- 作家名
- 藤島武二
- FUJISHIMA Takeji (index name)
- Fujishima Takeji (display name)
- 藤島武二 (Japanese display name)
- ふじしま たけじ (transliterated hiragana)
- 玉堂 (art name)
- 生年月日/結成年月日
- 1867-10-15(慶応3年9月18日)
- 生地/結成地
- 薩摩国鹿児島城下池之上町(現・鹿児島市池ノ上町)
- 没年月日/解散年月日
- 1943-03-19
- 没地/解散地
- 東京府東京市本郷区
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
作家解説
1867年、現在の鹿児島市池ノ上町に、薩摩藩士・藤島賢方の三男として生まれる。同地は、江戸期に南九州最大の寺院だった玉龍山福昌寺の門前町である。曹洞宗である同寺の建立に際し、藤島家は寺侍として福井から下向した、と後年藤島は弟子たちに語っている。西南戦争のときの怪我がもとで、長兄、次兄が早世したため、十代の武二が家督を継ぐ。鹿児島にいた四条派の画家・平山東岳に日本画を学んだ。1884年、17歳のとき、東京で開催された第2回内国絵画共進会に出品していることから、早々に画才を発揮し始めたことがわかる。やがて洋画を目指して上京しフランス語を学ぶ一方、1885年、日本画家・川端玉章に入門し、玉堂と号した。後年、玉章が起こした川端画学校で西洋画科の指導者になっている。しかし、藤島は洋画への志を拭いきれず、玉章に学ぶのと並行して曽山幸彦に師事し、本格的に洋画を学ぶようになった。次いで順に、中丸精十郎、松岡壽[ひさし]、山本芳翠に師事。4人はいずれも黎明期に海外で学んだ経験をもち、藤島は当時としては最も正統的な油彩画教育を受けたといえる。
1891年5月、明治美術会第3回春季展に《無惨》を出品。友人・白瀧幾之助[しらたきいくのすけ]の名前を借りてのデビューだったが、これに森鷗外が注目し新聞評で高く評価した。作品は現存しないが、少女二人が飛ぶ蝶を木の枝で打ち落とすところを描いたものと伝わる。翌年には、元禄期の御殿女中の花見を題材にした《桜狩》(鹿児島市立美術館)を制作した。画家として方向性が定まらない時期にもかかわらず、花、蝶、女性といった後の重要モチーフへの選好がすでに顕著である。一方で、パリにいた黒田清輝と文通による交流を始め、パリから送られてきた黒田作品を東京の黒田宅で見せてもらっている。1895年7月、藤島は26歳で三重県尋常中学(現・三重県立津高校)の助教諭として津に赴任。戸主として家族を養う責任を果たすための転機だが、画家として生きる道を諦めていたわけではなかった。津から明治美術会展に出品を重ねている。
1893年にパリから帰国していた黒田は、明朗な外光表現をもって日本の洋画壇に新風を吹き込んだ。1896年夏、東京美術学校(現・東京藝術大学、1889年開校)に西洋画科が新設されるとき、その責任者を任された黒田は助教授の一人に藤島を指名する。同じ鹿児島出身、薩摩藩士の子息、同世代という好誼があったにせよ、数多くいた周辺画家のなかから津にいた藤島を選んだのは、黒田の高い評価を物語る。以後、藤島は1943年に亡くなるまで、同校の教官であった。この頃、藤島は後進を指導する傍ら、同僚の黒田から懇切な指導を受けた、と後年語っている。前世代から藤島が学んだ洋画教育よりも新しい表現を、黒田が持ち込もうとしていたからだ。しかし、黒田が移入しようとした核心は、19世紀後半までにフランスががっちりと組み上げた専門教育(エコール・デ・ボザール)と公募展覧会(サロン)を両輪とする国家アカデミズムを、日本で確立することだった。藤島は、生涯にわたってそのシステムの外側に大きく踏み出すことはなかった。しかしその内側で、ときには異分子として中心からの適度な距離を図りながら、自身の画業を展開、構築することに専心していく画家だった。
黒田が中心となって、西洋画科と同じく1896年に発足した白馬会は、1911年まで続く。前半生の藤島にとって作品発表の主要な舞台はこの白馬会展だった。1900年前後、黒田から学んだ外光表現から離れて、藤島は同時代人の心にまっすぐ語りかけようとする画面づくりに進む。与謝野晶子や雑誌『明星』など文学史上の新しい思潮との結びつきから、「明治浪漫主義」と呼ばれることも多い。1902年の第7回白馬会展に発表された《天平の面影》(アーティゾン美術館、東京)は、日本の古典古代ともいえる8世紀奈良時代への憧憬を、精緻な時代考証とその大胆な翻案に加え、ギリシア美術や19世紀末フランス美術を援用した意欲作だった。何よりも、古代への憧憬という形のない感情を観るものと共有しようというアプローチは、世紀の変わり目前後のロマンティシズムの典型と見なされる。2年後の《蝶》(個人蔵)は、無数の蝶が飛び交うなか、手に取った花弁に接吻する横顔女性の胸像で、耽美的志向がより先鋭になっている。
1905年秋、38歳の藤島は文部省から4年間のヨーロッパ留学を命じられる。同僚や教え子たちより遅れる西洋体験で、なかなか機会が回ってこない藤島は焦燥に駆られていた時期もあったようだが、後年の画業あるいは美術界全体の状況を考慮すれば、絶妙なタイミングだったともいえる。藤島がパリへ向かう船上にあったときに開会されていたサロン・ドートンヌでは、アンリ・マチスらが「フォーヴ(野獣)」と呼ばれた。藤島はこれを見逃しているが、翌年のサロン・ドートンヌでポール・ゴーガンの回顧展を、さらにその翌年には亡くなったばかりのポール・セザンヌ回顧展を見ている。ローマに移った後は、未来派前夜のジャコモ・バッラなどイタリア画家たちとも交流。印象派以後の新しい美術の胎動を、身をもって体感できた時代だった。一方で、パリとローマの美術学校でそれぞれ、フェルナン・コルモン、カロリュス = デュランに師事し、アカデミズムの当時の状況を確認することもできた。そのなかで、藤島は油彩絵具の粘着力を生かしながら重厚かつ生動感のある筆触を、風景画と人物画でものにしていく。西洋体験の意義は、第一に、西洋美術の現在と過去、あるいはフランスとイタリアといった二項対立を相対的に眺める視線を学んだこと、第二に自己に必要だと思われる表現を確実にとらえ、いわば体質にあった油彩画の技法を会得できたことだろう。
パリとローマでそれぞれ2年、計4年間の留学を終え、1911年1月に帰国した後は、教授に昇任する。西洋で学んだものを日本で体現していくバネとして、東洋への眼差しが機能する。1913年11月から2カ月、藤島は朝鮮を視察した。地勢と風土、古代美術の隆盛にイタリアと共通するものを見出したと語る藤島の発言からは、日本人によるオリエンタリズムという側面が色濃い。古代とルネサンス期に他の国々を圧倒したイタリアと、近代以降、美術における主導的地位をイタリアから引き継いだフランスとの関係に、朝鮮と日本の歴史をなぞらえる意識である。西洋から見つめられる東洋の内側にあって、西洋で学んだその視線を入れ子状に、日本が朝鮮を眺めるそれに重ね合わせた。こうしたオリエンタリズムの視界に、まもなく中国が入ってくるのは必然だったといえよう。1920年代半ば、藤島は東京のアトリエで日本人女性に中国服を着せて描く、《東洋振り》(1924年、アーティゾン美術館)を起点とする横顔女性像の連作を手がける。イタリア・ルネサンスの典型的な肖像を引用し、いわば様式と視線の双方で西洋を東洋に重ね合わせたといえる。1910年、20年代の文学界にも共通する中国趣味を手がかりに、東西を融合させる絵画の、ひとつの結論を藤島は導き出した。
1920年代終わり、天皇に関わるふたつの制作依頼が新たな転機となる。和歌山の潮岬[しおのみさき]を課題に発注された吹上御苑花蔭亭の壁画は、1931年暮れに完成、納品された。もうひとつの、昭和天皇の書斎にかけられる装飾画の発注は、前者に先立つ1928年である。その主題は画家に一任された。藤島は新天皇の慶事にふさわしいものとして、「日の出」を選ぶ。だが最終的に満州国の砂漠の日の出を描いた《旭日照六合》(皇居三の丸尚蔵館、東京)が納められたのは、9年後の1938年12月。ほとんど抽象絵画ともいえるような単純な画面に辿り着くまでの9年間、満足できる水平線や地平線、山の稜線を昇る日の出を追い求めて、藤島は当時の国内各地、あるいは日本の影響下にある地域に旅を重ねた。日の出以外のものを含め、その写生地で描かれた風景画群が、最後の10年間を豊かに彩る。特に、神戸港、大洗海岸、屋島、大王岬、碓氷峠、新高山(玉山)などの連作が、それぞれ大きな山脈となっている。なかでも《耕到天》(1937年、大原美術館、倉敷)は、春の山肌を覆う耕地と自然林が織りなす量塊を、伸びやかな筆触と大胆な色面で表した作品である。
1911年の帰国直後から、藤島は自らの絵画理念は「サンプリシテ(単純化)」だ、とことあるごとに語っている。不必要なものを排除し、描かざるをえないもののみを画面に残すことが使命だという。その理念の下地は、鹿児島時代から最晩年まで絶えず参照した禅と老荘の思想であり、西洋体験でもそれらが揺らぐことはなかった。日本と東洋の文化を基層にして、西洋美術から自らに必要だと思われるものを貪欲に吸収し、油彩絵具の特性を柔軟に生かしながら画業を展開させていった画家だった。
(貝塚 健)(掲載日:2023-09-11)
- 1942
- 藤島武二作品鑑賞会, 三越 (日本橋), 1942年.
- 1943
- 藤島武二遺作展覧会, 東京都美術館, 大阪市立美術館, 1943年.
- 1967
- 藤島武二展: 生誕百年記念, ブリヂストン美術館, 1967年.
- 1967
- 藤島武二展: 生誕百年記念, 大阪市立美術館, 1967年.
- 1983
- 藤島武二展: 没後40周年記念, 三重県立美術館, 神奈川県立近代美術館, 1983年.
- 1983
- 日本近代洋画の巨匠とフランス: ラファエル・コラン, ジャン=ポール・ローランスと日本の弟子たち, ブリヂストン美術館, 三重県立美術館, 愛媛県立美術館, 長崎県立美術博物館, 1983–1984年.
- 1987
- 藤島武二展: 近代洋画の巨匠: 生誕120年記念, 京都市美術館, 1987年.
- 1988
- 写実の系譜Ⅲ: 明治中期の洋画, 東京国立近代美術館, 京都国立近代美術館, 1988–1989年.
- 1989
- 藤島武二展, 東京都庭園美術館, 高岡市立美術館, 愛知県美術館, 1989年.
- 1992
- 特集展示 藤島武二, 石橋財団ブリヂストン美術館, 1992–1993年.
- 1996
- 白馬会: 明治洋画の新風: 結成100年記念, ブリヂストン美術館, 京都国立近代美術館, 石橋美術館, 1996–1997年.
- 2002
- ブリヂストン美術館開館50周年記念 藤島武二展, ブリヂストン美術館, 石橋美術館, 2002年.
- 2003
- ふたつの重要文化財: 藤島武二「天平の面影」と雪舟「四季山水図」: 特別公開, 石橋美術館, 2003年.
- 2014
- 描かれたチャイナドレス: 藤島武二から梅原龍三郎まで, ブリヂストン美術館, 2014年.
- 2017
- 藤島武二展: 生誕150年記念, 練馬区立美術館, 鹿児島市立美術館, 神戸市立小磯記念美術館, 2017-2018年.
- 石橋財団アーティゾン美術館, 東京
- 岩崎美術館, 鹿児島県指宿市
- 大原美術館, 岡山県倉敷市
- 鹿児島市立美術館
- 京都国立近代美術館
- 東京藝術大学大学美術館
- 東京国立近代美術館
- 東京国立博物館
- ポーラ美術館, 神奈川県箱根町
- 三重県立美術館
- 1911
- 坂井犀水「藤島武二氏 現今の大家: 15」『美術新報』第10巻第9号 (1911年7月): 1-6頁.
- 1934
- 藤島武二画集編纂事務所編『藤島武二画集』東京: 東邦美術学院, 1934年.
- 1940
- 『藤島武二画集』東京: 春鳥会, 1940年.
- 1943
- 『藤島武二画集』東京: 藤島武二画集刊行会, 1943年.
- 1949
- 石井柏亭『画壇是非: 評伝と時論』東京: 青山書院, 1949年.
- 1967
- 隈元謙次郎『藤島武二』東京: 日本経済新聞社, 1967年.
- 1969
- 高階秀爾「藤島武二 日本近代美術史ノート, 10」『季刊芸術』第3巻第3号 (1969年7月): 168-184頁.
- 1972
- 河北倫明, 嘉門安雄解説『青木繁 藤島武二 現代日本美術全集: 7』東京: 集英社, 1972年.
- 1975
- 嘉門安雄編『藤島武二 近代の美術, 31』(1975年11月).
- 1982
- 藤島武二『芸術のエスプリ』東京: 中央公論美術出版, 1982年 [自筆文献].
- 1983
- 中田裕子「藤島武二《天平の面影》《階音》そして《蝶》に表象された雅楽と西洋音楽」[連載]1-4『館報』31号 [1983年]: 36-47頁; 32号 [1984年]: 38-47頁; 33号 [1985年]: 21-34頁; 39号 (1992年2月): 44-59頁. 東京; 久留米: 石橋財団ブリヂストン美術館, [石橋財団]石橋美術館.
- 1990
- 『藤島武二 アサヒグラフ別冊, 美術特集日本編』65 (1990年11月).
- 1991
- 林洋子「東京大学・安田講堂内壁画について: 小杉未醒と藤島武二の試み」『東京大学史紀要』第9号 (1991年3月): 1-25頁.
- 1992
- 林洋子「藤島武二の風景画への展開: 「装飾画」を軸にして」『美術史』131号 (1992年2月): 50-65頁.
- 2001
- 児島薫「藤島武二とアール・ヌーボー: 『ラ・プリュム』との関わりについて」『鉄幹と晶子』第6号 (2001年3月): 50-61頁.
- 2002
- 池田忍「『支那服の女』という誘惑: 帝国主義とモダニズム」『歴史学研究』765号 (2002年8月): 1-14, 37頁.
- 2003
- 森山秀子「藤島武二《天平の面影》」『ふたつの重要文化財: 藤島武二《天平の面影》と雪舟《四季山水図》』久留米: 石橋美術館, 2003年, 1-13頁 (会場: 石橋美術館) [展覧会カタログ].
- 2005
- 植野健造『日本近代洋画の成立: 白馬会』東京: 中央公論美術出版, 2005年.
- 2006
- 児島薫「藤島武二における〈西洋〉と〈東洋〉」『美術史家、大いに笑う: 河野元昭先生のための日本美術史論集』東京: ブリュッケ, 2006年, 387-406頁.
- 2006
- 金正善「藤島武二作《花籠》考」『デアルテ: 九州芸術学会誌』第22号 (2006年): 55-72頁.
- 2010
- 児島薫「藤島武二・旭日を描く旅: 花蔭亭壁画と御学問所を飾る絵画の制作について」『近代画説』19号 (2010年12月): 18-34頁.
- 2011
- 児島薫「藤島武二研究拾遺: 「天平時代」および「東洋」の表現について」『近代画説』20号 (2011年12月): 44-55頁.
- 2013
- 高橋沙希「藤島武二・青木繁と世紀末美術」『東アジア文化交渉研究』第6号 (2013年3月): 123-142頁.
- 2014
- 森田恒之「絵画技術史から見た日本の印象派紹介者再考」『近代画説』23号 (2014年12月): 4-13頁.
- 2015
- 児島薫「藤島武二による中国服の女性像について: 《鉸剪眉》を中心に」『実践女子大学美学美術史学』第29号 (2015年3月): 1-20頁.
- 2017
- 加藤陽介[ほか]編. 『藤島武二展: 生誕150年記念』東京: 東京新聞, 2017年 (会場: 練馬区立美術館, 鹿児島市立美術館, 神戸市立小磯記念美術館).
- 2019
- 東京文化財研究所「藤島武二」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8660.html
- 2019
- 貝塚健「藤島武二と仏教: 真珠と海」『館報』67号 (2019年3月): 57-72頁. 東京: 石橋財団ブリヂストン美術館.
- 2019
- 児島薫『女性像が映す日本: 合わせ鏡の中の自画像』東京: ブリュッケ, 2019年.
- 2021
- 貝塚健「藤島武二《東洋振り》: 楕円のなかの中国、西洋、関東大震災」『石橋財団アーティゾン美術館研究紀要』2号 (2021年12月): 54-75頁.
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「藤島武二」『日本美術年鑑』昭和19・20・21年版(82-85頁)帝室技芸員帝国芸術院会員、東京美術学校教授藤島武二は3月19日宿痾脳溢血のため本郷区の自宅に於て逝去した。 藤島武二は、慶応3年9月18日鹿児島市に賢方の三男として生れた。弱冠四条派の画家平山東岳に就いて絵画を学んだ。明治17年東京に出で、翌18年川端玉章の門に入り、玉堂と号し日本美術協会に出品して受賞した。併し、同23年宿志たりし洋風画の研究に転じ、曽山幸彦に師事した。その後中丸精十郎、松岡寿、...
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藤島 武二(ふじしま たけじ、1867年10月15日(慶応3年9月18日) - 1943年(昭和18年)3月19日)は、明治末から昭和期にかけて活躍した洋画家である。明治から昭和前半まで、日本の洋画壇において長らく指導的役割を果たしてきた重鎮でもある。ロマン主義的な作風の作品を多く残している。
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- 2024-03-01