- 作家名
- 村上華岳
- MURAKAMI Kagaku (index name)
- Murakami Kagaku (display name)
- 村上華岳 (Japanese display name)
- むらかみ かがく (transliterated hiragana)
- 武田震一 (birth name)
- 村上震一
- 生年月日/結成年月日
- 1888-07-03
- 生地/結成地
- 大阪府大阪市北区松ケ枝町
- 没年月日/解散年月日
- 1939-11-11
- 没地/解散地
- 兵庫県神戸市
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
作家解説
1888(明治21)年7月3日、大阪市北区松ヶ枝町に武田誠三、たつの長男として生まれる。本名震一。父方の祖母、池上雪枝は1883年、日本最初の感化院となる「池上感化院」を設立し非行少年の保護事業に尽力したことで知られる。雪枝の長男・誠三は医者、蘭学者といわれ武田家を嗣いたがその理由は不明である(註1)。1895(明治28)年、7歳のとき神戸市花隈の父の妹である叔母・千鶴子の婚家村上家に預けられ、神戸市神戸尋常小学校に入学。1901(明治34)年父・誠三の死去にともない武田家を嗣いだがまもなく武田家は裁判により廃家となり、寄寓していた村上五郎兵衛と養子縁組をする。幼い頃から絵に関心を示し画家になりたいと希望していた華岳は1903年、京都市立美術工芸学校(現・京都市立美術工芸高等学校、以下美工)に入学。養父の五郎兵衛は「絵で衣食させることはしない」と、生涯にわたり華岳を支援した。
入学当時の美工では竹内栖鳳[せいほう]、山元春挙、谷口香嶠[こうきょう]ら円山四条派の画家たちによる、写生を重視する伝統画法が教授されていた。美工卒業制作の《羆》(1907年、京都市立芸術大学芸術資料館)では陰影法を取り入れた毛描きによる羆の体躯が写実的に描かれている。1907(明治40)年、第1回文部省美術展覧会(文展)に《竹藪に狸》(所在不明)を出品するが落選、翌年1908(明治41)年第2回文展では《驢馬に夏草》(1908年、さいたま市立漫画会館)が三等賞入選を果たした。
1909(明治42)年、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に第1期生として入学。同期には、のちに国画創作協会をともに結成することとなる入江波光、榊原紫峰、土田麦僊、小野竹喬、野長瀬晩花がいた。同校の教師には美学者である中井宗太郎が着任し、その後若き画家たちの芸術運動を推進する理論的支柱となった。
1911(明治44)年、京都市立絵画専門学校の卒業制作《早春》(京都市立芸術大学芸術資料館)が、一席となる。本作は《二月乃頃》と改題し同年の第5回文展に出品し褒状を得た。《二月乃頃》は西洋的遠近表現に四条派の抒情性を加味した清新な風景画であり華岳の卓越した才能を示すものである。卒業後、同年4月に同校研究科に進む。このころ浮世絵や文楽、娘義太夫、都をどりなどの芸能に関心を持ち、人物表現にその影響が色濃く見られるようになる。京都、平野神社の夜桜見物を題材とする《平野》(のち《夜桜之図》に改題、1913年、京都国立近代美術館)は浮世絵研究にもとづき爛熟した京の風俗を描いたもので、大正期特有の官能的で退廃的な雰囲気を漂わせている。一方この時期、《阿弥陀》(1916年、京都市美術館)を第10回文展に出品、特選を受賞している。俗世と浄土世界、官能美と聖なる美とは華岳の根底では混然一体となっており、それが彼の芸術の特質でもある。俗なるものと聖なるものに通底するエロスへの希求を一見対照的なこれら両者の作品の中に見出すことができる。
文展で特選となった翌年の第11回文展に送った《老いたる春》(所在不明)は落選し、同じく前年特選をとった小野竹喬が落選、土田麦僊と榊原紫峰も無賞となったことが引き金となり、それまで彼等が募らせていた文展審査に対する不信が、新団体の結成へと向かわせることになった。1918(大正7)年、自由な制作発表の場として、土田麦僊、小野竹喬、野長瀬晩花、榊原紫峰らとともに国画創作協会を結成、竹内栖鳳と中井宗太郎を鑑査顧問に迎え同年1月発会式を挙行した。華岳は国画創作協会という名称を発案し理由書を起草するなど積極的に関わっている。第1回展には釈迦涅槃図を描いた《聖者の死》(焼失)、第2回展には道成寺縁起に取材した《日高川清姫図》(1919年、東京国立近代美術館、重要文化財)、第3回展には《裸婦図》(1920年、山種美術館、東京、重要文化財)、第4回展には、朱の線描による《説法の図》(1924年、個人蔵[京都国立近代美術館寄託])他3点、第5回展には六甲の山並みを繊細な線描で描いた《松山雲煙》(1925年、東京国立近代美術館)を発表、1910年代末から1920年代前半にかけ、前半生を代表する作品が次々と発表された。中でも裸婦を描いた大作《裸婦図》は、「肉と同時に霊であるもの」「人間永遠の源であり理想の典型である『久遠の女性』」(註2)の象徴として華岳の理想美を描き出した作品である。
1921(大正10)年頃、宿痾となる喘息を発症、その年に予定されていた国画創作協会メンバーとの渡欧を断念し、静養のため1923(大正12)年に兵庫県芦屋市に転居。1927(昭和2)年には養父の死を機に神戸市花隈の養家に戻った。療養のためと、制作の自由を束縛する人間関係の煩わしさから逃れるために第5回展を最後に国画創作協会を退会、以後特定の団体に所属せず、「光存堂画室」と名付けた神戸、花隈の家で終生制作を続けた。
1920年代から1930年代半ばにかけては、官能性を漂わせる柔らかな表情の仏画や六甲山を描いた風景画、牡丹や椿などを描いている。仏と山が華岳の主要な題材であったが、彼にとって両者は等価なものであった。「仏陀山水であり、山水仏陀」であってともに自証するものであると彼は述べている(註3)。その宗教観や作品に通底する思想は青年期以来の西田天香や宮崎安右衛門らへの共感と親交から培われたとされる。墨の濃淡や緩急、肥痩のある自由な運筆、たらし込みや暈しなどの技法を駆使し、墨や顔料に加え、金、銀、アルミ泥の使用や、支持体となる紙も使い分けるなど多彩で複雑な表現を試みている。
画壇から遠ざかり神戸に隠棲したはずであったが、1931年発刊の『藝美』、1934年発刊の『画室』が華岳を積極的に紹介したことにより神戸の美術界で大きな関心を集めることとなり、さらにその作品を愛好するコレクターたちにより1934(昭和9)年に跏蕚会[かがくかい]が結成され、それぞれが所有する作品を持ち寄って神戸や大阪で度々展覧会が開かれた。1935(昭和10)年には東京、翌1936(昭和11)年には京都で大規模な個展が開催されている。1930年代後半は喘息の症状が悪化もあり、周囲の喧騒から逃れるように制作に没頭した。発作の苦しみからの救済をもとめるかのような清らかな表情の《太子樹下禅那之図》(1937-1938年、何必館・京都現代美術館)、《雲上散華之図》(1938年、大阪中之島美術館)、厄災を断ち切りたいとの希求を顕すかのような《不動尊》(1938年、何必館・京都現代美術館)、《羅漢》(1938年、個人蔵)、《維摩詰》(1938年、大阪中之島美術館)、墨線が錯綜し半ば抽象絵画のような鬼気迫る表現の《岩の山》(1939年、個人蔵)、《紅葉の山》(1939年、京都国立近代美術館)などの作品を描いた。1939(昭和14)年11月11日未明、喘息のため死去。翌朝手を入れようと礬水引きをした《牡丹》(個人蔵)が絶筆となった。享年51。
華岳は書にも関心を示し、1930年代半ば頃からは書作も行った。山の稜線や仏画の線を思わせる独特の書は華岳の創作の一面を物語るものであり、書画は人格の現れとする東洋思想への共感を示すものでもある。
(飯尾 由貴子)(掲載日:2023-09-11)
註1
島田康寛「村上華岳の生涯」(『村上華岳展』京都国立近代美術館、2005 年、8–23頁)、村上佳子「華岳の家系その他」(『塔影』第16巻第2号、1940年2月、14–16頁)ほかを参照。
註2
村上華岳「久遠の女性」『画論』中央公論美術出版、2004年、52頁。
註3
村上華岳「仏画と山水」前掲書、284頁。
- 1961
- 竹内栖鳳・富田渓仙・土田麦僊・村上華岳, 大阪市立美術館, 1961 年.
- 1963
- 国画創作協会回顧展, 京都市美術館, 1963 年.
- 1966
- 須田国太郎・村上華岳名作展, 岡山県総合文化センター美術館, 1966 年.
- 1969
- 村上華岳展: 30年記念, 山種美術館, 1969 年.
- 1971
- 国画創作協会五人展: 新世代を画した俊鋭画家の名作: 村上華岳・土田麦僊・入江波光・榊原紫峰・小野竹喬, 京都府立総合資料館, 1971 年.
- 1974
- 村上華岳展, 兵庫県立近代美術館, 1974 年.
- 1979
- 村上華岳展, 中宮画廊, 1979年.
- 1981
- 村上華岳: 開館記念展, 何必館・京都現代美術館, 1981年.
- 1984
- 村上華岳展, 東京国立近代美術館, 1984年.
- 1984
- 春草・華岳・御舟展: 美術収集家の眼: 追悼・本館創設者 敦井榮吉, 敦井美術館, 1984年.
- 1987
- 村上華岳展: 中野美術館所蔵: 開館三周年記念, 中野美術館, 1987年.
- 1989
- 今日の山水三人展: 特別展: 村上華岳・小野竹喬・田村一男, 奈良県立美術館, 1989年.
- 1993
- 国画創作協会回顧展, 京都国立近代美術館, 東京国立近代美術館, 1993年.
- 1999
- 村上華岳展, 豊田市美術館, 1999年.
- 2005
- 村上華岳展, 京都国立近代美術館, 富山県水墨美術館, 2005年.
- 2008
- 南画って何だ?!: 近代の南画: 日本のこころと美: 村上華岳・水越松南生誕120年記念, 兵庫県立美術館, 2008年.
- 2014
- 村上華岳展: 霊と艶をもとめて, 笠岡市立竹喬美術館, 2014年.
- 2015
- 村上華岳: 京都画壇の画家たち: 特別展: 《裸婦図》重要文化財指定記念, 山種美術館, 2015年.
- 2018
- 国画創作協会の全貌展: 創立一〇〇周年記念, 笠岡市立竹喬美術館, 和歌山県立近代美術館, 新潟県立万代島美術館, 2018–2019年.
- 京都国立近代美術館
- 京都市美術館 (京都市京セラ美術館)
- 京都市立芸術大学芸術資料館
- 東京国立近代美術館
- 山種美術館, 東京
- 兵庫県立美術館
- 姫路市立美術館, 兵庫県
- 中野美術館, 奈良市
- 何必館・京都現代美術館
- 駒形十吉記念美術館, 新潟県長岡市
- 1929
- 神崎憲一「国画創作協会の足趾 村上華岳」『京都に於ける日本画史』京都: 京都精版印刷社, 1929年.
- 1962
- 『村上華岳画集』東京: 中央公論美術出版, 1962年.
- 1962
- 『土田麦僊・村上華岳 講談社版日本近代絵画全集: 第22巻』東京: 講談社, 1962年.
- 1969
- 山種美術館編『村上華岳展: 30年記念』東京: 山種美術館, [1969年] (会場: 山種美術館).
- 1972
- 加藤一雄, 内山武夫[解説]『村上華岳 土田麦僊 現代日本美術全集: 4』東京: 集英社, 1972年.
- 1974
- 河北倫明編著『村上華岳 日本の名画: 23』東京: 講談社, 1974年.
- 1979
- 秦恒平, 木村重圭『村上華岳 カンヴァス日本の名画: 19』東京: 中央公論社, 1979年.
- 1983
- 中谷伸生「大正八年における村上華岳」『三重県立美術館研究論集』1号 (1983年3月): 31-63頁.
- 1984
- 東京国立近代美術館編『村上華岳展』東京: 日本経済新聞社, 1984年 (会場: 東京国立近代美術館).
- 1984
- 内山武夫解説『村上華岳・入江波光 現代の水墨画: 5』東京: 講談社, 1984年.
- 1987
- 田中日佐夫, 内山武夫責任編集『村上華岳・入江波光 20世紀日本の美術: アート・ギャラリー・ジャパン: 7』東京: 集英社, 1987年.
- 1989
- 村上華岳『画論』東京: 中央公論美術出版, 新装普及版1989年 [自筆文献].
- 1989
- 『村上華岳 アサヒグラフ別冊, 美術特集 日本編』61 (1989年11月).
- 1994
- 尾崎正明編『村上華岳: 祈りのかたち 巨匠の日本画, 9』東京: 学習研究社, 1994年. 復刻版2004年.
- 1996
- 原田平作, 島田康寛, 上薗四郎編著『国画創作協会の全貌』京都: 光村推古書院, 1996年.
- 1997
- 『村上華岳 新潮日本美術文庫: 39』東京: 新潮社, 1997年.
- 1999
- 島田康寛『村上華岳』京都: 京都新聞社, 1999年.
- 1999
- 豊田市美術館編『村上華岳』豊田: 豊田市美術館, 1999年 (会場: 豊田市美術館) [展覧会カタログ].
- 2005
- 京都国立近代美術館, 日本経済新聞社編『村上華岳展』[東京]: 日本経済新聞社, 2005年 (会場: 京都国立近代美術館, 富山県水墨美術館).
- 2014
- 笠岡市立竹喬美術館編『村上華岳展: 霊と艶をもとめて』笠岡: 笠岡市立竹喬美術館, 2014年 (会場: 笠岡市立竹喬美術館).
- 2017
- 飯尾由貴子「村上華岳《日高川清姫図》について」『兵庫県立美術館研究紀要』第11号 (2017年3月): 16-25頁.
- 2019
- 東京文化財研究所「村上華岳」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8479.html
- 2020
- 飯尾由貴子「華岳と波光: 響き合う魂」『視覚の現場: 須田記念』第2号 (2020年3月): 44-46頁.
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「村上華岳」『日本美術年鑑』昭和15年版(122-123頁)日本画家村上華岳は宿痾の喘息のため11月11日逝去した。享年52歳。本名震一、明治21年7月大阪に生れた。京都市立美術工芸学校を経て、同44年京都絵画専門学校を卒業、大正7年同志と共に図画創作協会を創立し、活動を続けたが、同15年同会を離脱し、爾後一切の団体より完全に独立した。 作家として生来特質を強く備へ、既に初期の時代より洋の東西を問はず画風を摂取して、独自の感覚を示した。「夜桜」には就中浮世...
東京文化財研究所で全文を読む
Powered by
Wikipedia
村上 華岳(むらかみ かがく、1888年〈明治21年〉7月3日 - 1939年〈昭和14年〉11月11日)は、大正~昭和期の日本画家。
Information from Wikipedia, made available under theCreative Commons Attribution-ShareAlike License
- 2024-02-09