A1893

前田青邨

| 1885-01-27 | 1977-10-27

MAEDA Seison

| 1885-01-27 | 1977-10-27

作家名
  • 前田青邨
  • MAEDA Seison (index name)
  • Maeda Seison (display name)
  • 前田青邨 (Japanese display name)
  • まえだ せいそん (transliterated hiragana)
  • 前田廉造 (real name)
生年月日/結成年月日
1885-01-27
生地/結成地
現・岐阜県中津川市
没年月日/解散年月日
1977-10-27
没地/解散地
東京都文京区本郷
性別
男性
活動領域
  • 絵画

作家解説

1885年、岐阜県中津川村(のち中津川町、現・中津川市)に、父・前田常吉[つねきち]、母たかの三男一女の次男として生まれる。本名は廉造[れんぞう]。生家は商家で、慶応2(1866)年に乾物屋・前田商店となり、現在もヤマツ食品株式会社という中津川の老舗の食料品店として知られている。廉造は絵が得意で、1897年、中津川尋常高等小学校(現・中津川市立南小学校)卒業の際、校長から将来を問われて「絵でも習ってみようかと思います」と答えている。東京美術学校(現・東京藝術大学)の進学には中学の卒業資格が必要と知って一旦断念したが、母が胸を患い38歳で亡くなると思い切って父に相談。1898年叔父を頼って上京、京華[けいか]中学校に入学する。しかし数カ月して血痰が出るようになり、健康問題から勉学を諦めざるを得なかった。療養後の1901年、本格的に絵を学ぼうと再度上京。叔父と従兄の協力によって、知人を介して小説家の尾崎紅葉に面会する。当時、紅葉は『金色夜叉』を読売新聞に連載中で、その挿絵の担当画家、梶田半古へ廉造を紹介した。半古に入門が許され、梶田家の内弟子になり、廉造の画家としての人生が始まった。半古は絵の学習に際して写生と古画研究を重視した。後者の例としては、人物を描く際には私淑していた菊池容斎の著『前賢故実』を参考にし、青邨にも同書や私物の《伴大納言絵巻》(模本)などを模写させた。また写生重視の姿勢は青邨に受け継がれ、後年「写生を拠所[よりどころ]としなくては私の画は生まれて来ない」(註)と述べている。 1902年、第12回日本絵画協会・第7回日本美術院連合絵画共進会に武者絵の《金子家忠[かねこいえただ]》(所在不明)を初出品する。この時半古から「青邨」の雅号を授かった。同作は三等褒状となり、青邨に画家として生きる自信と覚悟をうながした。その後も順調に受賞を重ねていたが、1907年、第1回文部省美術展覧会(文展)では《大久米命[おおくめのみこと]》(岐阜県美術館)が落選するという苦い経験を味わった。後にも先にも青邨にとって落選はこれが唯一である。しかし腐ることなく「休まずに描こう」と気を引き締めた。 1907年、青邨は広瀬勝仙[しょうせん](のちに長江[ちょうこう]と改名)と知り合い、彼の勧めで紅児会に入会した。同会では安田靫彦や今村紫紅ら日本画の俊英たちの知遇を得る。さらに1912年の紅児会第17回展では、近代日本画の精神的指導者であった岡倉天心が来場し、青邨は天心から初めて「前田さん、にごりをお取りなさい」と直接に指導の言葉をかけられた。1911年の秋には以前から敬慕していた下村観山と知り合う。1914年に日本美術院が再興第1回展を開催する際には、病み上がりで制作が遅れていた青邨を気にして、観山が東京からわざわざ、当時青邨が療養していた平塚を訪れ、励まし指導してくれた。その激励に力を得た青邨は、1914年10月、再興第1回日本美術院展覧会(院展)に絵巻《竹取物語》(個人蔵)と三幅対の掛軸《湯治場》(東京国立博物館)を出品し、日本美術院の同人[どうにん]に推挙された。以後、院展が青邨の主要な作品発表の場となる。 同時期、1913年に知人の世話により松本すゑと結婚。すゑは、荻江節[おぎえぶし]・河東節[かとうぶし]などの三味線の名手である姉から邦楽を学んでいたが、結婚を機に芸事を中断し夫を支えることに専念した(のちに復帰、荻江節5代目荻江露友)。青邨は十代で患った胸の病気が平癒したとはいえ、体は丈夫とは言い難く、結婚後間もなく体調悪化のため平塚に転地療養している。すゑは夫の健康を気づかって衛生管理を徹底し、また画商との交渉等全ての雑事を一手に引き受けた。後年には4人の娘や孫たちも、取材旅行に付き添ったりモデルを務めたりと家族全員が青邨の制作を支援した。そのおかげで青邨は大病を患うこともなく、絵に集中できた。 1915年5月、青邨は今村紫紅の勧めで、仕事の取材を兼ねて朝鮮半島の一人旅をする。帰国後、同年の再興第2回院展に水墨を基調とした大らかな表現の《朝鮮之巻》(東京国立博物館)を出品。青邨は同地を気に入り、その後も朝鮮美術展覧会(鮮展)の審査員として訪問するなど、しばしば訪れている。1916年には京都の風景を俯瞰的視点で捉えた《京名所[みやこめいしょ]八題(現・都名所 八題)》(東京国立博物館)を院展に出品して話題を呼んだ。高い視点から風景を捉える鳥瞰的表現は、古い絵巻にしばしば見られるが、それを縦長の構図として表現したところに青邨の工夫がある。1919年には中国へ旅行。しかしこの旅では体調を崩しスケッチも捗らず、同年の院展出品作《燕山[えんざん]之巻》(東京国立博物館)は、色彩による立体表現を目指したものの不本意な出来に終わった。この頃から制作に迷いが生じ「これからの時代は西洋画でなくてはいけないのではないか」という疑念が離れず、心身のバランスを崩した。妻の助言で鎌倉・円覚寺の高僧、釈宗演[しゃく そうえん]へ参禅、「画禅入三昧[がぜんにゅうざんまい]」という偈文[げもん]を記した掛軸を与えられる。青邨はこれを生涯の指針とし、難しい制作の際は画室に「画禅入三昧」の軸を掲げて臨んだ。 1922年、日本美術院は創立25周年の記念事業として西洋美術研究のため同人3名の欧州派遣を決定した。日本画部では青邨と半古門の兄弟子・小林古径、彫刻部からは佐藤朝山が選ばれ、約10カ月間、欧州各地を歴訪する。留学中、イタリアでジョットの壁画を熟覧し、日本画に共通したものを見出して親しみを覚えるのと同時に、自分の絵についての迷いが一掃されたように思ったという。またイギリスでは古径と共に、大英博物館所蔵の伝・顧愷之[こがいし]《女史箴図巻[じょししんずかん]》の模写(東北大学附属図書館)に取り組んだ。これは古径が美術史家の福井利吉郎から依頼されていたもので、2人で分担し2カ月近く博物館に通い詰めて完成させた。留学体験により日本画の将来に自信を取り戻した青邨は、帰国後、墨の濃淡で異国の風景を表現した水墨画《伊太利所見》(1925年、個人蔵)、《漢江の朝霧・漢水の夕》(1926年、個人蔵)、西洋美術体験で得た感銘の結実である代表作《羅馬使節》(1927年、早稲田大学會津八一記念博物館)と、次々と名作を発表する。以後青邨は、濃密な着色による作品と水墨による作品とを、交互にもしくは同時に院展に発表していく。伝統的な大和絵から学んだ華麗な色使い、軽やかな中にも緊張感のある墨の線、構図の中の余白のバランスから生まれるリズムや余韻などを、自分自身の技として使いこなしていく。 1929年の院展出品作《洞窟の頼朝》(重要文化財、大倉集古館、東京)では、平安時代の鎧や兜の色彩美に正面から取り組み、青邨自身も「自分の歴史画の代表作」と認める記念碑的作品となった。さらに1930年には、初めて花鳥画に本格的に取り組み、自宅近くの畑に写生に通い詰めて描いた《罌粟》(光ミュージアム、岐阜県)を発表。歴史人物画、風景画はもちろんのこと、花鳥画・動物画にも優れた作品を生み出していく。 戦後の青邨はさらなる充実期に入る。これまでは歴史人物画が画業の柱であったが、同時代の人物を対象とした肖像画を積極的に描くようになったのである。本格的に取り組み始めたのは60代後半からで、洋画家の安井曾太郎を描いた《Y氏像》(1951年、東京国立近代美術館)、高松宮妃殿下を描いた《ラ・プランセス》(1957年、岐阜県美術館)など、数多くの肖像画の名品が生まれた。能楽師の14世喜多六平太をモデルとした《出を待つ》(1955年、岐阜県美術館)や自画像《白頭》(1961年、東京藝術大学)もまた、発展した形の肖像画と言えるだろう。 晩年になってもその制作意欲は衰えず、《腑分》(85歳、山種美術館、東京)、《知盛幻生》(86歳、個人蔵)、《水辺春暖》(88歳、岐阜プラスチック工業株式会社、岐阜市)、《富貴花》(89歳、名古屋市美術館)、細川ガラシャを描いた《天正貴婦人像》(89歳、ヴァチカン近代美術館)等の代表作は全て80代後半に描かれている。最晩年まで充実した画業を展開できた理由として、度重なる病に苦しんだものの山国育ちで基礎体力があったこと、長年の写生と古画研究によって培われた筆の技が衰えなかったこと、また家族の全面的なサポートも挙げられよう。そして何よりも絵に対する深い愛情、絵が好きで絵を描き続けていたいという真摯な気持ちが彼を支えていたのである。その姿は広く周囲に理解されていた。東京藝術大学日本画科主任教授(1951–1959年)や法隆寺金堂壁画再現模写事業の総監修(1966–1968年)、高松塚古墳壁画模写の総監修(1972–1974年)など数々の役職に任ぜられたのも、芸術に対する真摯な姿勢が高く評価されてのことだろう。 (青山 訓子)(掲載日:2025-02-05) 註 前田青邨「寫生と古畫研究」『アトリヱ』3巻7号、1926年7月、60頁。

1961
前田青邨展 喜寿記念, 日本橋高島屋, 1961年.
1971
前田青邨展: 米寿記念, 日本橋髙島屋, なんば髙島屋, 名古屋髙島屋, 1971年.
1975
前田青邨展, 東京国立近代美術館, 1975年.
1976
前田青邨展, 京都市美術館, 1976年.
1976
川合玉堂 前田青邨 荒川豊蔵: 郷土巨匠三人展, 岐阜県博物館, 1976年.
1979
前田青邨遺作展, 日本橋高島屋, 四条・高島屋, なんば・高島屋, 名古屋・丸栄, 横浜・高島屋, 1979年.
1983
前田青邨とその弟子: 生誕百年記念展, 神奈川県立近代美術館, 岐阜県美術館, 1983年.
1988
前田青邨展, 有楽町アート・フォーラム, 1988年.
1991
前田青邨: 写生帖・下図から本画へ: 特別陳列, 東京国立博物館, 東京藝術大学藝術資料館, 1991年.
1993
前田青邨とその時代, 古川美術館, 1993年.
1994
前田青邨: その人と芸術: 特別展, 山種美術館, 1994年.
1995
前田青邨展, 名古屋市美術館, 1995年.
2001
前田青邨展, 京都国立近代美術館, 愛媛県美術館, 笠岡市立竹喬美術館, 2001年.
2006
前田青邨展: 生誕一二〇年, 島根県立美術館, 岐阜県美術館, 浜松市美術館, 2006年.
2008
前田青邨・平山郁夫師弟展: 心の系譜, 平山郁夫美術館, 2008年.
2010
青邨の芸術: 特別展, 古川美術館, 2010年.
2015
前田青邨と日本美術院: 大観・古径・御舟: 生誕130年記念, 山種美術館, 2015年.
2021
平山郁夫と前田青邨, 佐川美術館, 2021年.
2022
前田青邨・平山郁夫・小山硬: 師から受け継ぐ: 名都美術館開館35周年記念, 名都美術館, 2022年.
2022
前田青邨展: 究極の白、天上の碧: 近代日本画の到達点: 開館40周年記念, 岐阜県美術館, 2022年.
2024
羅馬使節: 東西の融和の美: 特集展示, 早稲田大学會津八一記念博物館, 2024年.

  • 東京国立博物館
  • 東京藝術大学大学美術館
  • 東京国立近代美術館
  • 二階堂美術館, 大分県
  • 皇居三の丸尚蔵館, 東京
  • 愛知県美術館 木村定三コレクション
  • 岐阜県美術館
  • 早稲田大学會津八一記念博物館
  • 大倉集古館, 東京
  • 山種美術館, 東京

1926
前田青邨「写生と古画研究」『アトリエ』3巻7号 (1926年7月). [自筆文献].
1957
前田青邨『前田青邨スケッチ集: 日本の冑』東京: 中央公論美術出版, 1957年.
1957
中村渓男監修『前田青邨 現代作家デッサン』京都: 芸艸堂, 1957年.
1961
喜寿記念前田青邨展委員会編『前田青邨作品集: 喜寿記念』東京: 大塚巧芸社, 1961年 (会場: 日本橋高島屋). [展覧会カタログ].
1964
『前田青邨・川端龍子 講談社版日本近代絵画全集: 第24巻』東京: 講談社, 1964年.
1969
「前田青邨」『私の履歴書: 第35集』東京: 日本経済新聞社, 1969年, 157–220頁. [自筆文献]. (自叙伝)
1969
難波専太郎『前田青邨』改訂増補版. 東京: 美術探究社, 1969年.
1972
『前田青邨作品集』東京: 朝日新聞社, 1972年.
1973
飯島勇編著『前田青邨 日本の名画: 26』東京: 講談社, 1973年.
1973
久富貢[解説]『前田青邨 現代日本美術全集: 15』座右宝刊行会編; 谷川徹三, 河北倫明監修.東京: 集英社, 1973年.
1977
桑原住雄編『前田青邨 日本の名画: 15』東京: 中央公論社, 1977年.
1978
鹿島卯女編『前田青邨の歴史画』秋山光和監修. 東京: 鹿島出版会, 1978年.
1979
前田青邨『作画三昧: 青邨文集』東京: 新潮社, 1979年. [自筆文献].
1981
秋山光和[ほか]編『定本前田青邨作品集』東京: 鹿島出版会, 1981年. (カタログ・レゾネ画集)
1983
関千代編集解説『前田青邨 日本画素描大観: 5』東京: 講談社, 1983年.
1986
瀧悌三, 村瀬雅夫責任編集『平山郁夫, 前田青邨 20世紀日本の美術: 5.』東京: 集英社, 1986年.
1994
福田徳樹編『前田青邨: 歴史のなかの人々 巨匠の日本画: 8』河北倫明, 平山郁夫監修. 東京: 学習研究社, 1994年.
1996
秋山光和「『眼の人』前田青邨: 生涯とその制作」『日本美術院百年史: 12巻』日本美術院百年史編纂室編. 東京: 日本美術院, 1996年.
1998
『前田青邨 新潮日本美術文庫: 36』東京: 新潮社, 1998年.
2019
東京文化財研究所「前田青邨」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9605.html
2019
柏崎諒, 田中純一朗「前田青邨《羅馬使節》再考: 新寄贈資料の紹介をかねて」『早稲田大学會津八一記念博物館研究紀要』第20号 (2019年3月): 47–63頁.
2022
橘川英規. 前田青邨文庫の受入. 東京文化財研究所 活動報告. 公開日2022-11. https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/1017941.html

日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art

日本画家前田青邨は10月27日老衰のため東京文京区本郷の順天堂医大附属病院で死去した。享年92。本名廉造。なお葬儀は29日鎌倉市の円覚寺で密葬が行われ、11月9日東京中央区築地本願寺で、日本美術院葬による本葬が執行された。青邨は、明治18年岐阜県恵那に生れ、小学校の頃から画才を示して、早くより画道への志をたてた。当初14才で上京するが、病のため一旦帰省し、満16才で再上京した。当時大和絵に造詣深い...

「前田青邨」『日本美術年鑑』昭和53年版(281-285頁)

Wikipedia

前田 青邨(まえだ せいそん、1885年1月27日 - 1977年10月27日)は、岐阜県中津川市出身の日本画家。妻は荻江節の5代目荻江露友。

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81149106005668490560
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AOW ID
_00052599
Benezit ID
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Grove Art Online ID
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NDL ID
00039347
Wikidata ID
Q3477943
  • 2025-03-17