- 作家名
- 濱田庄司
- HAMADA Shōji (index name)
- Hamada Shōji (display name)
- 濱田庄司 (Japanese display name)
- はまだ しょうじ (transliterated hiragana)
- 浜田庄司
- 濱田象二 (real name)
- 生年月日/結成年月日
- 1894-12-09
- 生地/結成地
- 神奈川県橘樹郡高津村(現・川崎市)
- 没年月日/解散年月日
- 1978-01-05
- 没地/解散地
- 栃木県芳賀郡益子
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 工芸
作家解説
民藝運動の代表的な作家で、益子焼の代名詞とも言える濱田庄司。父・久三、母・アイの長男として1894年に現在の神奈川県川崎市の母の実家・太田病院で生まれ、祖父・全象の一字をとって象二と命名された。久三は若いころ「晴山」と号して画家を志望していたというが、このころは現在の虎ノ門付近で筆を扱う商店を経営していた。濱田は4歳のときジフテリアにかかり、翌年静養のため溝口(川崎)の父の実家に移るが、この体験が田舎の魅力にひかれる契機となったようである。また書を得意とする祖父の影響で習字が得意科目であったうえに幼いころから絵を描くことが好きであったようだが、祖父も父も絵を描くことに対し寛大で、絵具やスケッチ帳は惜しみなく与えられた。
東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)在学時にはよくスケッチに出かけ雑誌にカット絵を投稿し入賞を繰り返す一方、化学や物理、高等数学の学習に熱心だった。このころ将来の道として陶芸を志す。同じころ銀座の画廊でバーナード・リーチや富本憲吉の作品を目にし、心惹かれる。同時期に父に改名させられ、雑誌投稿時の名前に一部「庄司」が見られるようになる。1913年にのちに盟友となる河井寬次郎が上級生として在籍している東京高等工業学校(現・東京工業大学)に入学すると板谷波山に学びながらしばしば波山の自宅に通ったといい、自身も使用したことのある土瓶が益子で作られた山水土瓶と呼ばれるものであることを知る。夏休みには美濃、瀬戸、常滑、万古、信楽、伊賀、九谷、京都の窯場を巡り、やきものについての知識と経験を積む。卒業後は河井が勤める京都市陶磁器試験場に入った。
濱田は「私の陶器の仕事は、京都で道を見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」(濱田庄司『無盡蔵』朝日新聞社、1974年、99頁)と残しているが、その言葉のとおり、京都の試験場で釉薬研究に明け暮れたことが濱田の陶芸家としての第一歩となっている。ここは気心の知れた河井だけでなく釉薬研究の第一人者でもある小森忍も同僚として勤務する恵まれた場所であり、週末は上京して展覧会を鑑賞することに時間を割き充実した日々を送っていた。しかし1918年のリーチの個展会場(流逸荘、東京・神田)でリーチと話し翌年には我孫子(千葉)の柳宗悦邸にあるリーチの陶房を訪ねるなど親交を深めたところ、1920年、リーチにイギリスでの作陶を強く誘われ京都市陶磁器試験場を退職し渡英することになる。イギリスではセント・アイヴスを中心に滞在し作陶。染織家エセル・メーレや彫刻家エリック・ギルと親交を結ぶことで、田舎の健康で自由な生活に強く惹かれる。1923年、ロンドンのパターソンズギャラリーで初個展。翌年フランス、イタリア、ギリシア、エジプトを経て帰国し、京都の河井寬次郎邸に2カ月滞在、年末に木村満枝(のちに和枝と改名)と結婚する。1925年、沖縄の壺屋窯で制作、このころから刷毛目や黍文の文様を使い始める。年末、柳、河井と木喰上人の日記を追って紀州を旅するが、3人で語り合ううちに「民衆の工芸」を略した「民藝」という造語を生み、翌年柳が「日本民藝美術館設立趣意書」を書き上げる。1928年に国画創作協会の富本を中心とした工芸部に河井たちと出品するようになり、民藝派の代表的存在と目され翌年には国画会正会員となる。同じころ益子の近村の農家を現在の濱田窯の位置に移築して住居とする。1931年に月刊『工藝』を創刊、一方で陶磁器研究家で陶芸家でもある小山富士夫の紹介で実業家、大原孫三郎と知り合う。1933年、初の作品集『濱田庄司陶器集』(工政会出版部)が美術評論家の青山二郎の編集によって刊行される。益子では、1934年、近隣の農家から間口九間の長屋門を移築して仕事場にし、1942年には大型登窯を築くとともに農家を移築し「上台[うえんだい]」と名付けた。1936年、国画会展で棟方志功を見出し、同年5月に朝鮮・満州を旅行、年末には前年の大原の寄付により日本民藝館を設立するなど旺盛に活動する。1939年の年の瀬に日本民芸協会同人を中心とした「琉球観光団」の一員として沖縄を訪問するが、前年よりくすぶっていた、沖縄の標準語化政策を進める県当局との対立が激化、中央の論壇も巻き込む「方言論争」が起こる。
1947年、昭和天皇が益子に行幸した際、「無名の工人」としてその絵付技術が賞賛されていた皆川マスを紹介する。1949年には第1回栃木県文化功労賞を受賞、1952年イギリス・ダーティントンにおける国際工芸家会議に出席し轆轤と絵付を実演、欧米の工芸家に強い印象を与える。同年渡米し若手陶芸家のピーター・ヴォーコスに出会う。翌年、昭和27年度芸術選奨文部大臣賞を受賞、夏には柳、河井、リーチとともに信州松本に滞在する。1955年、重要無形文化財「民芸陶器」保持者、いわゆる人間国宝に認定される。1968年、文化勲章を受章、翌年には益子名誉町民となり、1973年にロイヤル・カレッジ・オブ・アート(ロンドン)より名誉学位(Honorary Doctor of Art)を受け、1976年には川崎市文化賞を受賞するなど名声を得る。作り手としては、人間国宝となったころから塩釉の技法を用い始め、1959年10月に第2回オステンド国際陶芸展(ベルギー)に出品し銀賞受賞、1972年に『濱田庄司七十七盌譜』(日本民藝館)が刊行されている。1961年に日本民藝館館長、1970年に日本万国博覧会日本民藝館館長、1974年に日本民藝協会会長に就任している。1977年、財団法人益子参考館を開館、館長・理事長に就任。1978年1月5日午前7時、老衰と急性肺炎のため益子町道祖土[さやど]の自宅で死去、享年83歳。
(岩井 美恵子)(掲載日:2023-09-11)
- 1974
- 浜田庄司「目と手」, 栃木県立美術館, 阪神百貨店, 天満屋百貨店, 1974–1975年.
- 1977
- 浜田庄司展, 東京国立近代美術館, 1977年.
- 1981
- 浜田庄司: 陶芸・手わざの思考, 山梨県立美術館, 栃木県立美術館, 群馬県立近代美術館, 富士美術館, 大原美術館, 1981年.
- 1994
- 濱田庄司人と作品展: 生誕100年・益子と出あって75年, 陶芸メッセ・益子, 1994–1995年.
- 1994
- 濱田庄司展: 生誕百年記念, 川崎市民ミュージアム, 1994年.
- 1996
- 民藝派の名匠たち: 河井, 濱田, リーチらと共に: 山本為三郎コレクションから, 大丸心斎橋店, 大丸ミュージアム・東京, 1996年.
- 1997
- イギリス工芸運動と濱田庄司, 陶芸メッセ・益子, ふくやま美術館, 渋谷区立松濤美術館, 千葉市美術館, 1997–1998年.
- 2000
- 濱田庄司: 手仕事の軌跡: 堀尾幹雄コレクション, 大阪市立東洋陶磁美術館, 2000–2001年.
- 2008
- 濱田庄司展: 人間国宝, 川崎市市民ミュージアム, 2008年.
- 2009
- 染野夫妻陶芸コレクション: リーチ・濱田・豊蔵・壽雪, 山口県立萩美術館・浦上記念館, 東京国立近代美術館工芸館, 2009年.
- 2010
- 濱田庄司展: 人間国宝, 茨城県陶芸美術館, 2010年.
- 2010
- 知られざる濱田庄司: こびない、さびない、濱田イズム: 大阪市立東洋陶磁美術館所蔵堀尾幹雄コレクション, 栃木県立美術館, 2010年.
- 2011
- 濱田庄司スタイル: 理想の暮らしを求めて, パナソニック電工汐留ミュージアム, 益子陶芸館, 2011–2012年.
- 2014
- 生誕120年記念濱田庄司展, 日本民藝館, 2014年.
- 2014
- 生誕120年記念: 濱田庄司七十七盌展: 大阪市立東洋陶磁美術館所蔵 堀尾幹雄コレクションを中心として, 益子陶芸美術館, 2014年.
- 2016
- 人間国宝濱田庄司: 「健かな美」, 福井県陶芸館, 2016年.
- 2017
- 没後40年濱田庄司展: 山本爲三郎コレクションより, アサヒビール大山崎山荘美術館, 益子陶芸美術館, 2017–2018年.
- 2018
- 濱田庄司展: 没後40年: 大阪市立東洋陶磁美術館 堀尾幹雄コレクションを中心に, 世田谷美術館, 2018年.
- 2018
- 民藝と壺屋焼: その影響と現在: 那覇市立壺屋焼物博物館開館20周年記念: 河井寛次郎・濱田庄司来沖100周年記念: 平成30年度那覇市立壺屋焼物博物館特別展, 那覇市立壺屋焼物博物館, 2018年.
- 2019
- 小森忍・河井寛次郎・濱田庄司: 陶磁器研究とそれぞれの開花, 江別市セラミックアートセンター, 瀬戸市美術館, 益子陶芸美術館, 東京工業大学博物館, 2019–2020年.
- アサヒグループ大山崎山荘美術館, 京都府
- 茨城県陶芸美術館
- 大阪市立東洋陶磁美術館
- 川崎市市民ミュージアム, 神奈川県
- 京都国立近代美術館
- 国立工芸館, 石川県金沢市
- 栃木県立美術館
- 日本民藝館, 東京
- 濱田庄司記念益子参考館, 栃木県
- 益子陶芸美術館, 栃木県
- 1961
- 『浜田庄司作品』東京: 日本民芸協会, 1961年.
- 1966
- 柳宗悦編『濱田庄司作品集』東京: 朝日新聞社, 1966年.
- 1969
- 『濱田庄司陶器集: 自選』東京: 朝日新聞社, 1969年.
- 1972
- 『濱田庄司七十七盌譜』東京: 日本民芸館, 1972年.
- 1974
- 濱田庄司『無盡蔵』東京: 朝日新聞社, 1974年 (『無盡蔵 講談社文芸文庫』東京: 講談社, 2000年) [自筆文献].
- 1975
- 水尾比呂志編『河井寛次郎・濱田庄司・バーナード・リーチ 現代の陶芸: 第3巻』東京: 講談社, 1975年.
- 1976
- 濱田庄司『窯にまかせて』東京: 日本経済新聞社, 1976年 [自筆文献].
- 1977
- 水尾比呂志編著『浜田庄司 日本のやきもの: 現代の巨匠: 7』東京: 講談社, 1977年.
- 1977
- 岡田譲 [ほか]編『浜田庄司: 民芸陶器 人間国宝シリーズ: 2』東京: 講談社, 1977年.
- 1977
- 杉村恒写真『陶工: 濱田庄司』東京: 実業之日本社, 1977年.
- 1977
- 乾由明編『イサム=ノグチ・熊倉順吉・山田光・三輪龍作・荒木高子・佐藤敏・宮永理吉・柳原睦夫・中村錦平・坪井明日香・里中英人・石山駿・鯉江良二・藤田昭子・速水史朗・久世建二・森野泰明・三島喜美代・林康夫・沢田重雄・加藤整治・林秀行・伊藤公象 現代の陶芸: 第16巻』東京: 講談社, 1977年.
- 1978
- 水尾比呂志責任編集『益子参考館: 浜田庄司蒐集』全3巻, 東京: 学習研究社, 1978-1979年.
- 1978
- 杉村恒写真『益子の父 人間国宝 濱田庄司』東京: 講談社, 1978年.
- 1979
- 水尾比呂志『現代の陶匠』京都: 芸艸堂, 1979年.
- 1981
- 吉田耕三責任編集『浜田庄司 現代日本陶芸全集: やきものの美: 7』東京: 集英社, 1981年.
- 1997
- 中ノ堂一信『近代日本の陶芸家』京都: 河原書店, 1997年.
- 2005
- 今泉篤男執筆『工芸館の作家たち: 濱田庄司, バーナード・リーチ, 富本憲吉, 河井寛次郎, 棟方志功, 芹沢銈介 大原美術館: 5』大原美術館編. 倉敷: 大原美術館, 2005年.
- 2008
- 大阪市立東洋陶磁美術館編『濱田庄司: 大阪市立東洋陶磁美術館所蔵・堀尾幹雄コレクション』大阪: 大阪市美術振興協会, 2008年.
- 2008
- 川崎市市民ミュージアム編『濱田庄司展: 人間国宝』東京: 美術館連絡協議会, 2008年 (会場: 川崎市市民ミュージアム, 茨城県陶芸美術館).
- 2019
- 東京文化財研究所「浜田庄司」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9539.html
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「浜田庄司」『日本美術年鑑』昭和54年版(268-271頁)陶芸家、重要無形文化財技術保持者(人間国宝)、文化勲章受章者の浜田庄司は、1月5日急性肺炎のため栃木県芳賀郡の自宅で死去した。享年83。本名象二。明治27年12月9日神奈川県橘樹郡で生まれ、東京府立一中在学時から工芸へ関心を寄せ板谷波山を尊敬し、波山が教鞭をとる東京高等工芸学校窯芸科に入学、大正5年卒業した。同年、在学中識った先輩河井寛次郎が在職する京都陶磁器試験場に入り、河井とともに主に釉法の研...
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濱田 庄司(はまだ しょうじ、1894年(明治27年)12月9日 - 1978年(昭和53年)1月5日、本名象二)は、主に昭和に活躍した日本の陶芸家。次男の濱田晋作、三男の濱田篤哉、孫(晋作の次男)の濱田友緒はいずれも陶芸家、四男の濱田能生は硝子工芸家。
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- 2024-02-09