- 作家名
- 平田郷陽, 二代
- HIRATA Gōyō, II (index name)
- Hirata Gōyō, II (display name)
- 二代平田郷陽 (Japanese display name)
- にだい ひらた ごうよう (transliterated hiragana)
- 平田恒雄 (real name)
- ひらた つねお
- 生年月日/結成年月日
- 1903-11-25
- 生地/結成地
- 東京府
- 没年月日/解散年月日
- 1981-03-23
- 没地/解散地
- 東京都文京区
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 工芸
作家解説
1903年、東京府浅草に生まれる。本名は恒雄。父は「生人形」(活き人形とも)の名工として知られた初代平田郷陽(恒次郎)。初代郷陽は、生人形師として著名であった安本亀八(二代並びに三代)について学んだ。生人形とは、読んで字のごとく人があたかも生きているように高度な写実性を貫く人形を指し、その多くは等身大として作られる。二代郷陽も尋常小学校卒業年から父に師事してこの迫真の技を修得したが、人体を捉えるまなざしの確かさは、後年、作品のスタイルが変わってからも引き継がれることとなる。1924年父が没し、二代郷陽を襲名。9人家族の生計を立てる手段として、まずは桃太郎や金太郎などの節句人形を多数作った。また、岡田嘉子や栗島すみ子ら人気女優の生人形や、百貨店からの依頼によりマネキン人形も手掛けており、その様子は郷陽が遺したアルバムや、雑誌の特集記事等で確認することができる。
1927年、アメリカ合衆国から贈られた日米親善「人形使節」への返礼品としてやまと人形(振袖姿の少女人形)の制作プロジェクトが発案され、郷陽が応募した人形は鑑査で高評価を得て話題となった。郷陽の転機ともなったこの仕事には、郷陽の古典の理解と生人形で培った高度な技術が結集したとされる。《答礼人形・櫻子》(1927年、吉德資料室、東京)は、人形使節の世話役を務めた吉德十世山田德兵衞に贈ったものだが、当時評判を呼んだ仕事ぶりはここにも見られる。
1928年、岡本玉水、久保佐四郎らとともに人形研究団体・白澤会[はくたくかい]を結成。白澤会は作品の展観にも力を入れており、郷陽は第4回展《粧ひ》(1931年、横浜人形の家)や第5回展《踊》(1932年、人間国宝美術館、神奈川・湯河原)等を出品した。《粧ひ》では薄物に透ける肌、ほのかに染まる瞼や頬にもほのかな色香を漂わせた。他方、《踊》では娘道成寺風の衣装と真摯な面差しが秘めた想いを強く感じさせる。いずれにおいても生人形の修養を基礎としつつ、主題と外貌の作りこみが協調して鑑賞者の自然な感情移入が巧まれている。
昭和初期は、白澤会のほかにも人形制作団体や研究会が盛んとなり、人形を熱く注視した時代である。郷陽たちのような職人的専門家だけでなく、趣味や独自研究によるアマチュア、蒐集家、百貨店、文学者・研究者などが参加した「人形芸術運動」は、人形の美的価値の啓蒙とともに、早くより官展参加を目標として掲げていた。1936年改組第1回帝国美術院展覧会(帝展)から人形の参加が認められ、第4部工芸部門に6点が入選。うち1点は郷陽の《桜梅の少将》(国立工芸館、金沢)であった。後白河法皇50歳の賀の行幸に供奉して「青海波」を舞った四位の少将平維盛に想を得た本作の装束は、この頃の郷陽の他の作品と同様に着付(人形の寸法に仕立てた衣裳をボディに着せる)とし、考証は日本画家で有職故実の研究でも知られた松岡映丘に依頼したといわれている。郷陽の出品作には力作との評価が与えられたが、ガラスの目や頭部の毛髪等、出品者以外の手による複数素材の使用に加え、その徹底的な写実性について批判の声もあがった。これに対して郷陽は、雑誌『人形人』第2年2月号(1936年)に「人形の特長」と題して次のようにリアクションしている。「(写実の特長は芸術的存在ではないと言わずに)その生命を生かし美化して行くところに又進む道があるのではないかと思う。緻密な作法は模写ではなくして作者の熱と感情の表れが走るのであって、モデルを只写生するだけではない」。
官展参加の前年1935年10月、郷陽らは白澤会を発展解消し、日本人形社を設立した。日本人形社はその趣意書に「自己の制作を真摯な気持ちで世間に問はんとする作家の為め」とあるとように公募展を行うものであった。郷陽も第1回日本人形社展に《泣く子》(1936年、個人蔵)、第2回《洛北の秋》(1937年、国立工芸館)、第3回展《弾き語り》(1938年、愛知県美術館[木村定三コレクション])、第4回展《児戯興趣》(1939年、横浜人形の家)などを出品した。さらに1941年には日本人形社を解散、新たに日本人形美術院を創立した。1942年の第2回展には《姥と山童》と《矢の根》(いずれも個人蔵)を出品したが、どちらも時代装束と寓意的描写を特徴とする力強い作品である。文部省美術展覧会(文展)、各種グループ展に積極的に参加しながら、この時期には子供をモチーフとした作品も多く手がけ、注文制作も多くこなしていたという。
1945年3月の空襲で被災して、郷陽一家は父の郷里・岡山に疎開。当地で3年間過ごすが、1946年3月に始まった日本美術展覧会(日展)には第1回展から参加した。第2回展《凩[こがらし]》(1946年、熊本県立美術館)では浮世絵から抜け出したかのような風情が漂うなか、衣裳の情報量は整理が進んだ。戦中の新文展出品作からも窺われた徹底写実から踏み出そうとする傾向が認められるが、一方で《姥と金太郎》(1948年、第2回現代美術総合展、熊本県立美術館)のように着付や人毛を使用したものやその中間的な仕上げなど、揺らぎながら模索する道程は実に興味深い。
1950年代に入ると、郷陽が志向した制作の現在地が明らかとなっていく。第6回日展で特選を獲得した《茶》(1950年、所在不明)では単純化が進展し、「いままでのリアリスティックな作風から一転してこの作品、いささか鑑者を戸まどわせるが、端正な姿態は他の追随をゆるさぬ」(大島隆一「第四科美術工芸」『第6回日展集』1950年)と驚きをもって迎えられた。1953年《秋韻》(個人蔵)が第9回日展で北斗賞を受賞。マッスで捉えた人体を縫目を省略した木目込みの衣裳が包み込み、襟から裾にいたる襲ね目に線的描写の抑揚が効果的に表された。色彩は艶やかな胡粉塗りの肌と着物については白を基調とし、頭髪の黒、そして口唇と帯の黄赤の強弱バランスも完璧である。
1953年には、助成の措置を講ずべき無形文化財の工芸技術関係(衣裳人形)に選定、また1955年にはやはり「衣裳人形」で重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)に認定された。日展は1954年第10回展で審査員を務めたが、1957年に退会し、以後は日本伝統工芸展と、1956年に始めた郷陽主宰の人形塾・陽門会を中心に作品を発表した。
単純化とデフォルメの傾向はその後も進み、1958年の《長閑》(国立工芸館、人形美術院展)では、高く上げた袂と身頃とで木目込んだ文様をつなげるなど、衣裳の文様布置と色彩計画に平面構成の感覚が取り入れられ、人体や衣裳の論理と視覚効果のあいだで巧みに舵を取ろうとする姿勢が明確である。ただしどれだけ単純化が進んだとしても基本においたのは人体観察の確かさと熱意とにあり、だからこそ精査された情報が無理なく伝わり、作品の力となったのである。弟子であった芹川英子によれば、郷陽が人形に施した上塗り胡粉は他に類ないほど薄いのだという。身体を把捉する目と木彫の高い技量への自負がそこからも窺われる。
日本工芸会では理事ならびに日本伝統工芸会鑑査委員なども務め、陽門会とともに後進の育成に力を尽くした。1968年紫綬褒章、74年勲四等瑞宝章。1981年3月23日に永眠。
(今井 陽子)(掲載日:2023-09-26)
- 2001
- 平田郷陽の衣裳人形: 人間国宝, 静岡アートギャラリー, 2001年.
- 吉徳これくしょん, 東京
- 横浜人形の家
- 人間国宝美術館, 神奈川県湯河原町
- 国立工芸館, 石川県金沢市
- 熊本県立美術館
- 愛知県美術館
- 岩槻人形博物館, 埼玉県さいたま市
- 1936
- 平田郷陽「人形の特長」『人形人』2巻2号 (1936年).
- 1936
- 白澤会編『新日本人形集』東京: 白澤会, 1936年.
- 1972
- 平田郷陽『平田郷陽人形作品集』東京: 講談社, 1972年.
- 1975
- 平田郷陽『衣裳人形: 平田郷陽作品集』秋山庄太郎撮影. 大阪: 杉本商店, 1975年.
- 1976
- 平田郷陽『人形芸五十年: 平田郷陽』東京: 講談社, 1976年.
- 1978
- 岡田譲編『平田郷陽: 衣裳人形 人間国宝シリーズ: 36』東京: 講談社, 1978年.
- 1989
- 小檜山俊「人形師の系譜 続・平田郷陽」[連載]1-12『にんぎょう日本』17巻1号 (1989年12月): 25-27頁; 17巻2号 (1990年1月): 37-39頁; 17巻3号 (1990年2月): 29-31頁; 17巻4号 (1990年3月): 54-56頁; 17巻5号 (1990年4月): 41-43頁; 17巻6号 (1990年5月): 74-76頁; 17巻7号 (1990年6月): 31-33頁; 17巻8号 (1990年7月): 58-60頁; 17巻9号 (1990年8月): 33-35頁; 17巻10号 (1990年9月): 33-35頁; 17巻11号 (1990年10月): 41-43頁; 17巻12号 (1990年11月): 32-34頁. 東京: 日本人形協会.
- 2003
- 今井陽子「作品研究 人形の虚実: 平田郷陽の制作」『現代の眼』541号 (2003年8月): 10-12頁.
- 2003
- 是澤博昭「平田郷陽と人形芸術運動: 人形作家誕生の背景」『人形玩具研究: かたち・あそび: 日本人形玩具学会会誌』14巻 (2003年9月): 20-31頁.
- 2003
- 小林すみ江「生人形師から人形作家へ: 天才・平田郷陽の歩んだ道」『骨董緑青』通巻49号 (2003年9月): 12-14頁.
- 2005
- Kobayashi, Sumie. “From Life like Doll Artizan to Doll Master: Genius Hirata Gōyō’s Path”. Daruma: Japanese Art, Antiques & Handicrafts, Vol. 12 No. 4, Issue 48 (Autumn 2005): 12-21. Amagasaki: Takeguchi Momoko. [小林すみ江「生人形師から人形作家へ: 天才・平田郷陽の歩んだ道」の英訳]
- 2007
- 笹岡洋一「大正・昭和戦前・戦後の人形みたまま: 平田郷陽作『桜梅の少将』の考証」日本人形玩具学会誌編集委員会,『人形玩具研究: かたち・あそび: 日本人形玩具学会会誌』17巻 (2007年3月): 40-45頁.
- 2011
- 岡林洋編著『パサージュ文化論: 「花・歌・人形」の開かれた文化研究 同志社大学人文科学研究所研究叢書: 41』京都: 晃洋書房, 2011年.
- 2011
- 坪井則子, 本橋浩介編『平田郷陽の人形: 歿後30年』佐野: 佐野美術館, 2011年 (会場: 佐野美術館, 佐倉市美術館) [展覧会カタログ].
- 2012
- 本橋浩介「平田郷陽の「切り返し」: 官展出品作の作風の変化をとおして」『人形玩具研究: かたち・あそび: 日本人形玩具学会会誌』22巻 (2012年3月): 39-51頁.
- 2012
- 入江繁樹「平田郷陽の〈写実〉観: 一九三〇年代を中心にして」『人形玩具研究: かたち・あそび: 日本人形玩具学会会誌』22巻 (2012年3月): 59-68頁.
- 2012
- 川井ゆう「二代目平田郷陽と人形師」『人形玩具研究: かたち・あそび: 日本人形玩具学会会誌』22巻 (2012年3月): 69-72頁.
- 2012
- 田中圭子「白澤会と平田郷陽 試論」『人形玩具研究: かたち・あそび: 日本人形玩具学会会誌』22巻 (2012年3月): 73-83頁.
- 2012
- 竹原明理「「人形芸術」の形成と生人形: 平田郷陽の活動を中心に」『人形玩具研究: かたち・あそび: 日本人形玩具学会会誌』22巻 (2012年3月): 84-93頁.
- 2012
- 内海清美「平田郷陽の人形を見る」『人形玩具研究: かたち・あそび: 日本人形玩具学会会誌』22巻 (2012年3月): 96-98頁.
- 2012
- 増渕宗一「平田郷陽特集を企画して」『人形玩具研究: かたち・あそび: 日本人形玩具学会会誌』22巻 (2012年3月): 103-106頁.
- 2019
- 東京文化財研究所「平田郷陽」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. (日本語) https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9802.html
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「平田郷陽」『日本美術年鑑』昭和57年版(272頁)振りや衣裳に重点を置いた「衣裳人形」の現代化に取り組んだ人間国宝平田郷陽は、3月23日午後1時10分、脳血せんのため東京都文京区の都立駒込病院で死去した。享年77。1903(明治26)年11月25日、伝統的な「活き人形」(等身大の似顔人形)の名工として知られた初代平田郷陽(恒次郎)の長男として、東京浅草に生まれる。本名は恒雄。田原町小学校を卒業後、父に人形制作を学び、父が没した24(大正13)年に...
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平田 郷陽(ひらた ごうよう、1903年(明治36年)11月25日 - 1981年(昭和56年)3月23日)は、日本の人形作家。重要無形文化財保持者(人形師として初の人間国宝)。衣裳人形の第一人者で、木目込みの技法を用いた衣裳人形を多数手掛ける。本名、恒雄。
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- 2024-02-09