- 作家名
- 橋本雅邦
- HASHIMOTO Gahō (index name)
- Hashimoto Gahō (display name)
- 橋本雅邦 (Japanese display name)
- はしもと がほう (transliterated hiragana)
- 橋本千太郎 (birth name)
- 橋本長郷 (real name)
- はしもと ながさと (real name)
- 勝園雅邦 (art name)
- しょうえん ただくに
- 木雁斎 (art name)
- 克己斎 (art name)
- 酔月画生 (art name)
- 生年月日/結成年月日
- 1835-08-21(天保6年7月27日)
- 生地/結成地
- 江戸木挽町(現・東京都中央区銀座)
- 没年月日/解散年月日
- 1908-01-13
- 没地/解散地
- 東京府
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
作家解説
天保6年7月27日(太陽暦では1835年8月21日)、松平周防守[すおうのかみ]家に仕える絵師・橋本晴園養邦[せいえんおさくに]の子として、江戸木挽町狩野晴川院養信[かのうせいせんいんおさのぶ]邸内に生まれる。幼名・千太郎、のち長郷[ながさと]。勝園雅邦[しょうえんただくに]と号す。別号に木雁斎[もくがんさい]、克己斎[こっきさい]、酔月画生[すいげつかせい]などがある。7歳頃から父に学び始め、1845(弘化2)年4月18日、父の師である木挽町画所の当主・狩野晴川院養信に入門。狩野芳崖も同日の入門だった。すでに病身だった晴川院が5月19日に沒したため、雅邦は晴川院に触れることなくその子である狩野勝川(のちの勝川院)雅信[ただのぶ]の門下となる。1847(弘化4)年、両親を相次いで失い、師家の用人である三浦治作のもとで養育される。最初期の作例に「長郷十四歳筆」落款の《虫狩》(所在不明)、「長郷十五歳筆」落款の《布袋図》(個人蔵)が知られる。1857(安政4)年、木挽町狩野家内の塾頭となり、狩野芳崖、狩野勝玉、木村立嶽[りつがく]とともに勝川院門下の四天王と称される。1860(万延元)年、勝川院より独立を許され、池田播磨守の家臣・高田藤左衛門の娘とめ子と結婚、木挽町狩野邸内に一家を構える。1866(慶応2)年、主君・松平周防守が川越に転封となったのに伴い、川越藩士となるも、1871(明治4)年の廃藩置県により禄を失う。
社会の価値観が大きく揺らいだ文明開化期は狩野派の画家としては食べていけず、同年、兵部省海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)に勤務する。1872(明治5)年、大火により木挽町狩野邸内が類焼、家財を失い、土橋内の旧日向飫肥[ひゅうがおび]藩主の屋敷内に間借り、のち采女町の伊藤閑斎邸内に居住する。また、1868(慶応4)年の上野戦争の際に妻子を木挽町狩野家の埼玉の知行地に疎開させるも、同地の動乱を経験した妻が帰京後徐々に精神を病み、その看護にも苦労する。
明治10年代の不遇な時期には油彩画を制作しているが、国粋主義の台頭により日本文化が見直されるようになると、雅邦にも転機が訪れる。1882(明治15)年、官営の展覧会である第1回内国絵画共進会に《琴棋書画》(銀印主席[得宣]、MOA美術館、静岡)、《李白観瀑図》(水野美術館、長野)、《竹に鳩》(宮内省御用、皇居三の丸尚蔵館、東京)を出品、この頃から画名が知られるようになる。1883(明治16)年、第1回パリ日本美術縦覧会に《鷺鶿図》(所在不明)を出品、翌年の第2回パリ日本美術縦覧会には《農家の秋景》、《山水》、《白鷺》(いずれも所在不明)を出品する。また同年の第2回内国絵画共進会に《山水八仙》、《獣》(いずれも所在不明)を出品、銀印を受ける。
1884(明治17)年、フェノロサや岡倉天心らが主導する鑑画会が結成され、ほどなく雅邦も多くの画家の1人として参加、新時代に相応しい日本画を研究し、翌年の鑑画会第1回大会に《毘沙門天図》(フィラデルフィア美術館)、《山駅秋色》(三等褒状、所在不明)を出品する。1886(明治19)年には海軍省兵学校を辞職、より絵画研究を進め、同年の鑑画会第2回大会に出品した《弁天之図》(ボストン美術館)は二等褒状を得る。この頃の雅邦は、フェノロサの指導のもと、皴法[しゅんぽう]など従来の強い線描を控えるとともに西洋の遠近法や明暗法を取り入れた日本画表現を試行し、その名声は芳崖とともにますます高まってゆく。
1888(明治21)年、東京美術学校(現・東京藝術大学)雇となり、翌年の同校開校に際して教諭に任じられ(1890[明治23]年教授)、第1期生の横山大観、菱田春草、下村観山をはじめとする多くの後進を育てる。雅邦は粉本主義には否定的であったが古画学習は奨励したといわれ、自身の作品にも雪舟や雪村といった室町水墨画の学習の痕跡がしばしばうかがえる。1890(明治23)年、第3回内国勧業博覧会に《秋景山水》(のちに《白雲紅樹》、東京藝術大学、重要文化財)を出品し、妙技一等賞を受賞。同年に創設された帝室技芸員に任命され、名実ともに狩野派系日本画家の第一人者となる。1893(明治26)年、シカゴ・コロンブス世界博覧会に《山水図》(東京国立博物館)を出品。1895(明治28)年、第4回内国勧業博覧会に《釈迦十六羅漢図》(個人蔵)、《龍虎》(静嘉堂文庫美術館、東京、重要文化財)を出品、特に水墨画の主要画題である龍虎図を着彩画とした《龍虎》の斬新な表現は物議を醸した。1896(明治29)年からは毎年春秋に開催された日本絵画協会絵画共進会の審査員を務め、《竹林雀猫之図》(のちに《竹林猫》、1896[明治29]年、東京国立博物館)、《臨済一喝》(1897[明治30]年、個人蔵)などの新機軸の出品作で話題を集めた。
1898(明治31)年、いわゆる美術学校騒動により岡倉天心が東京美術学校を辞職すると、他の教員らと連名辞職声明を表明し、同校を依願免官となる。同年、天心らと私設の美術研究機関である日本美術院の創設に参画、主幹となり、日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会の審査員、院内に発足した絵画研究会の指導など、主導的役割を果たす。明治30年代には画宝会、生輝会といった支援者による雅邦愛好団体が発足し、各会主催の個展が頻繁に開催されたことも特筆に値する。
1903(明治36)年、第5回内国勧業博覧会に《瀟湘八景図》(逸翁美術館、大阪)を出品。また、1900(明治33)年のパリ万国博覧会に出品された《龍虎図》(皇居三の丸尚蔵館)は銀牌を受賞、1904(明治37)年のセントルイス万国博覧会に《林澗残照》(駿府博物館、静岡)、《蓬莱朝陽》(佐野市立吉澤記念美術館、栃木)、《紅葉白水》(ウッドワン美術館、広島)など額6面、《春浦秋林》、《烟雲積雪》の六曲一双屏風2点(どちらも個人蔵)を出品し、最高名誉賞を受賞するなど、日本を代表する画家として国際的にも高く評価された。
晩年は徐々に体調を崩し、1905(明治38)年に老齢を理由に日本美術院主幹を辞職、1907(明治40)年の第1回文部省美術展覧会(文展)第1部(日本画)では審査委員に任命されるが病気のため辞退する。1908(明治41)年1月2日、木挽町狩野家の家法に則り門弟を集めて「新年試筆」(書初め式)を行い、この時試筆した2枚の宝珠三顆が絶筆となる。同年1月13日、本郷区龍岡町の自邸にて死去。享年74(数え年)。
(折井 貴恵)(掲載日:2023-09-26)
- 1899
- 第一回橋本雅邦翁絵画展覧会, 梅川楼, 主催: 画宝会, 1899年.
- 1899
- 第一回橋本雅邦翁絵画展覧会, 生池院, 長蛇亭, 主催: 生輝会, 1899年.
- 1900
- 第二回橋本雅邦翁絵画展覧会, 梅川楼, 主催: 画宝会, 1900年.
- 1901
- 第三回橋本雅邦翁絵画展覧会, 梅川楼, 主催: 画宝会, 1901年.
- 1902
- 第四回橋本雅邦翁絵画展覧会, 日本美術協会, 主催: 画宝会, 1902年.
- 1910
- 橋本雅邦追善遺墨展覧会, 日本美術協会, 1910年.
- 1920
- 橋本雅邦翁遺墨展覧会, 東京美術学校, 1920年.
- 1956
- 橋本雅邦名幅展, 渋谷東横, 1956年.
- 1957
- 橋本雅邦名作展, 東京国立博物館, 1957年.
- 1963
- 橋本雅邦名作展, 日本橋三越, 1963年.
- 1990
- 橋本雅邦: その人と芸術: 特別展, 山種美術館, 1990年.
- 1992
- 白雲紅樹: 重要文化財: 特別展観, 東京藝術大学藝術資料館, 1992年.
- 2008
- 没後100年 橋本雅邦, 川越市立美術館, 2008年.
- 2013
- 狩野派と橋本雅邦: そして近代日本画へ: 特別展, 埼玉県立歴史と民俗の博物館, 2013年.
- 東京国立博物館
- 山種美術館, 東京
- 東京藝術大学大学美術館
- 埼玉県立近代美術館
- 三の丸尚蔵館, 東京
- ボストン美術館
- 松岡美術館
- 泉屋博古館東京
- 山崎美術館
- 川越市立美術館
- 1889
- 橋本雅邦「木挽町画所」『國華』第3号 (1889年12月): 15-20頁.
- 1890
- 今泉雄作「橋本雅邦」『國華』第7号 (1890年4月): 8-9頁.
- 1901
- 『雅邦全集』第一. 東京: 日本美術院, 1901年.
- 1903
- 『雅邦翁画集』京都: 山田芸艸堂, 1903年.
- 1904
- Kobayashi Seiichirō『Hashimono Gaho, one of the Greatest Artists of Japan』Tokyo: Fukyusha, 1904.
- 1908
- 『雅邦翁紀念号 日本美術』第109号 (1908年3月). 東京: 日本美術社.
- 1910
- 橋本秀邦[ほか]編『雅邦集』全3巻, 東京: 日本美術社, 1910-1911年.
- 1913
- 『雅邦大観』全12巻, 東京: 画報社, 1913-1914年.
- 1917
- 塩田力蔵編『雅邦神髄』東京: 美術研精会, 1917年.
- 1920
- 『雅邦傑作集 美術画報』43編巻7 (1920年5月).
- 1920
- 橋本基編『雅邦素画集』[東京]: 雅邦素画集刊行会, 1920年.
- 1920
- 橋本秀邦編『雅邦草稿集』東京: 南陽堂, 1920年.
- 1920
- 梅澤精一『芳崖と雅邦』東京: 純正美術社, 1920年.
- 1920
- 橋本秀邦編『雅邦遺墨集』乾坤, 東京: 南陽堂本店, 1920-1921年.
- 1921
- 穴原栄治郎編『我憶雅邦』[出版地不明]: 精芸出版(印刷), 1921年.
- 1932
- 上村益郎, 高見沢忠雄編『芳崖・雅邦 近世日本画大観: 第12巻』東京: 高見沢木版社出版所, 1932年.
- 1933
- 橋本秀邦監修『雅邦集』全7巻, 東京: 座右宝刊行会, 1933-1936年.
- 1990
- 「橋本雅邦特集」『三彩』516号 (1990年9月): 8-43頁.
- 1992
- 野地耕一郎編『橋本雅邦 週刊アーティストジャパン』第18号 (1992年). 東京: 同朋舎.
- 2003
- 塩谷純「“理想画”への道程: 橋本雅邦《龍虎》以後」『美術研究』第377号 (2003年2月): 1-29頁.
- 2008
- 川越市立美術館編『橋本雅邦: 没後100年: 開館5周年記念特別展 小江戸文化シリーズ: 2』川越: 川越市立美術館, 2008年 (会場: 川越市立美術館).
- 2018
- 田中純一朗「橋本雅邦《四聖像》考: 井上円了思想とその絵画化について」『美術研究』第424号 (2018年3月): 29-46頁.
Wikipedia
橋本 雅邦(はしもと がほう、男性、天保6年7月27日(1835年8月21日) - 明治41年(1908年)1月13日)は、明治期の日本画家。本名は長郷。幼名は千太郎。号は勝園。別号に、十雁斎、克己斎、酔月画生など。
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- 2024-03-08