A1760

橋本関雪

| 1883-11-10 | 1945-02-26

HASHIMOTO Kansetsu

| 1883-11-10 | 1945-02-26

作家名
  • 橋本関雪
  • HASHIMOTO Kansetsu (index name)
  • Hashimoto Kansetsu (display name)
  • 橋本関雪 (Japanese display name)
  • はしもと かんせつ (transliterated hiragana)
  • 橋本関一 (real name)
  • 橋本貫一
  • はしもと かんいち
  • 橋本成常 (birth name)
生年月日/結成年月日
1883-11-10
生地/結成地
兵庫県神戸市
没年月日/解散年月日
1945-02-26
没地/解散地
京都府京都市
性別
男性
活動領域
  • 絵画

作家解説

1883(明治16)年11月10日神戸市中央区楠町に橋本海関(1852–1935)、フジの長男として生まれる。幼名は成常、のち関一と改める。祖父の文水は明石藩の儒者であり、父・海関も儒学者として明石藩に仕え漢詩や書画に精通し、維新後は兵庫県師範学校や神戸中学校の教諭を務めた。漢文の著作や西洋文化文明に関する啓蒙書の中国語訳も多く手掛け、自邸には中国の政治家や学者、朝鮮人、西洋人が多く出入りしていた。関雪の漢学の素養はこのような環境のもと育まれた。母フジも松渓と号して書画をたしなむ教養人であったが、関雪が5歳の頃に橋本家を去っている。 1895(明治28)年、湊川尋常高等小学校を中退し本格的に絵を学ぶため、神戸、平野村(現・兵庫区)に住む四条派の画家・片岡公曂[かたおかこうこう]に師事した。同年、京都で開催された第4回内国勧業博覧会で席上揮毫を披露し評判となる。最も初期の作品として知られているのは《静御前》(1896年、個人蔵)で、弱冠13歳にして高い技術を習得していたことを示している。1898(明治31)年、絵画修業のために上京するも翌年帰郷、その後父の経済上の破綻により家を失い、自活を余儀なくされ、明石や高砂、姫路などの素封家宅に逗留し画作を続けながら播州地方を放浪する生活を送った。 1903(明治36)年、光村印刷の創業者である神戸の富豪、光村利藻[みつむらとしも]の紹介により竹内栖鳳[せいほう]の画塾・竹杖会に入門し四条派を本格的に学び研鑽を積んだ。1905(明治38)年日露戦争に従軍、このときの体験をもとにした作品が1908(明治41)年の第2回文部省美術展覧会(文展)で初入選した《鉄嶺城外の宿雪》(所在不明)であった。 第1回文展には落選するも第2回展以降は連続して入選し、第3回展では、杜甫の詩「江南逢李亀年」の詩に着想した《失意》(1909年、京都国立近代美術館)、第4回展では白居易の同名の詩による《琵琶行》(1910年、白沙村荘 橋本関雪記念館、京都)が入選するなど次第に頭角を現した。日本画の第一科(旧派)と第二科(新派)が設けられた第6回文展へは両方に作品を送り、第一科では《松下煎茗》(所在不明)、第二科では《後醍醐帝》(1912年、福田美術館、京都)がそれぞれ入選を果たすなど表現領域の広さを示した。その後も文展や帝展(帝国美術院展覧会)に大作を発表、高い技術に裏打ちされた写実的で優れた色彩感覚を示す大作が次々と生み出され、画壇における地位は確かなものとなった。1916(大正5)年には銀閣寺近くに白沙村荘と号する画室兼自宅(現・白沙村荘 橋本関雪記念館)を建設し、終生制作の拠点となった。 1913(大正2)年に初めて中国を旅行、その魅力に取り憑かれた関雪は以後頻繁に大陸を訪れた。訪中回数は60回を超え、各地の風物や故事を作品の主題として取り上げるほか、一時は膨大な数に上ったという文物の蒐集や白沙村荘の造園を中国の庭園に倣うなど中国の自然や歴史文化へ傾倒した。 《南国》(1914年、姫路市立美術館)は初めての中国旅行での瑞々しい感動があらわれた大作で、陽光に輝く揚子江上を行きかう色とりどりの帆船と船上で力強く船を漕ぐ人夫たちを、鮮烈な色彩と金箔や金泥を用いて描いている。関雪は本作について、印象派の画風を斟酌して描いたと述べており、30歳代前半にして両洋の芸術を見据えていたことがうかがわれる。 1919(大正8)年、帝国美術院展覧会(帝展)の開設にあたり審査委員となる。第1回帝展へ出品した《郭巨》(1919年、京都国立近代美術館)は中国の『二十四孝』から取材したものだが、三幅対の形式、陰影をつけた人物表現、子供を抱く母親の図像などから西洋の聖母子像へ関連が指摘されている。 1921(大正10)年4月から12月まで、長男・節哉を伴いヨーロッパを旅行、欧州各地での美術体験は関雪をさらに日本画、東洋画に対する確信へと向かわせることになった。関雪はかねてより中国に源流をもつ南画に深く傾倒し、南画を多く描いたが、ここに至り南画への確信は確固たるものになった。明治末から大正期に再評価の機運が高まり「新南画」とよばれた新しい南画が登場したが、関雪はこの傾向を推進した一人であった。 関雪は後期印象派など同時代の西洋画家を中国や日本の画家にひきつけて解釈し、著書『南画への道程』(中央美術社、1924年)では、南画は表現主義であると主張、東洋画の優位を説いた。関雪の南画論は豊子愷(1898-1975)など20世紀中国大陸の美術家、理論家たちに大きな影響を与えた(註)。渡欧後関雪は南画に関する著作を集中的に出版しており、江戸期の南画家浦上玉堂を高く評価し、著作『玉堂琴士遺墨集』(文星堂写真部、1924年)は近代における玉堂評価の嚆矢となった。 大陸と日本を頻繁に行き来した関雪は、呉昌碩(1844–1927)、羅振玉(1866–1970)をはじめとする名だたる文人とも交流した。篆刻家・銭痩鉄(1897–1967)は交流のあった一人で、白沙村荘に逗留し関雪の印章を制作している。西洋中心の近代化の時代にあって伝統的文人画と近代美術を繋ぐ存在として関雪は中国でも高く評価されていた。 中国の故事や山水だけでなく馬や猿、狐、狸などの動物も関雪が若くから得意とする題材であった。1930年前後から帝展などの出品画のテーマとして取り上げられるようになる。代表作として《意馬心猿》(1928年、京都国立近代美術館)、《玄猿》(1933年、東京藝術大学)、献上画として制作された《進馬図》(1933年、皇居三の丸尚蔵館、東京)、《唐犬図》(1936年、大阪市立美術館)、ニューヨーク万国博覧会出品の《霜猿》(1939年、兵庫県立美術館)等がある。《玄猿》は関雪の名を不朽ならしめた名作で、前年に死去した妻ヨネへの追慕の情が根底にあったといわれる。 1934(昭和9)年、帝室技芸員に任命され、1935(昭和10)年の帝展改組により帝国美術院会員にも就任したが、翌1936(昭和11)年、旧無鑑査復活の巻き返しがおこると関雪は会員を辞退した。京都画壇との長年の確執が背景にあったといわれる。 1938(昭和13)年頃からは、戦争画の制作に邁進、1939(昭和14)年の第1回聖戦美術展(東京府美術館)、橋本関雪聖戦記念画展(日本橋三越、東京)等への出品をはじめ「彩管報国」に積極的に取り組んだ。1938(昭和13)年、第17回朝鮮美術展覧会の審査委員を務める。1940(昭和15)年には京都建仁寺方丈の襖絵《生々流転》、《伯楽》、《深秋》、《蕭条》、《寒山子》の計60面を制作した。 1942(昭和17)年、朝日新聞社の誘いにより作家の吉川英治とともに南方従軍旅行に出て、東南アジア地域を回る。その成果は画文集『南を翔ける』(朝日新聞社、1943年)にまとめられた。このときの光景に着想して描かれた《防空壕》(1942年、東京国立近代美術館)は第5回新文展に出品された。《香妃戎装》(1944年、衆議院、東京)は戦時特別文展に出品された作品で、関雪が他の作品でもしばしば参考にした朗世寧(1688–1766)による香妃の肖像を下敷きとしている。誇り高く毅然と佇む香妃の姿に関雪が託した思いをみることができる。 1945(昭和20)年2月26日未明、狭心症の発作のため白沙村荘で死去。享年61。中国文化への深い造詣と愛着、高い技術に裏打ちされた作品を描き、戦前の官展の花形として活躍しただけでなく、数多くの著作を残し、中国文物の蒐集でも知られ、造園に関しても高い知見を有した作家であった。 (飯尾 由貴子)(掲載日:2023-09-11) 註 西原大輔『橋本関雪 師とするものは支那の自然』ミネルヴァ書房、2007年、126–131頁。

1934
橋本関雪画伯展覧会, 三越, 1934年.
1957
橋本関雪名作展, 京都大丸, 東京大丸, 大阪大丸, 1957年.
1973
橋本関雪名作展, 大阪市立美術館, 1973年.
1973
橋本関雪展: 独往の画人, 京王百貨店, 1973年.
1977
橋本関雪展, 兵庫県立近代美術館, 1977年.
1983
橋本関雪展: 生誕百年: 春季特別展, 足立美術館, 1983年.
1984
橋本関雪展: 生誕100年, 新宿・小田急, 尼崎市総合文化センター, 岡山・高島屋, 京都・高島屋, 1984年.
1993
橋本関雪名品展, 川村記念美術館, 1993年.
1994
橋本関雪展: 没後五〇年記念, 大丸ミュージアム・東京、大丸ミュージアムKYOTO, 1994–1995年.
1995
橋本関雪と金島桂華: 開館1周年記念特別展, 華鴒美術館, 1995年.
1997
橋本関雪展, 加古川総合文化センター, 1997年.
2009
橋本関雪, 姫路市立美術館, 富山県水墨美術館, 島根県立美術館, 大丸ミュージアムKYOTO, 2009年.
2013
橋本関雪展: 生誕130年, 兵庫県立美術館, 2013年.
2014
白沙村荘 橋本関雪記念館 MUSEUM開館記念展「白沙村荘館蔵名品展」, 白沙村荘橋本関雪記念館, 2014年.
2015
橋本海関・関雪展: 父子の歩み: 秋季特別展, 明石市立文化博物館, 2015年.
2023
橋本関雪: 生誕140周年: Kansetsu: 入神の技・非凡の画, 白沙村荘 橋本関雪記念館, 福田美術館, 嵯峨嵐山文華館 , 2023年.

  • 白沙村荘 橋本関雪記念館, 京都
  • 京都国立近代美術館
  • 京都市美術館 (京都市京セラ美術館)
  • 東京藝術大学大学美術館
  • 姫路市立美術館, 兵庫県
  • 大阪市立美術館
  • 兵庫県立美術館
  • 林原美術館, 岡山市
  • 華鴒大塚美術館, 岡山県井原市
  • 西宮市大谷記念美術館, 兵庫県
  • 足立美術館, 島根県安来市
  • 福田美術館, 京都

1924
橋本関雪『南画への道程』東京: 中央美術社, 1924年 [自筆文献].
1925
橋本関雪『関雪随筆』東京: 中央美術社, 1925年 [自筆文献].
1926
橋本関雪『浦上玉堂 アルス美術叢書』東京: アルス, 1926年 [自筆文献].
1926
橋本関雪『石濤』東京: 中央美術社, 1926年 [自筆文献].
1940
橋本関雪『支那山水随縁』東京: 文友堂書店, 1940年 [自筆文献].
1943
橋本関雪『南を翔ける』東京: 朝日新聞社, 1943年 [自筆文献].
1957
橋本関雪『白沙村人随筆』東京: 中央公論社, 1957年 [自筆文献].
1983
橋本喜三「橋本関雪 京都美術の創造者たち: 6」『日本美術工芸』通巻537号 (1983年6月): 80-84頁.
1984
朝日新聞大阪本社企画部編『橋本関雪展: 生誕100年』大阪: 朝日新聞大阪本社企画部, 1984年 (会場: 新宿・小田急, 尼崎市総合文化センター, 岡山・高島屋, 京都・高島屋).
1984
宮崎市定「橋本関雪と漢学」[連載]1-4『日本美術工芸』通巻544号 (1984年1月): 42-46頁. 545号 (1984年2月): 64-69頁. 546号 (1984年3月): 48-53頁. 547号 (1984年4月): 58-62頁.
1991
『橋本関雪 アサヒグラフ別冊, 美術特集日本編』66 (1991年2月).
1994
『橋本関雪展: 没後50年記念』東京: 朝日新聞社, 1994年 (会場: 大丸ミュージアム・東京, 大丸ミュージアム KYOTO).
1997
加古川総合文化センター編『橋本関雪展 加古川総合文化センター美術展図録, No. 30』[加古川]: 加古川総合文化センター, 1997年 (会場: 加古川総合文化センター).
2003
岩間真知子「資料紹介: 帝展改組と京都画壇: 橋本関雪に宛てた大観・玉堂らの書簡から」『近代画説』第12号 (2003年12月): 115-137頁.
2007
西原大輔『橋本関雪: 師とするものは支那の自然 ミネルヴァ日本評伝選』京都: ミネルヴァ書房, 2007年.
2008
西原大輔「橋本関雪とアジア」『関西モダニズム再考』竹村民郎, 鈴木貞美編. 京都: 思文閣出版, 2008年, 322-335頁.
2009
姫路市立美術館[ほか]編『橋本関雪』[神戸]: 神戸新聞社, 2009年 (会場: 姫路市立美術館, 富山県水墨美術館, 島根県立美術館, 大丸ミュージアムKYOTO) [展覧会カタログ].
2010
斉藤全人「橋本関雪「進馬図」の制作背景をめぐって」『三の丸尚蔵館年報・紀要』15号 (2010年3月): 33-42頁.
2013
兵庫県立美術館, 朝日新聞社大阪企画事業部編『橋本関雪展: 生誕130年』[出版地不明]: 生誕130年橋本関雪展実行委員会, 2013年 (会場: 兵庫県立美術館).
2014
西原大輔「画家の教養: 橋本関雪《失意》を読む」『Artramble』41号 (2014年1月): 4-5頁. 神戸: 兵庫県立美術館.
2015
稲賀繁美「表現主義と気韻生動: 北清事変から大正末年に至る橋本関雪の軌跡と京都支那学の周辺」『日本研究』第51集 (2015年3月): 97-125頁. 京都: 国際日本文化研究センター.
2019
東京文化財研究所「橋本関雪」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. (日本語) https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8616.html
2020
稲賀繁美「日本画と南画 土田麦僊と橋本関雪」『視覚の現場: 須田記念』第2号 (2020年3月): 47-50頁.
2020
中島由実子「橋本関雪《木蘭》にみる画家の中国観: 近代日本における「中国」表現の一例として」『デアルテ: 九州芸術学会誌』第36号 (2020年6月): 2, 29-47頁.
2023
橋本眞次, 村田隆志編『橋本関雪: 入神の技・非凡の画』東京: 求龍堂, 2023年 (会場: 白沙村荘 橋本関雪記念館, 福田美術館, 嵯峨嵐山文華館). [展覧会カタログ].

日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art

帝室技芸員、帝国芸術院会員橋本関雪は2月26日京都の自邸で狭心症のため逝去した。享年63。名関一、明治16年旧明石藩の漢学者橋本海関の息として生れ、家学を父にうけたが、まもなく片岡公曠に南画を学び、36年には竹内栖鳳門に入つて画技をすすめた。38年には日露役に従軍、41年には上京して谷中に寓居し、第2回文展以後連続出品して屡々受賞、大正8年帝展第1回から審査員として活躍した。文展では「失意」「琵琶...

「橋本関雪」『日本美術年鑑』昭和19・20・21年版(97-98頁)

Wikipedia

橋本 関雪(はしもと かんせつ、1883年(明治16年)11月10日 - 1945年(昭和20年)2月26日)は、日本画家。本名は貫一。中国の古典文学や風物を題材にした作品や、「新南画」と呼ばれる作風を確立した。建築や造園にも造詣が深く、明石市東二見町の「蟹紅鱸白荘」(現白沙荘)を初め3棟の別荘を建てた。

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VIAF ID
26025083
ULAN ID
500123192
AOW ID
_00113929
Benezit ID
B00084382
NDL ID
00008294
Wikidata ID
Q3128088
  • 2023-11-07