- 作家名
- 普門暁
- FUMON Gyō (index name)
- Fumon Gyō (display name)
- 普門暁 (Japanese display name)
- ふもん ぎょう (transliterated hiragana)
- 生年月日/結成年月日
- 1896-08-15
- 生地/結成地
- 奈良県奈良市
- 没年月日/解散年月日
- 1972-09-28
- 没地/解散地
- 大阪府大阪市北区
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
- 2019
- 東京文化財研究所「普門暁」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9462.html
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「普門暁」『日本美術年鑑』昭和48年版(85-86頁)わが国前衛美術運動の先駆者として知られた普門暁は、2月にクモ膜下出血で倒れ、大阪の暁明館病院に入院、9月28日同病院にて死去した。享年76歳。明治29年8月15日奈良市に生れた普門が生後間もなく東京に移り、青年期を迎えて画家を志望し、偶々1910年代イタリアのミラノに起った未来派の美術運動に刺激影響を受け、大正9年秋、みずから首唱者となって未来派美術協会を創立し、以来数年にわたってわが国における前...
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普門 暁(ふもん ぎょう、1896年8月15日 - 1972年9月28日)は、日本の未来派の画家。本名は常明。奈良県奈良市に生まれる。東京高等工業学校で当初建築を学ぶが、のち中退して川端画学校に入り、日本画を学ぶ。1920年、二科展落選の恨みを晴らすかのように、未来派美術協会を結成し、事実上、リーダーとして活躍。来日した、ダヴィッド・ブルリューク(1882年-1967年, Давид Бурлюк, David Burliuk)やヴィクトール・パリモフ(1888年-1929年, Bиктор Пальмов, Viktor Palimov, Victor Palimov, Viktor Palmov, Victor Palmov)とも交流した。しかし、その後二科展に出品できたこともその理由と思われるが、普門は協会運営に興味を失い、管理がいい加減となったため、1922年に除名された。なお、協会は、その後、木下秀一郎を中心として活動を継続した。その後は、主として大阪で、舞台美術、デザインなどの分野で活躍した。1937年に日本大学美術科講師となる。1946年にはGHQの日本美術顧問に就任し、アメリカへ日本美術の紹介に当たった。1972年2月にくも膜下出血で倒れて大阪暁明館病院に入院し、同年9月28日に死去。普門の作品は、未来派系統の、動きや光を視覚的に表現したような絵画作品を主たるものとしており、未来派系統の彫刻の制作も行った。ただ、特に初期の段階では、見様見真似のようなもので、未来派の理論についての十分な理解があったかについては大きな疑問がある。
- 2023-02-20