A1765

長谷川潔

| 1891-12-09 | 1980-12-13

HASEGAWA Kiyoshi

| 1891-12-09 | 1980-12-13

作家名
  • 長谷川潔
  • HASEGAWA Kiyoshi (index name)
  • Hasegawa Kiyoshi (display name)
  • 長谷川潔 (Japanese display name)
  • はせがわ きよし (transliterated hiragana)
生年月日/結成年月日
1891-12-09
生地/結成地
神奈川県横浜市(現・神奈川県横浜市西区)
没年月日/解散年月日
1980-12-13
没地/解散地
フランス、パリ
性別
男性
活動領域
  • 版画

作家解説

長谷川潔は、1891年(明治24)12月9日横浜(現・西区御所山)に生まれた。父は、日本初の民間銀行を創設した渋沢栄一に認められて、第一国立銀行の横浜支店支配人をつとめる一方、書画骨董を愛でる文人でもあった。父の薫陶によって、論語の素読や書の手本とした拓本の墨色に親しんだことは、長谷川の美的感受性を育むこととなる。満11歳で父を、満17歳で母を亡くした後、葵橋洋画研究所で黒田清輝にデッサンを、本郷洋画研究所で岡田三郎助と藤島武二に油絵を学ぶ。 1912年頃から自画自刻の木版画制作を始め、翌1913年から1915年まで文学同人誌『聖盃』(のち『仮面』と改題、中興館)の表紙絵を永瀬義郎とともに手がける。1914年から1917年にかけては短歌雑誌『水甕[すいよう]』に木版画の表紙絵を提供する。1916年わが国初の版画家団体「日本版画倶楽部」を永瀬義郎、広島新太郎(晃甫[こうほ])とともに結成し、創作版画展を開催した。《風(イェーツの詩に寄す)》(1915年、京都国立近代美術館ほか)、《牧神の午後(ステファン・マラルメの牧歌)》(1916年、横浜美術館ほか)といった清新な木版画作品は、恩地孝四郎らが詩と版画の同人誌『月映[つくはえ]』に発表した作品群と並び、創作版画草創期の豊かさを示している。 渡仏(1918年)前の長谷川が、木版画の独自技法を試していたことも注目に値する。《種子草》(1916年、京都国立近代美術館)に代表される紺紙金摺[こんしきんずり]は、平安時代後期にさかのぼる装飾経にヒントを得た技法であり、本の装幀にも使っている。一方、《海岸の出帆船》(1918年、横浜美術館)を典型とするぼかし摺は、江戸浮世絵の葛飾北斎や歌川国虎が用いた技法であり、長谷川はその立体感の表現に着目して自らの作品に取り入れている。日本における長谷川の仕事が頂点に達したのは、日夏耿之介[こうのすけ]の第一詩集『転身の頌』(光風館書店、1917年)の装幀・挿画である。日夏と長谷川は、ともに神秘的なものに惹かれる傾向を共有しており、二人の詩と画が響き合って生まれた同書は、大正期における美本として名高い。 銅版画については、師・岡田三郎助および来日したバーナード・リーチから手ほどきを受けつつ、小品を試作するも、銅版画を本格的に学ぶため渡仏を決意する。アメリカを経由して1919年4月フランスに到着した長谷川は、南仏で静養しながら木口[こぐち]木版画や油彩画の制作を続ける中で、当時廃[すた]れていた銅版技法マニエール・ノワール(メゾチント)の再興を志すようになる。道具を探し古い技法書を読みあさる試行錯誤の末、1925年パリのヌーヴェル・エソール画廊での初個展でマニエール・ノワールによる風景画を発表した。伝統的な細粒点刻下地ではなく、自ら編み出した交差線下地を用い、明暗のコントラストを単純化したまったく新しいマニエール・ノワールの風景画は、パリ画壇での長谷川の評価を一気に高めた。 1926年サロン・ドートンヌの版画部会員に選ばれ、1930年にはパリの装飾美術館で開かれた第1回「航空と美術」国際展に《アレキサンドル三世橋とフランスの飛行船》(マニエール・ノワール)など銅版画数点を出品して航空大臣一等賞を受賞した。日本版画協会のパリ代表および文部省嘱託として開催に尽力した「日本現代版画とその源流」展(1934年、装飾美術館、パリ)が大成功を収め、長谷川は翌年フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を授与された。同じころ7年の歳月を費やして刊行された豪華限定本・仏訳『竹取物語』(パリ:リーブル・ダール協会、1933年、京都国立近代美術館ほか)に寄せた50点近い挿画の数々は、長谷川が、極めることの難しい最古の銅版技法ビュラン(エングレーヴィング)にも秀でていることの証[あかし]である。日本での作品発表は1930年から春陽会、1932年からは日本版画協会展も加わって、1969年まで断続的に行われている。 1939年第二次世界大戦が勃発し、在仏日本人画家のほとんどが帰国の道を選んだが、長谷川はパリにとどまり続けた。困難な日々の中で、樹木が語りかけてきた啓示的な体験から、木の肖像画とも言える《一樹(ニレの木)》(1941年、ドライポイント、横浜美術館ほか)が制作された。自然界に存在するすべてのものが等価であり、波長を合わせれば聞こえてくる万物の音というものがあることを悟り、長谷川の作画姿勢は大きく変化することとなる。 大戦末期に在留日本人として収容所に収監され、心身ともに大きな打撃を受けた長谷川だが、戦後も、樹木や窓、草花を主題とする銅版画(ビュラン、エッチングなど)の制作を続けた。しかし、1950年代後半からはマニエール・ノワールによる静物画に専心する。技法は交差線下地から伝統的な細粒点刻下地へと変化し、銅板の下地づくりにも油性インクの調合にも様々な工夫を凝らして、「墨に五彩あり」(中国唐時代の水墨画に関する名言)と言うにふさわしいグラデーションを備えた、完成度の高い作品を生み出していく。それぞれが意味を持つ小鳥や砂時計、人形、ガラスの球体や蔦の葉などのモチーフが、厳密な画面構成の中に配されるようになる。こうしたマニエール・ノワールの静物画は、長谷川の自然や宇宙をめぐる思索を映し出したものである。若いころ惹かれたムンクやルドンが神秘的光景を描いたのに対し、長谷川は「白昼に神を視る」、つまり地球上の目に見える世界を静物画に描くことで見えない世界(自然の声や宇宙のリズム)を表現している(長谷川潔『白昼に神を視る』白水社、1982年、12頁、14頁)。漆黒の背景の中から、モチーフが立体的に浮かび上がり、静謐で深みのある世界を現出させたマニエール・ノワール作品は、遅まきながら母国日本でも高い評価を受けるようになった。 フランスにおいては、1953年ルーヴル美術館版画部カルコグラフィー部門が、長谷川のビュランによる草花図2点の原版を買い上げ、藤田嗣治と並んで後刷り作品が同館で販売される。1964年フランス学士院芸術アカデミーのコレスポンダン会員に選出され、1966年フランス文化勲章を受章した。1972年フランス国立貨幣賞牌鋳造局が、葛飾北斎、藤田嗣治に次いで3人目の日本人画家として長谷川の肖像メダルを発行するなど、多くの栄誉に輝くこととなった。 長谷川潔の名を世に知らしめたマニエール・ノワール作品は、戦前戦後を通して67点を数える。一方、面を表すマニエール・ノワールに対して、ビュランやドライポイント、エッチングといった線の技法による長谷川の銅版画はおよそ180点に及び、その凛とした線描を特長とする清澄な風景画や静物画は、もっと注目され評価されてよい。マニエール・ノワールの名作《草花とアカリョム》、《静物画 時》(ともに1969年、京都国立近代美術館ほか)、《横顔》(1970年、横浜美術館ほか)を集中的に制作したあと、1926年から刷師として長谷川を支えたカミーユ・ケンヴィルが急逝し、《水浴の少女と魚》(1971年、ドライポイント、横浜美術館ほか)が最後の作品となった。1980年6月–8月、10年近い準備期間を経て自選による回顧展が京都国立近代美術館で開催されたが、来日はかなわず、長谷川潔は12月13日パリで永眠した(享年89)。 (猿渡 紀代子)(掲載日:2023-09-11)

1958
在仏長谷川潔創作銅版画展, 中央公論画廊, 1958年.
1980
長谷川潔展: 銅版画の巨匠, 京都国立近代美術館, 1980年.
1990
三巨匠: 荻須高徳, 長谷川潔, 藤田嗣治展: 小野光太郎コレクション, 名古屋三越栄本店, 日本橋三越本店, 三越大阪店, 三越札幌店, 三越広島店, 三越横浜店, 1990–1991年.
1991
長谷川潔の世界 : 生誕100年記念展, 横浜美術館, 1991年.
1993
長谷川潔展: パリに生きた銅版画の巨匠: 版画・油彩・デッサンを中心に, 東京都庭園美術館, 1993年.
2006
銅版画家 長谷川潔 作品のひみつ, 横浜美術館, 2006年.
2022
長谷川潔 1891–1980 展: 日常にひそむ神秘, 町田市立国際版画美術館, 2022年.

  • 京都国立近代美術館
  • 東京国立近代美術館
  • 横浜美術館
  • 町田市立国際版画美術館, 東京
  • 東京藝術大学大学美術館
  • フランス国立図書館

1972
『長谷川潔 現代版画』東京: 筑摩書房, 1972年.
1981
『長谷川潔版画作品集』東京: 美術出版社, 1981年.
1982
長谷川仁, 竹本忠雄, 魚津章夫編『白昼に神を視る』東京: 白水社, 1982年.
1983
長谷川仁編『長谷川潔ブックワーク』三鷹: 形象社, 1983年.
1991
横浜美術館編『長谷川潔の世界: 生誕100年記念展』東京: 朝日新聞社, 1991年 (会場: 横浜美術館).
1997
猿渡紀代子『長谷川潔の世界 横浜美術館叢書』上・中・下. 横浜: 有隣堂, 1997-1998年.
1998
À propos de l'œuvre gravé de Kiyoshi Hasegawa (1891-1980) = 長谷川潔版画作品をめぐって. [exh. cat.], Paris: Fondation Taylor, 1998 (Venue: Fondation Taylor).
1999
魚津章夫編著『長谷川潔の全版画』東京: 玲風書房, 1999年. 第2版2000年 [カタログ・レゾネ].
2003
京都国立近代美術館編『長谷川潔作品集: 京都国立近代美術館所蔵』京都: 光村推古書院, 2003年.
2006
猿渡紀代子, 沼田英子『銅版画家長谷川潔作品のひみつ』横浜美術館企画・監修, Stanley N. Anderson訳. 京都: 玲風書房, 2006年 (会場: 横浜美術館) [展覧会カタログ].
2019
東京文化財研究所「長谷川潔」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. (日本語) https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9970.html

日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art

パリ在住の銅版画家長谷川潔は、12月13日パリ市の自宅で老衰のため死去した。享年89。長谷川は、1891(明治24)年12月9日横浜市に生まれ、麻布中学卒業後、1911年頃黒田清輝の葵橋洋画研究所に入り素描を学んだのち、本郷洋画研究所で岡田三郎助、藤島武二に油絵を学ぶ。ついで13年から自画自刻による創作板目木版画や木口木版画、銅版画の制作を始め、同人となった文学雑誌「聖盃」(のち「仮面」と改題)や...

「長谷川潔」『日本美術年鑑』昭和56年版(267-275頁)

Wikipedia

長谷川 潔(はせがわ きよし、1891年(明治24年)12月9日 - 1980年(昭和55年)12月13日)は、神奈川県横浜市出身の版画家。日本およびフランスの両国で活動した。1918年(大正7年)にフランスへ渡り、様々な銅版画の技法を習熟。特にメゾチント(マニエール・ノワールとも)と呼ばれる古い版画技法を復活させ、独自の様式として確立させたことで有名。渡仏して以来、数々の勲章・賞を受けたが、一度も帰国せずにパリで没した。

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VIAF ID
44307213
ULAN ID
500042767
AOW ID
_00113913
Benezit ID
B00084344
Grove Art Online ID
T036826
NDL ID
00007944
Wikidata ID
Q1279685
  • 2024-03-01