APJ A1906

松岡壽

| 1862-03-05(文久2年2月5日) | 1944-04-28

MATSUOKA Hisashi

| 1862-03-05(文久2年2月5日) | 1944-04-28

作家名
  • 松岡壽
  • MATSUOKA Hisashi (index name)
  • Matsuoka Hisashi (display name)
  • 松岡壽 (Japanese display name)
  • まつおか ひさし (transliterated hiragana)
  • 松岡寿
生年月日/結成年月日
1862-03-05(文久2年2月5日)
生地/結成地
岡山県岡山市
没年月日/解散年月日
1944-04-28
没地/解散地
神奈川県横須賀市
性別
男性
活動領域
  • 絵画

作家解説

文久2年2月5日(1862年3月5日)岡山藩士で蘭学者の松岡隣の次男として岡山に生まれる。1870年11月岡山藩立文学校に入学。翌年岡山藩知事が認めた13名の一人として同藩雇教師の英人パーシヴァル・オズボーンに英学を学ぶ。 明治5年2月27日(1872年4月4日)父に従い東京へ移住。父の親友で旧津和野藩士の洋学者西周の神田西小川町の長屋を借りて住む。西周夫妻に絵画の天分を認められ、父の勧めもあり、1872年川上冬崖の画塾聴香読画館に入門し西洋画法を学ぶ。同画塾には小山正太郎、千葉(印藤)真楯、中丸精十郎らがいた。また同年陸軍省雇教師仏人アベル・ゲリノーに図学を学ぶ。1874年画塾彰技堂を主宰する国澤新九郎が京橋竹川町で展覧会を開催するにあたり、聴香読画館生も勧誘され松岡も出品。 1876(明治9)年11月6日、日本初の国立美術学校として東京に工部美術学校が設置された。前年6月イタリア公共教育省が同国内6校の美術学校を対象に教師募集を開始し、画家23名、彫刻家15名、建築家5名の応募があった。絵画教師にアントーニオ・フォンタネージ、彫刻教師にヴィンチェンツォ・ラグーザ、家屋装飾術教師にジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カッペッレッティが選ばれ来日。1876年8月29日正式に3年間の雇用契約が発効。11月13日同校入学試験が実施された。松岡は15歳以上30歳以下という入学資格年齢に数ヶ月満たなかったが受験を許された。25日画学科入学許可を得、フォンタネージに学ぶ。同校の絵画教育は当時のイタリアの美術アカデミーで実施されていた課程を踏まえたもので、松岡の《工部美術学校画学教場》(個人蔵)によりその一端がわかる。戸外写生も行われた。《少女(おとよ)》(1877年、東京藝術大学大学美術館)は明暗表現に秀でており、入学間もない時期の油彩画制作の理解度を示している。 フォンタネージは契約満了せず2年で帰国。帰国前の1878年7月30日に「大試験」が実施され、1位は画学科助手を務めていた小山正太郎、2位は千葉(印藤)真楯、3位が松岡だった。フォンタネージの帰国は病気罹患のためだが、1年間休職していたトリーノ・アルベルティーナ王立美術学院の復職問題が浮上し帰国せざるを得ないという状況もあった。その頃イタリア王国から叙勲されたコルカタ在住のプロスペロ・フェッレッティが代任として来日。しかし、両者間に金銭問題が生じ裁判沙汰になった。フェッレッティは教場でフォンタネージを揶揄し、生徒の反感を買う。松岡ら画学科生徒の多くが退学し共同研修を開始した。 松岡壽「自筆履歴・年譜」によれば、1879年11月近藤仏学塾教師スイス人ボクメストに就きフランス語学習を開始。1880年7月9日鍋島直大の在イタリア王国特命全権公使赴任にあたり随行した外務一等書記官の百武兼行の従者として松岡も横浜を出立。松岡の渡伊には父隣から洋学を学び当時朝鮮弁理公使だった花房義質の斡旋があった。 1880年8月ローマ到着、10月にはアッカデーミア・ジージで絵画修業を開始。外務書記官で画家の百武はパリで肖像画家として著名なレオン・ボナに絵画を学び、その同窓生の紹介によりローマでは歴史画家のチェーザレ・マッカーリに師事し、松岡も11月から学ぶ。両者が共に学んでいたことは、同一モデルを描いた、百武の《臥裸婦》(アーティゾン美術館、東京)と松岡の《横臥婦》(東京藝術大学大学美術館)によってもわかる。12月からピオ・ゲラルディーニに就きイタリア語学習を開始。1881年11月21日から4日間ローマ王立美術専門学校「裸体画自由科」の入学試験を受験し12月合格、翌年2月登録。受験した年の11月の制作が判明している《ピエトロ・ミカの服装の男》(岡山県立美術館)は油彩画法を既によく習得していることを示している。1883年10月3日ローマ王立美術専門学校普通科に入学し、4年間継続して学び、1887年優秀な成績で課程を終え、10月在イタリア公使田中不二麿のパリ転任に随行し、同地に逗留し、翌年10月6日帰国。 歴史画制作の基礎となる人物画修得の成果が発揮された《ベルサリエーレの歩哨》(皇居三の丸尚三館、東京、重要文化財)は、1887(明治20)年4月宮中顧問官に転身していた花房義質を通じて、明治天皇の御下命を受け金千円下賜により制作され、松岡帰国直後の11月7日に献上された。 1887年東京美術学校が創設されたが西洋美術教育は排除されたため、同士とともに1888年洋風美術団体の創立を計画し、翌年明治美術会を組織。1892年明治美術学校が創設されるとその運営も担い、西洋美術の発展に尽力した。また1889年同会第1回展に「肖像(父の像)」「肖像(兵士)」を出品。前者は《父の像(松岡隣)》(1889年、岡山県立美術館)、後者は前出の《ベルサリエーレの歩哨》。1890年第2回展に「肖像」2点、1893年第5回展に「人物」2点、「果物」、1897年第8回展に《売卜者》(東京国立博物館)など油絵10点を出品。 1895年京都で開催された第4回内国勧業博覧会に《吉井友實像》(東京国立博物館)を出品後、大規模な展覧会への出品は無く、1934年東京で開催された帝国美術院第15回美術展覧会に《静物》(岡山県立美術館)を出品した。 留学中、松岡は多くの日本人留学生と知己を得たが、イギリス留学で美術建築という概念を学んだ辰野金吾とも生涯交流を続けた。1921年制作の《辰野金吾肖像》(個人蔵)はこれを物語る。1892年東京帝国大学工科大学造家学科の装飾画及び自在画の授業を担当し、以後10年間建築家教育に携わる。以後続く公職における教育活動の嚆矢となった。1897年1月同学科生及び卒業生が「水彩画の練習会」として組織した「木葉会」においても指南役を務めるとともに、同会展覧会に複数回を出品。 1890年第3回内国勧業博覧会審査官に任命されて以降、多くの国内外博覧会及び展覧会の審査に関わる。1897年農商務省商品陳列館長に任じられ、同年特許局審査官も兼務。1907年文部省美術審査委員会設置にあたり委員に選ばれ、1913年第7回文部省美術展覧会(文展)まで関わった。 1906年東京高等工業学校教授に任命され、工業図案科長となる。1914年東京美術学校(現・東京藝術大学)教授を兼任。1919年東京高等工芸学校創立委員を嘱託され、1921年同校設置に伴い校長に任命され後進を育成。 公的職務を遂行しつつ、《近衛忠熙像》(東京国立博物館)他70点余の肖像画を制作。またモニュメンタルな作品も手掛けた。1918年大阪市公会堂貴賓室天井に《天地開闢》(現・大阪市中央公会堂特別室)などの壁画を制作。1925年日本銀行より聖徳記念絵画館奉納壁画揮毫の依頼を受け、1928年《兌換制度御治定ノ図》(聖徳記念絵画館、東京)を完成。1934年東京府知事が「皇太子殿下御誕生奉祝記念事業」として東京府養生館の国史絵画館に設置する絵画制作を依嘱し、1935年に歴史画《仁徳天皇》(神宮徴古館、三重県)、1937年《皇太子殿下御外遊》(神宮徴古館)を制作。 帰国後の松岡は画家としてよりも、博覧会や展覧会の審査官、美術や図案の教育者として公的役職に就き、美術、工芸、産業デザインの振興に奔走した。1944年4月28日逗子の自宅にて死去。 (河上眞理)(掲載日:2026-02-04)

1889
明治美術会: 第1回展, 上野不忍池畔共同競馬会社馬見所, 1889年.
1890
明治美術会: 第2回展, 上野公園華族会館, 1890年.
1893
明治美術会: 第5回展, 上野公園旧博覧会跡第五号館, 1893年.
1895
第4回内国勧業博覧会, 京都市岡崎公園, 1895年.
1897
明治美術会展: 第8回展, 上野公園旧博覧会跡五号館, 1897年.
1934
帝国美術院 第15回 美術展覧会, 東京府美術館, 大礼記念京都美術館, 1934年.
1989
松岡壽展: 明治洋画・巨匠の軌跡, 神奈川県立近代美術館, 岡山県立美術館, 1989年.
2002
松岡壽とその時代展, 松戸市戸定歴史館, 2002年.

  • 皇居三の丸尚三館, 東京
  • 東京国立博物館
  • 東京藝術大学大学美術館
  • 岡山県立美術館
  • 神奈川県立近代美術館
  • 聖徳記念絵画館, 東京
  • 神宮徴古館, 三重県
  • 大阪中之島美術館
  • 大阪市中央公会堂, 特別室

1934
松岡壽「日本洋画界回顧」『美術』第9巻第8号 (1934年8月): 2–7頁. [自筆文献].
1941
松岡壽先生伝記編纂会編『松岡壽先生』東京: 松岡壽先生伝記編纂会, 1941年.
1964
隈元謙次郎『近代日本美術の研究』東京: 大蔵省印刷局, 1964年.
1972
宮内庁編『明治天皇紀』第7巻. 東京: 吉川弘文館, 1972年, 195–196頁.
1975
進藤隆夫編『松岡壽スケッチ集』東京: アポロン社, 1975年.
1978
青木茂編『フォンタネージと工部美術学校 近代の美術: 46』東京: 至文堂, 1978年.
1980
神奈川県立近代美術館, 岡山県立美術館, 明治美術学会編『松岡壽展: 明治洋画・巨匠の軌跡』鎌倉; 岡山: 神奈川県立近代美術館, 岡山県立美術館, 1989年 (会場: 神奈川県立近代美術館, 岡山県立美術館).
1993
金子一夫「松岡寿《ピエトロ・ミカの服装の男》」『油彩画の開拓者 日本の近代美術: 1』丹尾安典責任編集. 東京: 大月書店, 1993年, 97–112頁.
1995
松岡壽先生伝記編纂会編『松岡壽先生』復刻版. 東京: 西川弘子, 中央公論美術出版(発売), 1995年.
1999
金子一夫『近代日本美術教育の研究 明治・大正時代』東京: 中央公論美術出版, 1999年.
2002
青木茂, 歌田眞介編『松岡壽研究』東京: 中央公論美術出版, 2002年.
2002
森仁史編『松岡壽とその時代』[松戸]: 松戸市教育委員会, 2002年 (会場: 松戸市戸定歴史館). [展覧会カタログ].
2003
大阪市教育委員会編『重要文化財 大阪市中央公会堂 保存・再生工事報告書』[大阪]: 大阪市, 2003年.
2008
河上眞理「明治の美術界におけるイタリア: 画家松岡壽と建築家辰野金吾の場合」『立命館言語文化研究』第20巻第2号(2008年11月): 85–99頁.
2010
岡本隆志「明治の洋画家と『国家有用の美術』」『近代の洋画家、創作の眼差し 三の丸尚蔵館展覧会図録, no. 52』宮内庁三の丸尚蔵館編. [東京]: 宮内庁, 2010年, 4–8頁. (会場: 宮内庁三の丸尚蔵館).
2011
河上眞理『工部美術学校の研究 イタリア王国の美術外交と日本』東京: 中央公論美術出版, 2011年.
2016
清瀬みさを「建築空間と装飾画: 大阪市中央公会堂貴賓室における松岡壽の課題」『人文学』第198号 (2016年11月): 21–71頁. 京都: 同志社大学人文学会.
2018
河上眞理「図版 松岡壽 ベルサリエーレの歩哨」『國華』第1467号 (2018年1月): 58–60頁.
2019
東京文化財研究所「松岡寿」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8671.html
2019
河上眞理「辰野金吾の〈美術建築〉教育と松岡壽の寄与」『辰野金吾と美術のはなし: 没後100年特別小企画展』東京: 東京ステーションギャラリー, 2019年, 87–93頁 (会場: 東京ステーションギャラリー).
2020
吉住磨子「イタリア時代の百武兼行V: 〈チュウロン〉の正体」『佐賀大学芸術地域デザイン学部研究論文集』第3号 (2020年3月): 117–124頁.
2022
河上眞理「明治美術会から木葉会へ: 明治期の建築家にとっての美術」『近代画説』第31号 (2022年12月): 13–35頁.

日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art

洋風画界の長老元東京高等工芸学校校長松岡寿は、4月28日横須賀市の自宅に於て、慢性腸カタルのため逝去した。享年83。文久2年2月5日岡山に生れた。父は岡山藩士松岡隣にして、洋学研究の先駆者であつた。明治5年11歳の時父に従つて東京に移つた。同年川上冬崖の聴香読画楼に入門して初めて西洋画法を問い、又陸軍省偏教師仏蘭西人アベル・ゲリノーに就て図学を学んだ。明治9年工部美術学校に入学し、アントニオ・フォ...

「松岡寿」『日本美術年鑑』昭和19・20・21年版(91-92頁)

Wikipedia

松岡 壽 (まつおか ひさし、1862年3月5日(文久2年2月5日) - 1944年4月28日)は、日本の洋画家・美術教育家。1944年、レジオンドヌール勲章 日本人受章者。

Information from Wikipedia, made available under theCreative Commons Attribution-ShareAlike License

VIAF ID
76180093
ULAN ID
500525704
AOW ID
_00063389
NDL ID
00042386
Wikidata ID
Q11529998
  • 2026-01-29