A1659

富本憲吉

| 1886-06-05 | 1963-06-08

TOMIMOTO Kenkichi

| 1886-06-05 | 1963-06-08

作家名
  • 富本憲吉
  • TOMIMOTO Kenkichi (index name)
  • Tomimoto Kenkichi (display name)
  • 富本憲吉 (Japanese display name)
  • とみもと けんきち (transliterated hiragana)
生年月日/結成年月日
1886-06-05
生地/結成地
大阪府平群郡安堵村(現・奈良県生駒郡安堵町)
没年月日/解散年月日
1963-06-08
没地/解散地
大阪府
性別
男性
活動領域
  • 版画
  • 工芸

作家解説

1886(明治19)年6月5日、現在の奈良県生駒郡安堵町東安堵に生まれる。11歳の時に父が亡くなり、家督を継ぐ。1904(明治37)年郡山中学校を卒業後、東京美術学校(現・東京藝術大学)図案科に入学し2年目からは建築、室内装飾を専攻する。日本画は川端玉章、西洋画は岡田三郎助、建築は大澤三之助、岡田信一郎らの指導を受け、在学中は岩村透の勧めでマンドリン同好会に入って、藤田嗣治、南薫造、森田亀之輔などと交流した。1907(明治40)年に「東京勧業博覧会」図案部門にステンドグラス図案を出品し、入選。1908(明治41)年、卒業制作《音楽家住宅設計図案》(1908年、東京藝術大学)を早くに提出して、ロンドンへ私費留学した。翌年の同校卒業後、3–6月まで夜間にセントラル・スクール・オブ・アーツ・アンド・クラフツ(ロンドン)に通ってステンドグラスの実技を学びつつ、連日ヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアム(ロンドン)に通い、所蔵作品をスケッチしている。ロンドンでは、ウィリアム・モリスやホイッスラーに関心を抱き、帰国後執筆した「ウイリアム・モリスの話」(上・下、『美術新報』11巻4-5号、1912年9-10月)は、日本でモリスを紹介した初期のものとして意義深い。また、イスラム教建築を調査する新家[にいのみ]孝正の助手として、ロンドンからインド旅行に同道し、更紗やヒンドゥー教の彫刻を目にした。 1910(明治43)年には、帰国船で親しくなった画家レジナルド・ターヴィーを介して、日本でバーナード・リーチと知り合う。翌年、森田の誘いでリーチと参加した茶会の席で楽焼に興味を持ち、上野(東京)の勧業博覧会へリーチと共に出かけては、堀川光山の店で楽焼の絵付けをしている。同年の美術新報主催「新進作家小品展覧会」(東京、京橋江木写真店ならびに吾楽殿、4月16日–30日)では、水彩や自彫木版画、楽焼を出品。1911(明治44)年5月、東京を離れて安堵の自宅にアトリエを構え、木版画、染織、刺繍、皮細工などを制作した。10月には東京のリーチ宅に滞在し、六代尾形乾山(浦野繁吉)に弟子入りしたリーチの通訳を務め、自らも興味を持つようになって、1913(大正2)年2月に自邸の裏に楽焼の窯を築いて制作に取り組んだ。同月の「現代大家小芸術品展覧会」(日本橋三越、東京)では刺繍の半衿などとともに《楽焼梅に鶯模様鉢》(1912年、ヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアム)を出品している。1914(大正3)年『青鞜』同人であった尾竹一枝(紅吉)と結婚。本焼の作品も試みるようになり、翌年には本窯を築くとともに、安堵の自宅近くに住居兼工房を新築した。1919(大正8)年、濱田庄司の紹介で近藤悠三が助手となる。資金捻出のための頒布会や、神田(東京)の流逸荘における夫妻展、また野島康三邸での個展などで作品を発表した。安堵には、柳宗悦や浅川伯教が訪れて親交を深め、1922(大正11)年には富本も朝鮮を訪れて「李朝陶磁器展覧会」(朝鮮民族美術館、京城[ソウル]主催、10月5日–7日)に協力。その後、「日本民藝美術館設立趣意書」(1926年)には柳、河井寬次郎、濱田とともに名前を連ねている。 1926(大正15)年、娘の進学のため東京へ移住、翌年には千歳村(現・世田谷区上祖師谷)の新居に住み始め、隣接して窯を築く。同年、国画創作協会第6回展(東京府美術館、4月23日–5月15日)洋画部で回顧陳列として作品200点余を出品。国画創作協会の会員となって、翌年の工芸部創設に尽力し、公募作品の審査にあたるとともに、自身も作品発表の場としていく。1935(昭和10)年には帝国美術院新会員に任命されるが、翌年辞任。この頃、九谷の北出塔次郎の窯に滞在し、色絵磁器の研究に励んでいる。1937(昭和12)年に帝国芸術院官制が制定されると、会員に任命された。この年、第1回新文展四部(工芸)の審査員を務め、以後同展への出品も重ねている。1944(昭和19)年、東京美術学校教授に就任、また東京美術学校工芸技術講習所主事を兼任。翌年、学生らと飛騨高山に疎開すると、終戦後も自身は残って制作を続けた。1946(昭和21)年には、東京美術学校教授及び帝国芸術院会員を辞任。東京の窯を閉鎖して、安堵に戻っている。国画会も退会するが、翌年には、富本を慕って同会を脱会した同士らが中心となって結成した新匠美術工芸会に参加した。この頃には、京都東山区清水の松風栄一宅に間借りして、同氏の工房や近藤悠三、山田喆、鈴木清[きよし]、天坊武彦[てんぼうたけひこ]らの工房を渡り歩いて制作、赤絵には森野嘉光の窯を使用している。1949(昭和24)年、京都市立美術専門学校(現・京都市立芸術大学)の客員教授に就任し、京都市に移住。翌年、京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)教授となり、後進の育成に務めた。1955(昭和30)年重要無形文化財「色絵磁器」第1号保持者に認定されると、同年発足した日本工芸会の会員となり、翌年から日本伝統工芸展への出品を重ねていく。1961(昭和36)年文化勲章受章。1962(昭和37)年には第3回国際陶芸展(チェコ、プラハ)で《磁器色絵金銀彩四弁花文飾筥》(不詳)が銀賞受賞。1963(昭和38)年5月に京都市立芸術大学学長に選任されるが、6月8日肺がんのため死去した。 富本の活動は、作家自身が大和時代(1913–1926年)、東京時代(1926–1946年)、京都時代(1946–1963年)と三期に分けて語っているが、これは陶芸を始めて以後の、あくまでも制作地の変化による区分であることに注意が必要である。当初富本は図案を学び、ロンドンからの帰国後は雑誌のカットや装丁で人気を得ている。富本の図案ないし模様に対するアプローチが変化するのは1913年頃で、「今造られる模様の何むなものが今迠の模様をトレースしない実際の感動で造られたものかと聞きたい」と疑問を抱き、「自分の今云ふ模様と云ふものと普通に云ふ模様とは或は表面非常に似て内部の考へでは遠くはなれて居るものかも知れない」という「模様に対するふ安」を吐露している(「書簡54(1923年11月6日)」『南薫造宛 富本憲吉書簡』大和美術史料第三集、奈良県立美術館、1999年、74、76頁)。同年夏にはリーチと過ごす中で、既存の模様を再構成する当時一般的な図案制作の手法ではなく、身近な風景や草花などを観察し、繰り返し写生して単純化することで、自らの作品のための新しい模様を創る方法にいたったという。こうした自然写生による代表的な模様には「柘榴」や「竹林月夜」、「曲がる道」などがある。富本の創作に対する姿勢は「模様より模様を造る可からず」(富本憲吉「製陶餘言」『製陶餘録』新装復刻版、文化出版局、1975年、1940年初版、114頁)という象徴的な言葉とともに、芸術としての陶芸のオリジナリティを論じる上で重要視され「工芸の分野では、富本憲吉が出るまで、この近代芸術の核心をなす問題を、自覚的に認識し、追求した作家はほとんどいなかった」と評されて(乾由明「富本陶芸の誕生」、乾由明編『富本憲吉 現代日本陶芸全集: やきものの美 第3巻』集英社、1980年、88頁)、作家像の形成に大きな影響を与えてきた。 一方で、自然写生による模様は、あくまでも平面上で繰り返し描かれて制作されるため、立体性の強い陶磁器の器形との関連が乏しいこと、また富本が白磁の制作を経て、立体として陶磁器の造形を再考するなかで「四弁花」や「羊歯」文様のような器形に沿う構成的な模様を用いるようになっていくことが指摘されているように(註)、1930年代頃から富本の作品には、捻模様や窓絵のような古典的な陶磁器の文様加飾の構図も取り入れられていく。後に富本は写生をもとにした自らの模様について、「陶器の技法を今の様に知つて居たらば苦るしみ続けて、只無暗と山野をかけ廻り、あんなものを描かなくてもよかつたのである」と述べており、「模様では、絵画の自然追及、立体を或は距离〔距離〕を平面上に表現すると云ふのとは根本的に出発点を異にし、その上材料から来る制限のために極端な単純化、分割、繰返し、添加、結合等を永年に渡つて行つて来た結果、構成的な因子を非常に多く持つてゐる事を考へ合すべき」と考えを記している(『富本憲吉 わが陶器造り』里文出版、2019年、247、252頁)。 なお、富本は日常生活に使用される器の量産にも関心を持ち続けており、東京時代には信楽、波佐見、益子、瀬戸、京都などの窯業地に赴き、既成の素地に絵付けを施すなどして量産品の制作をおこなった。また京都時代には、富本が見本をつくり、素地づくりや絵付け、焼成までを職人に任せるという方法をとって製品化して量産しており、平安陶苑での「平安窯」銘の製品や八坂工芸の「富泉」銘の製品などが試みられている。 (宮川 智美)(掲載日:2023-09-11) 註 大長智広「大和時代後期における富本憲吉の芸術—『富本憲吉模様集』(1924, 26, 27)を中心に」『デザイン理論』44号、2004年5月、47-62頁。

1913
富本憲吉・津田青楓工芸品展覧会, 大阪三越, 1913年.
1921
富本憲吉作陶展, 野島康三邸, 1921年.
1955
富本憲吉作陶四十五年記念展, 日本橋高島屋, 1955年.
1961
富本憲吉作陶五十年記念展, 日本橋高島屋, 1961年.
1973
富本憲吉展: 開館記念, 奈良県立美術館, 1973年.
1977
富本憲吉名品展: 生誕九十年記念, 西武美術館, 西武タカツキショッピングセンター, 1977年.
1986
富本憲吉展: 生誕百年記念: 陶器する心・その軌跡, 西宮市大谷記念美術館, 1986年.
2000
富本憲吉展: モダンデザインの先駆者, そごう美術館, 奈良そごう美術館, 2000年.
2004
人間国宝の日常のうつわ: もう一つの富本憲吉, 東京国立近代美術館工芸館, 2004–2005年.
2006
富本憲吉のデザイン空間: 生誕120年, 松下電工汐留ミュージアム, 2006年.
2006
生誕120年富本憲吉展, 京都国立近代美術館, 茨城県陶芸美術館, 世田谷美術館, 岐阜県現代陶芸美術館, 山口県立萩美術館・浦上記念館, 2006–2007年.

  • 京都国立近代美術館
  • 東京国立近代美術館
  • 奈良県立美術館
  • 大阪市立美術館
  • 京都市立芸術大学
  • 大原美術館, 岡山県倉敷市

1925
富本憲吉『窯邊雜記』東京: 文化生活研究会, 1925年 (新装復刻版: 東京: 文化出版局, 1975年) [自筆文献].
1940
富本憲吉『製陶餘録』東京: 昭森社, 1940年 (新装復刻版: 東京: 文化出版局, 1975年) [自筆文献].
1940
柳宗悦『富本憲吉・河井寬次郎・濱田庄司作品録』東京: 日本民芸協会, 1940年.
1948
富本憲吉『陶器: 随筆集』東京: 朝日新聞社, 1948年 [自筆文献].
1952
富本憲吉『わが陶器造り: 未定稿』[出版地不明]: [出版者不明], 1952年 (再録: 辻本勇編『富本憲吉著作集』11-155頁. 東京: 五月書房, 1981年. 森野彰人, 前﨑信也編『わが陶器造り』41-218頁. 東京: 里文出版, 2019年) [自筆文献].
1956
内藤匡『富本憲吉陶器集』東京: 美術出版社, 1956年.
1957
富本憲吉『富本憲吉模様選集』東京: 中央公論美術出版, 1957年.
1962
富本憲吉『自選富本憲吉作品集』東京: 朝日新聞社, 1962年.
1976
乾由明編『富本憲吉 近代の美術, 32』(1976年1月).
1980
乾由明責任編集『富本憲吉 現代日本陶芸全集: やきものの美: 第3巻』東京: 集英社, 1980年.
1981
辻本勇編『富本憲吉著作集』東京: 五月書房, 1981年 [自筆文献].
1983
富本憲吉「私の履歴書」日本経済新聞社編『私の履歴書 文化人: 6』東京: 日本経済新聞社, 1983年, 182-229頁 [自筆文献].
1991
山本茂雄「模様から模様をつくらず三考」『現代の眼』443号 (1991年10月): 2-4頁.
2004
大長智広「大和時代後期における富本憲吉の芸術:『富本憲吉模様集』(1924, 26, 27)を中心に」『デザイン理論』第44号 (2004年5月): 47-62頁.
2004
樋田豊次郎「富本憲吉の小藝術」デザイン史フォーラム編『アーツ・アンド・クラフツと日本』京都: 思文閣出版, 2004年, 99-112頁.
2014
Jones, Meghen. “Tomimoto Kenkichi and the Discourse of Modern Japanese Ceramics”. PhD diss., Boston University, 2014.
2019
東京文化財研究所「富本憲吉」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. (日本語) https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9011.html

日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art

京都市立美術大学々長、文化勲章受章者富本憲吉は、6月8日午前9時、大阪府立成人病センターで肺癌のため逝去した。享年78才。明治19年6月5日奈良県生駒郡に、富本豊吉の長男として生れた。東京美術学校図案科建築部を経て、ロンドンに留学して室内装飾を学んだ。明治44年帰国し、翌年イギリス人バーナード・リーチと共に六世尾形乾山に師事して陶芸の道に入った。のち郷里の安堵村、つづいて東京世田谷に窯をきずいて制...

「富本憲吉」『日本美術年鑑』昭和39年版(132-133頁)

Wikipedia

富本 憲吉(とみもと けんきち、1886年(明治19年)6月5日 - 1963年(昭和38年)6月8日)は、日本の陶芸家。人間国宝、文化勲章受章者。映画監督・テレビ演出者の富本壮吉は長男にあたる。

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VIAF ID
33103213
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_00043844
Benezit ID
B00183702
Grove Art Online ID
T085522
NDL ID
00084924
Wikidata ID
Q11456982
  • 2024-03-01