- 作家名
- 平櫛田中
- HIRAKUSHI Denchū (index name)
- Hirakushi Denchū (display name)
- 平櫛田中 (Japanese display name)
- ひらくし でんちゅう (transliterated hiragana)
- ひらぐし でんちゅう
- HIRAGUSHI Denchū
- Hiragushi Denchū
- 平櫛倬太郎 (real name)
- ひらくし たくたろう
- 平櫛田仲 (art name)
- 生年月日/結成年月日
- 1872-02-23
- 生地/結成地
- 岡山県後月郡西江原村(現・井原市西江原町)
- 没年月日/解散年月日
- 1979-12-30
- 没地/解散地
- 東京都小平市
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 彫刻
作家解説
1872年、現在の岡山県井原[いばら]市に生まれる。通説では生家は田中家で、のち平櫛家の養子になったとされるが、戸籍では片山家で出生し、田中家、続いて平櫛家に入籍したとある。本名は平櫛倬太郎[たくたろう]といい、平櫛田中は、田中と平櫛の両家の名を並べた作家名である。
小学校を卒業後、田中家の経済的な事情で進学を断念して1886年に大阪へ働きに出るが、造形の世界に目覚め、1893年に人形師中谷省古[なかたにせいこ]に入門して彫刻の手ほどきを受ける。1894年に胸部疾患のため帰郷したが、翌年病気が完治したため再び大阪に戻り、省古から本格的に彫刻活動を行うことを勧められ、奈良に2年近く滞在して古仏を研究する。1897年に上京し、神田明神付近に下宿、翌年下谷区(現・台東区)谷中の長安寺に移る。この年、仏師の高村光雲に入門するが、内弟子が認められる年齢を大きく超えていたため、同門の米原雲海[よねはらうんかい]、山崎朝雲[やまざきちょううん]に兄事しながら彫刻の技術を磨く。1898年の日本美術協会春季美術展覧会に十一面観音像を「平櫛田仲[ひらくしでんちゅう]」の名で出品、以後、1914年までこの名を使用する。同年より文京区湯島の麟祥院[りんしょういん]で伊予・八幡浜大法寺の西山禾山[にしやまかさん]の提唱を3年間にわたり聴き、思想と制作に影響を受ける。
1899年の日本美術協会秋季展覧会に、薪に腰かけて休息をとる樵を一木であらわした《樵夫[しょうふ]》(個人蔵)を出品。同作はのちに英国グラスゴー国際博覧会に出品された。1901年日本美術協会春季美術展覧会に《唱歌君ヶ代[しょうかきみがよ]》(小平市平櫛田中彫刻美術館、東京)を出品し、銀牌を受賞。この作品で初めて原型を特殊なコンパス(星取り機)で実材に写し取る「星取り法」を使用し、以後、彫刻制作ではこの技法が常用された。
1902年、新海竹太郎らが塑造研究を目的として組織した三々会(のち三四会と改称)の会員となり、1904年までに《労働》、《高襟[ハイカラ]》、《肥満》を発表。同会は抽選で選出された作家が月ごとに出題される課題にもとづいて作品を制作し、それを会員相互で批評しあう活動が行われ、人間の感情表現を重視した点に特徴がある。1907年、東京勧業博覧会に《無矣無矣[ないない]》(大分県立美術館)を出品し、三等賞牌を受賞するが、審査の不公平を理由に返却する。
1907年の第1回文部省美術展覧会(文展)に、あどけない少女が乳児を抱いて子守をする姿をあらわした《姉ごころ》(石膏原型、井原市立平櫛田中美術館、岡山)を出品。この時期は、同作のほか《幼児狗張子[ようじいぬはりこ]》(1911年、井原市立平櫛田中美術館)のように、日常の子どもたちの姿を克明に写し取った自然主義風の作品を制作した。
同年、岡倉天心の呼びかけで結成された日本彫刻会に創立会員として参加する。翌年の第1回展に禅機をあらわした《活人箭[かつじんせん]》(個人蔵)を出品。人物の腕に弓矢を握らせた説明的な表現が天心に批判される。
1910年、臨済宗の開祖・臨済と麻谷[まよく]を禾山らに見立てて制作した《法堂二笑[はっとうにしょう]》を発表。同年、ロンドンで開催された日英博覧会に《剣客》を出品し、銀賞を受賞する。1913年、《尋牛[じんぎゅう]》(小平市平櫛田中彫刻美術館)を日本彫刻会第5回展に出品。この時期は仏教や東洋の歴史などを題材として、天心の助言を受けながら、脳内に描いたイメージと実際に表現されたものとの協働で一つの作品世界を創り上げる表現を築いた。
天心が没した翌年の1914年に再興された日本美術院に参加。再興第1回院展(再興日本美術院展)に西山禾山[かさん]が曲禄に腰かけ呵呵大笑する姿をあらわした《禾山笑[かさんしょう]》(東京藝術大学)を出品し、会期半ばに同人に推挙される。この年、「平櫛田中」と改名。同年より3年間、美術研究所で中原悌二郎[ていじろう]、石井鶴三[つるぞう]らと塑造の研究に励む。1916年の第3回再興院展に出品された《裸婦倚像[らふいぞう]》(東京藝術大学)のように、塑像を木に忠実に写し取る制作を行い、西洋彫塑と日本木彫の差異を乗り越えることを試みた。
1919年、木村武山[ぶざん]と横山大観らの援助を受けて下谷区桜木44番地にアトリエを築造。このアトリエで制作された《烏有先生[うゆうせんせい]》(1919年、東京国立博物館)と《転生[てんしょう]》(1920年、東京藝術大学)において、塑造研究の成果をふまえた、たしかな構造と内部から盛り上がる量塊性の豊かな身体表現が実現された。しかし、田中において塑造は、もはや単なる技法ではなく、西洋の哲学・思想を背景とした世界認識と一体であるとの理解に至っており、日本と西洋のこの懸隔が1935年の文部大臣・松田源治による帝展松田改組の際、田中が帝展会員として彫刻部門を木彫と塑造の2部制とすることを主張することにつながったと見られる。
社寺の仕事にも多く関わり、神戸市・湊川神社に《水戸光圀像》(1955年)を造立したのをはじめ、法隆寺、中宮寺、赤穂大石神社、井原市・山中八幡神社の仏像・神像などを手がけ、1931年に鎌倉市・鶴岡八幡宮白旗社に納めた《源頼朝公像》では初めて彫刻に彩色を使用し、その後しばしば自作に彩色を施すようになった。昭和初期は、同作を含めて数多くの肖像彫刻を手がけた時期で、歴史上の人物を絵画や彫刻を参照しながら制作した《夜半翁[やはんのおきな]》(1933年、東京藝術大学)、存命中の人物を目前で写し取った写実的な《原翁間日[はらおうかんじつ]》(1940年、須坂市立博物館、長野)、両者を折衷させた表現の《浅野長勲[ながこと]公寿像》(1949年、東京藝術大学)などの優れた作品がある。
1936年、六代目尾上菊五郎をモデルとして歌舞伎の演目「春興鏡獅子」を題材とした作品《鏡獅子》の制作に着手し、1938年の再興第25回院展に《鏡獅子試作裸像》(東京藝術大学)、《鏡獅子試作頭》(小平市平櫛田中彫刻美術館)、その翌年の第26回展に《試作鏡獅子》を出品する。1939年に葛飾区本田宝木塚町[ほんでんほうきづかちょう]429にアトリエ(通称「お花茶屋のアトリエ」)を新築して、前出の試作にもとづき像高2メートルをこえる《鏡獅子》の制作に取り掛かるが、像を拡大する段階で制作が難航し、戦時中に中断される。
帝室技芸員に任命された1944年、東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科木彫部教授となる。はじめ同校では、田中が木彫、石井鶴三が塑造の教育を担当したが、1947年に石井教授排斥運動が起こり、二教室制としてそれぞれの教室で木彫と塑造が教育されることとなった。1952年までの在任中、田中は作品を鑑賞することを重視し、学生たちの研究に供するために、自作を含めた多数の彫刻作品を同校に寄贈したが、同校を退任後も追加寄贈を行い、最終的に147点に達したこれらの作品によって1966年東京藝術大学に「田中記念室」(現・彫刻展示室)が設置された。
同校を退任した1952年に《鏡獅子》(東京国立近代美術館)制作を再開し、作品が完成した1958年の再興第43回院展に出品する。《鏡獅子》を制作したお花茶屋のアトリエでは、《横綱常ノ花》(1956年、相撲博物館)、《西山逍遙》(1957年、東京国立近代美術館)、《五浦釣人[いづらちょうじん]》(1962年、茨城大学五浦美術文化研究所)のような像高2メートル前後の大作も制作された。《鏡獅子》が完成した3年後の1961年に日本美術院彫塑部が解散したが、田中は理事として残る。
1968年、東京都小平市に建築家・大江宏の設計による邸宅が完成し、1970年に転居。邸宅は、田中によって完成時の自身の数え年に因んで「九十八叟院[きゅうじゅうはちそういん]」と名付けられた。この邸宅のアトリエで伊勢の「赤福」の店主をモデルとした《五十鈴老母[いすずろうぼ]》(個人蔵)を完成させる。能書家としても知られ、晩年は「六十七十ははなたれこぞう 男ざかりは百から百から」「いまやらねばいつできる わしがやらねばだれがやる」などの魅力的な書を数多くのこした。
1979年12月30日、小平市の自宅で死去。享年107歳。1954年に文化功労者に選出されたほか、1962年に文化勲章を受章した。故郷の井原市立平櫛田中美術館(1969年開館)と終焉の地に建てられた小平市平櫛田中彫刻美術館(1984年開館)で彼を顕彰する活動が行われている。
(藤井 明)(掲載日:2023-09-27)
*解説中で所蔵先を示す作品は完成作である。
- 1973
- 平櫛田中展, 広島県立美術館, 1973年.
- 1973
- 平櫛田中展, 東京国立近代美術館, 1973年.
- 1975
- 平櫛田中展、京都市美術館、1975年
- 1977
- 百六翁 平櫛田中展, 松坂屋 (名古屋) 本店, 1977年.
- 1980
- 平櫛田中秀作展:福山市名誉市民・追悼, 福山市立福山城博物館, 1980年.
- 1981
- 森川杜園・竹内久一・平櫛田中: 近代日本の木彫: 特別展, 奈良県立美術館, 1981年.
- 1982
- 平櫛田中展: 木彫界の巨星, 東京日本橋三越美術館, 1982年.
- 1996
- Personnages De Legendes, Figures Historiques Du Japon Ancien, Sculptures Sur Bois Par Hirakushi Denchû, 1872-1979 [平櫛田中展: 生誕125年], パリ三越エトワール美術館、1996–1997年.
- 2003
- 平櫛田中の全貌展: 近代日本木彫界の最高峰, 井原市立田中美術館, 2003年.
- 2003
- 平櫛田中展:その彫塑の仕事, 台東区立朝倉彫塑館, 2003年.
- 2003
- 平櫛田中と田中賞の作家たち, 相生森林美術館, 2003年.
- 2004
- 平櫛田中のすべて, 小平市平櫛田中館, 2004年.
- 2005
- 平櫛田中と再興美術院の作家たち: 新しい日本美術の夜明け, 蘭島閣美術館, 2005年.
- 2009
- 平櫛田中展: 故郷井原, 井原市立田中美術館, 2009年.
- 2009
- 平櫛田中: 次世代に遺した珠玉の彫刻: 開館25周年・没後30年記念展: 東京芸術大学「平櫛田中記念室」への寄贈作品を中心に, 小平市平櫛田中彫刻美術館, 2009年.
- 2011
- 木彫の巨匠 平櫛田中展: 岡倉天心の心を伝承: 井原市立田中美術館・シーピー化成コレクションより, ひろしま美術館, 2011年.
- 2012
- 平櫛田中とかつしか: 近代彫刻の巨匠: 区制施行80周年記念企画展, 葛飾区郷土と天文の博物館, 2012年.
- 2012
- 平櫛田中展: ひらくしでんちゅう, ふくやま美術館, 小平市平櫛田中彫刻美術館, 三重県立美術館, 2012年.
- 2019
- 平櫛田中展: 故郷 井原: 開館40周年・没後30年, 井原市立田中美術館, 2019年.
- 2022
- 平櫛田中展: 生誕150年, 小平市平櫛田中彫刻美術館, 2022年.
- 井原市立平櫛田中美術館, 岡山県
- 小平市平櫛田中彫刻美術館, 東京
- 東京国立博物館
- 東京国立近代美術館
- 東京藝術大学大学美術館
- 広島県立美術館
- 岡山県立美術館
- 呉市立美術館, 広島県
- ふくやま美術館, 広島県
- 大分県立美術館
- 足立美術館, 島根県安来市
- 1940
- 平櫛田中「私の経歴と彫刻を語る」上『画説』第45号 (1940年9月): 813-822頁 [自筆文献].
- 1941
- 平櫛田中「私の経歴と彫刻を語る」下『画説』第50号 (1941年2月): 122-130頁 [自筆文献].
- 1958
- 「座談会 鏡獅子について: 平櫛田中氏を囲んで」『現代の眼』47号 (1958年10月): 6-8頁.
- 1964
- 平櫛田中, 野間清六(聞き手)「田中翁思い出話」『大法輪』第31巻第10号 (1964年10月): 26-39頁.
- 1968
- 「平櫛田中 小林行雄 新春対談」『現代の眼』158号 (1968年1月): 5-7頁.
- 1971
- 今泉篤男, 本間正義『平櫛田中彫琢大成』東京: 講談社, 1971年.
- 1973
- 平櫛田中『私の歩いてきた道』東京: 日本美術社, 1973年, 改訂版1974年 [自筆文献].
- 1979
- 本間正義編『平櫛田中 近代の美術, 55』(1979年11月).
- 1980
- 山陽新聞社出版局編『彫: 平櫛田中の世界』岡山: 山陽新聞社, 1980年.
- 1980
- 井原市立田中美術館編『百八歳 平櫛田中翁』[井原(岡山県)]: 井原市立田中美術館, 1980年.
- 1991
- 『平櫛田中: 中庵老人』井原(岡山県): 井原市立田中美術館, 1991年 (会場: 井原市立田中美術館) [展覧会カタログ].
- 1996
- 朝日新聞社編『平櫛田中展』東京: 朝日新聞社, 1996年 (会場: パリ三越エトワール ほか).
- 2003
- 井原市立田中美術館編『平櫛田中の全貌展: 近代日本木彫界の最高峰』井原: 井原市立田中美術館, 2003年 (会場: 井原市立田中美術館).
- 2004
- 小平市教育委員会, 小平市平櫛田中館編『平櫛田中のすべて: 小平市平櫛田中館開館20周年記念特別展』小平: 小平市平櫛田中館, 小平市教育委員会, 2004年 (会場: 小平市平櫛田中館).
- 2009
- 青木寛明編『平櫛田中展: 故郷井原』井原: 井原市立田中美術館, 2009年 (会場: 井原市立田中美術館).
- 2009
- 藤井明編『平櫛田中: 次世代に遺した珠玉の彫刻: 開館25周年・没後30年記念展』小平: 小平市平櫛田中彫刻美術館, 2009年 (会場: 小平市平櫛田中彫刻美術館).
- 2012
- ふくやま美術館, 小平市平櫛田中彫刻美術館, 三重県立美術館編『平櫛田中展: ひらくしでんちゅう』[出版地不明]: 平櫛田中展実行委員会, 2012年 (会場: ふくやま美術館, 小平市平櫛田中彫刻美術館, 三重県立美術館).
- 2012
- 『平櫛田中とかつしか: 近代彫刻の巨匠: 区制施行80周年記念企画展』東京: 葛飾区郷土と天文の博物館, 2012年 (会場: 葛飾区郷土と天文の博物館).
- 2019
- 東京文化財研究所「平櫛田中」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. (日本語) https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9556.html
- 2019
- 井原市立田中美術館編『平櫛田中 美の軌跡: 没後四〇年: 開館五〇周年記念特別展』井原: 井原市立田中美術館, 2019年 (会場: 井原市立田中美術館).
- 2022
- 本間正義(聞き手), 小平市平櫛田中彫刻美術館編『平櫛田中回顧談』東京: 中央公論新社, 2022年.
- 2022
- 藤井明企画編集『平櫛田中展: 生誕150年』[小平]: 小平市平櫛田中彫刻美術館, 2022年 (会場: 小平市平櫛田中彫刻美術館).
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「平櫛田中」『日本美術年鑑』昭和55年版(304-307頁)日本芸術院会員、文化勲章受章者の彫刻界の最長老平櫛田中は、12月30日肺炎のため東京都小平市の自宅で死去した。享年107。旧姓田中、本名倬太郎。1872(明治5)年6月30日、岡山県後月郡に生まれ、82年平櫛家の養子となる。93年中谷省古に弟子入りし木彫の手ほどきを受け95年上京し中谷の次男に伴われ高村光雲を訪れる。この頃から田仲と号す。1901年、日本美術協会展に出品した「童子歌君ヶ代」で銀牌を...
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平櫛 田中(ひらくし〈又は ひらぐし〉でんちゅう、1872年2月23日〈明治5年1月15日〉 - 1979年〈昭和54年〉12月30日)は、日本の彫刻家。本名は平櫛 倬太郎(ひらくし たくたろう)。旧姓は田中。井原市名誉市民(1958年)、福山市名誉市民(1965年)、小平市名誉市民(1972年)。男性長寿日本一の人物。
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- 2024-02-09