代美術館/京都国立近代美術館/高松市美術館/世田谷美術館、2012年。
註2
小山内薫「日本最初の構成派舞台装置」『読売新聞』1923年12月9日。
註3
「美術界消息」『アトリヱ』1926年1月参照。なお、読売新聞「よみうり抄」1925年11月15日によれば、会場は神田会館。
註4
村山知義「一九二七年」『美術新論』1926年12月。
註5
村山知義「漫画とは」『ユウモア』1927年4月。
- 1965
- 前衛絵画の先駆者たち展, 国立近代美術館京都分館, 1965年.
- 1968
- 日本におけるダダイスムからシュルレアリスムへ, 東京国立近代美術館, 1968年.
- 1983
- Dada in Japan: Japanische Avantgarde, 1920–1970: Eine Fotodokumentation, Kunstmuseum Düsseldorf, 1983.
- 1986
- 前衛芸術の日本 1910-1970展, ポンピドゥー・センター, 1986–1987年.
- 1986
- 東京の肖像1920’s: やさし恋と労働歌の街, 板橋区立美術館, 1986年.
- 1988
- 1920年代・日本展: 都市と造形のモンタージュ, 東京都美術館, 愛知県美術館, 山口県立美術館, 兵庫県立近代美術館, 1988年.
- 1988
- ダダと構成主義展, 西武美術館, 尼崎・西武つかしんホール, 神奈川県立近代美術館, 1988–1989年.
- 1988
- ワイマールの画家たち, 神奈川県立近代美術館 (別館), 1988年.
- 1990
- 村山知義と柳瀬正夢の世界: グラフィックの時代, 板橋区立美術館, 1990年.
- 1998
- モボ・モガ展: 1910–1935, 神奈川県立近代美術館, 1998年.
- 1998
- Modern Boy, Modern Girl : Modernity in Japanese art 1910-1935, ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館, シドニー, 1998年.
- 1999
- 築地小劇場とその時代: 新興の烽火: 舞台・美術・写真, 名古屋市美術館, 1999年.
- 2001
- 生誕100年 村山知義 [肖像画]展, 第一生命南ギャラリー, 2001年.
- 2003
- ダンス!: 20世紀初頭の美術と舞踊, 栃木県立美術館, 2003年.
- 2006
- 東京–ベルリン / ベルリン–東京展, 森美術館, 2006年.
- 2006
- BerlinTokyo TokyoBerlin: Die Kunst Zweier Städte, Staatliche Museen zu Berlin, 2006.
- 2010
- 村山知義関係資料: 内田昇三コレクション, 世田谷美術館, 2010年.
- 2012
- 村山知義の宇宙: すべての僕が沸騰する,神奈川県立近代美術館 葉山, 京都国立近代美術館, 高松市美術館, 世田谷美術館, 2012年.
- 2016
- 描かれた大正モダン・キッズ: 婦人之友社『子供之友』原画展 , 板橋区立美術館, 兵庫県立歴史博物館, 刈谷市美術館, 天童市美術館, 2016–2017年.
- 東京国立近代美術館
- 神奈川県立近代美術館
- 東京都現代美術館
- 京都国立近代美術館
- 世田谷美術館
- 宇都宮美術館, 栃木県
- 1924
- 村山知義『現在の芸術と未来の芸術: 一名、意識的構成主義への道程』東京: 長隆舎書店, 1924年 (新版: 東京: 本の泉社, 2002年) [自筆文献].
- 1926
- 村山知義『構成派研究』東京: 中央美術社, 1926年 (新版: 東京: 本の泉社, 2002年) [自筆文献].
- 1930
- 村山知義『プロレタリア美術のために』東京: アトリエ社, 改訂版1930年 [自筆文献].
- 1970
- 村山知義『演劇的自叙伝』全4冊, 東京: 東邦出版社, 1970-1977年 [自筆文献].
- 1971
- 本間正義編『日本の前衛美術 近代の美術, 3号』(1971年3月).
- 1978
- 浅野徹編『前衛絵画 原色現代日本の美術: 第8巻』東京: 小学館, 1978年.
- 1985
- 「村山知義の美術の仕事」刊行委員会編『村山知義の美術の仕事』東京: 未来社, 1985年.
- 1995
- 五十殿利治『大正期新興美術運動の研究』東京: スカイドア, 1995年.
- 1996
- Weisenfeld, Gennifer. “Mavo's Conscious Constructivism: Art, Individualism, and Daily Life in Interwar Japan” Art Journal, Vol. 55 No. 3 (Autumn 1996): 64-73.
- 1998
- Omuka Toshiharu. “Tada = Dada (devotedly Dada) for the Stage: the Japanese Dada Movement 1920-1925” in Janecek, Gerald, Omuka Toshiharu (eds.). The Eastern Dada Orbit: Russia, Georgia, Ukraine, Central Europe and Japan. Crisis and the Arts: the History of Dada, Vol. 4, 223-310. New York: G.K. Hall, 1998.
- 2001
- 「村山知義グラフィックの仕事」編集刊行委員会『村山知義グラフィックの仕事』東京: 本の泉社, 2001年.
- 2005
- ダシー, マルク, 松浦寿夫, 白川昌生, 塚原史, 田中純『村山知義とクルト・シュヴィッタース』東京: 水声社, 2005年.
- 2006
- 「特集 村山知義とマヴォイストたち」『水声通信』3号 (2006年1月).
- 2012
- 岩本憲児編『村山知義: 劇的尖端 メディアとパフォーマンスの20世紀』東京: 森話社, 2012年.
- 2012
- 村山知義研究会編『村山知義の宇宙: すべての僕が沸騰する』[東京]: 読売新聞社, 美術館連絡協議会, 2012 (会場: 神奈川県立近代美術館葉山, 京都国立近代美術館, 高松市美術館, 世田谷美術館) [展覧会カタログ].
- 2013
- 滝沢恭司編『村山知義: 美術批評と反動 美術批評家著作選集: 16-17巻』東京: ゆまに書房, 2013年.
- 2019
- 東京文化財研究所「村山知義」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9728.html
- 2021
- Omuka Toshiharu. “Korea, Last Retreat in Wartime for Murayama Tomoyoshi, a Modernist” in Pyun, Kyunghee, Jung-Ah Woo (eds.). Interpreting Modernism in Korean Art: Fluidity and Fragmentation, 89-102. London: Routledge, 2021.
- 2022
- 井上理恵『村山知義の演劇史』東京: 社会評論社, 2022年.
- 2022
- Omuka Toshiharu. “The Impact of Russian Art in Early 1920s Japan” in 100 Years on: Revisiting the First Russian Art Exhibition of 1922, Isabel Wünsche, Mirjam Leimer (eds.), 157-165. Vienna: Böhlau Verlag, 2022.
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「村山知義」『日本美術年鑑』昭和53年版(259頁)大正後期に前衛的な美術運動の推進者で画家でもあった劇作家、演出家の村山知義は3月22日午前6時17分、横行結腸ガンのため東京・千駄ヶ谷の代々木病院で死去した。享年76であった。 村山知義は、明治34年(1901)1月18日、東京都千代田区に生まれ、大正10年(1921)第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部哲学科へすすんだが、同年12月哲学研究のためベルリンへ留学した。ベルリンへ着いて間もなく、同...
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村山 知義(むらやま ともよし、1901年(明治34年)1月18日 - 1977年(昭和52年)3月22日)は、日本の小説家、画家、デザイナー、劇作家、演出家、舞台装置家、ダンサー、建築家。日本演出者協会初代理事長。息子の村山亜土は児童劇作家。
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- 2023-09-26