菱田春草

1874年、筑摩県伊那郡飯田町（現・長野県飯田市）に、旧飯田藩士・菱田鉛治［えんじ］の三男として生まれる。本名は三男治［みおじ］。父の鉛治は算術に長けたことから維新後に第百十七銀行につとめており、また兄の為吉［ためきち］は東京物理学校（現・東京理科大学）の教師、弟の唯蔵［ただぞう］は東京帝国大学工科大学（現・東京大学）の教授となっている。後に春草が理知的な構成による作画傾向をみせるのは、理系に長じた家系の影響ともいえるだろう。春草は1880年に飯田学校に入学し、1888年までの8年間を同校に学んだ。最終学年の半年間は図画教員として同校に赴任した中村不折が春草の担任をつとめている。飯田学校卒業後は画家を志して1889年に上京。結城正明の画塾で学んだ後、1890年に東京美術学校（現・東京藝術大学）に入学する。同校では思想家の岡倉天心のほか、狩野派の橋本雅邦、円山四条派の川端玉章、大和絵の巨勢小石［こせしょうせき］などから教えを受けた。校長の岡倉天心は同校において、日本の古典様式に西洋の絵画技法を加えよとする指導方針をとっていた。ここで5年間にわたる学習をおこなった春草は、教授陣から様々な古典様式を学びつつ、写実法や遠近法など西洋の絵画技法を習得していった。そして1895年にその成果として《寡婦と孤児》（東京藝術大学）を卒業制作として描く。ここで春草は大和絵や狩野派の古典様式に空間性と写実性を加えた画風を示し、また歴史画に悲劇性をあらわすという理想表現をおこなっている。同作は教授陣のあいだで論争を生んだが、天心によって最優等が与えられた。卒業後は帝国博物館の古画模写事業に参加して関西の古仏画に接し、帰京後は日本絵画協会の結成に参加しつつ、東京美術学校の教員にも就任。絵画協会の展覧会に《微笑》（1897年、東京国立博物館）や《水鏡》（1897年、東京藝術大学）を発表し、大和絵や仏画に写実性を加えた画風をみせて注目をあつめた。 1898年、東京美術学校で校長の岡倉天心を排斥する「美術学校騒動」が発生する。春草は教授陣の橋本雅邦や下村観山、横山大観らとともに連袂して同校を辞職。天心は彼らを率いて日本美術院を結成した。この当時、天心は東洋美術の写意性と西洋美術の写実性を調和させるよう説いていた。美術院においても天心に師事した春草は、この研究に着手する。そして日本画における空間性の欠如も感じていた春草は、南宋山水画を下地に空気遠近法を加える方法を試み、《秋景》（1899年、島根県立美術館）や《菊慈童》（1900年、飯田市美術博物館）を美術院の展覧会に出品。幽玄な気配とともに深遠な空間性をあらわしていく。しかしこの画風は日本美術の伝統的要素であった筆線を排除するものであり、また空間をあらわすために画面をぼかしたことから色彩が暗濁化する傾向をともなっていた。当時としては革新的にすぎるこの画風は批評界から激しい非難を受け、「朦朧体」という蔑称を与えられることになる。天心もこの傾向を問題視しており、春草に対して画面の明瞭化を指示している。そこで春草は空間表現から写実表現へと志向をあらため、院体花鳥画などの中国絵画を研究しつつ、《王昭君》（1902年、龍澤山善寳寺［ぜんぽうじ］、山形、重要文化財）や《鹿》（1903年、飯田市美術博物館）を発表。明快な色彩を獲得していくが、「朦朧体［もうろうたい］」の悪評をぬぐうことはできなかった。 このように西洋美術の技法導入を研究した春草は、はやい段階からヨーロッパへの渡航を希望し、盟友の横山大観とともに画会や地方巡遊をおこなって資金の調達を試みていた。だが「朦朧体」の悪評が災いして資金はあつまらず、渡航の目途はたたぬままであった。しかし岡倉天心の援助を得て、春草は大観とともに1903年にインド、1904年から1905年にはアメリカとヨーロッパに遊学する機会を手にする。そしてアメリカとヨーロッパではホイッスラーやターナーなどの作品に接し、その影響によって光の表現を重視する傾向にすすみ、朦朧体の画風に光の効果を加える形で《曙》（1904年、播磨屋本店、兵庫）や《夕の森》（1904年、飯田市美術博物館）などを描いた。また外遊で印象派の作品を眼にした春草は、色彩の重要性を再確認することとなり、帰国後には色彩研究に没頭していく。1906年、岡倉天心は日本美術院を茨城県五浦［いづら］へと移転させ、春草は下村観山、横山大観、木村武山とともに同地へ移住。ここで春草は頂相［ちんぞう］をベースに点描や補色の効果を駆使して《賢首菩薩》（1907年、東京国立近代美術館、重要文化財）を制作。第1回文部省美術展覧会（文展）に出品して色彩研究の成果を示すが、依然として評価は芳しいものではなかった。 この時期、春草は慢性腎臓炎に起因する網膜炎を発症している。五浦では治療も困難であったため、1908年に東京の代々木へ転居し、半年にわたる療養生活をおくった。その甲斐あって、一時は失明すら危ぶまれた病状は次第に快方へむかう。1909年、春草は第3回文展に《落葉》（永青文庫、東京［熊本県立美術館寄託］、重要文化財）を出品する。静寂な空間のなかに樹木を配した同作は、事実上の最高賞となる二等賞第一席を獲得し、鑑賞界のみならず批評界からも高い評価を受けた。この時期から春草は装飾性に関心を深め、琳派の様式へと接近していく。1910年の第4回文展には審査委員として《黒き猫》（永青文庫［熊本県立美術館寄託］、重要文化財）を出品。ここで日本美術の装飾性と西洋美術の写実性を調和させた画風をみせ、春草の画名は一層の高まりを示した。翌1911年にはさらに装飾性を強めた《早春》（個人蔵）を手がけて新たな展開をみせるが、ここで慢性腎臓炎を再発。やがて失明状態におちいり、ついに快復することなく東京府豊多摩郡代々幡村代々木（現・東京都渋谷区代々木）において満36歳11カ月の生涯を閉じた。 春草はその生涯を通じて様々な画風を研究し、後進の画家たちにも大きな影響を与えたが、日本や東洋の古典様式に西洋の絵画技法を導入するという制作姿勢は一貫していた。これは岡倉天心の指導の結果であり、天心の理念を指針として日本画の近代化を推進したのが春草の画業であったといえるだろう。また春草は自らの個性でもある静謐で理知的な作風により、多くの名作や問題作を手がけた。現在、春草の作品は4点が重要文化財に指定されているが、これは明治以降の画家としては最多となっている。 （小島 淳）（掲載日：2023-09-11）