A1586

田中敦子

| 1932-02-10 | 2005-12-03

TANAKA Atsuko

| 1932-02-10 | 2005-12-03

作家名
  • 田中敦子
  • TANAKA Atsuko (index name)
  • Tanaka Atsuko (display name)
  • 田中敦子 (Japanese display name)
  • たなか あつこ (transliterated hiragana)
生年月日/結成年月日
1932-02-10
生地/結成地
大阪府大阪市
没年月日/解散年月日
2005-12-03
没地/解散地
奈良県奈良市
性別
女性
活動領域
  • 絵画
  • メディアアート

作家解説

1932年、大阪市西区北堀江に生まれる。1945年頃に大阪市天王寺区小橋[おばせ]へ転居。1950年冬頃、美術大学受験のために大阪市立美術館付設美術研究所へ入所、同研究所には、後に活動を共にすることになる金山明や白髪一雄がすでに通っていた。同年3月に樟蔭高等学校を卒業し、4月に京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)西洋画科へ入学。しかし約半年後に退学して、入学前に学んだ大阪市立美術館付設美術研究所へ再び通い始める。当時は具象画を描いていたが、やがて金山と知り合い助言を受けたことで新たな方向性を模索する。 1953年もしくは1954年前半に体調を崩して入院、その間に、退院の日を待ちわびて数字を順に書き、各数字の周りにオイルパステルで縁取りをしたところ、初めてこれが「絵」だと認識するに至った。その体験を元に作品として仕上げたのが一連の《カレンダー》である。3点が現存する《カレンダー》(うち2点、1954年、芦屋市立美術博物館)は、1954年4月および5月の暦を元にしており、トレーシングペーパーや金山から提供された船荷証券など様々な種類の紙をコラージュした作品で、規則的な数字の並びをあえて切断するように各種の紙を貼り合わせている。同年から翌年にかけて、用いる数字を減らし、最終的には数字をなくして、布がわずかにずれるように二、三枚貼り合わせる、あるいは布の周囲に小さな切れ目を入れ再び貼り合わせるなど、具体的な意味を極限まで排した作品へと移行した。これら一連の作品において重要な手法となったコラージュや、支持体の端に着目するといった視点については金山が先行しており、その影響が読み取れる。ただ、田中が金山と異なったのは、作品そのものの構造の変化や推移を求めた点で、それが後に電気の導入へとつながっていく。 1954年、金山は幼なじみの白髪、そして白髪と共に当時新制作協会で活動していた村上三郎らと先鋭な美術を目指して0会[ぜろかい]を結成し、互いの作品を持ち寄って意見交換を行っていた。そこに田中も参加するようになり、先述した数字の作品を披露するなど相互研鑽を図っていたが、翌年夏に金山、白髪、村上と共に、吉原治良がリーダーを務めていた1954年結成の具体美術協会(具体)に加入。具体メンバーとしての最初の展観は「真夏の太陽にいどむ野外モダンアート実験展」(1955年)で、芦屋公園の松林に、5センチ幅の青い縁取りがある10メートル四方(註1)のピンクの人絹を地上約30センチの高さに張った《作品》を設置した。布が風にはためいて常に揺れ動く様は、作品の絶え間ない構造の変化を求めた田中の志向を如実に表しており、本作が元になって縁の部分だけが動く作品として、20個のベルが2メートル間隔で繋がった《作品》が生まれた。1955年の第1回具体美術展(小原会館・東京)で初めて発表された本作は、展示される部屋の床の端に沿って設置され、鑑賞者がスイッチを押し続けると、ベルが手前から順に鳴り響き、やがて手前へ戻ってくるように設計されていた。鑑賞者は音の変化に耳を傾ける中で、自身から次第に離れていく動きを実感し、それに要する時間の経過や空間の隔たり、あるいはベルと鑑賞者が置かれた場の広がりを想像することになる。それは、鑑賞者自身がその場で音を発生させることで初めて得られる体験であり、以前のコラージュ作品よりも、鑑賞者の個別で具体的な身体への働きかけを顕在化させた。 ところで吉原は、1955年の「真夏の太陽にいどむ野外モダンアート実験展」の折に、野外に続いて舞台での作品発表を着想し、それを受けてメンバーは舞台を想定したアイデアを練り始める。田中が1956年に発表した作品、すなわち素早く着替えてゆく行為の作品や、高さ4.4メートル、幅3.6メートルの巨大な人型七体に管球を取りつけ規則的に光を点滅させた《舞台服》、そして約200個(註2)の多彩な電球・管球を組み合わせ、不規則に明滅する光の服に仕立てた、現在《電気服》と呼ばれる立体作品は、いずれも舞台を念頭においていた。《電気服》は第2回具体美術展(小原会館・東京、1956年)で初めて披露されたが、その際、仮設の梁から吊り下げられた本作の後ろには、《電気服》をいかに平面上に表すかを検討し、試行錯誤をへて紙の支持体に描かれた20点が展示された。これらはごく最近まで、《電気服》を制作する前に試みられた下絵のように見做されることが多かったが、実際は《電気服》の後に描かれた、《電気服》に基づく平面作品なのである。 1957年には「舞台を使用する具体美術」で、田中本人が意想外の部位から服を取り出し、はぎ取るなど次々と着替えていった後、電球が不規則に点滅する複数の「服」を着用した人物たちが舞台に登場する《舞台服》を発表、絶え間ない変化と身体が結びついた点で、先のベル作品との連続性がはっきりと読み取れる。同年、フランスから来日した美術批評家でアートディーラーでもあったミシェル・タピエの目にとまり、具体の中で「国際的にもっとも確固たる作家群と対比並列すべき」(ミシェル・タピエ、芳賀徹訳「第一回日本旅行の精神的決済書」『美術手帖』第134号、1957年12月)メンバーの一人として高い評価を得る。それ以後タピエが企画に携わったヨーロッパでの展覧会、「日本の連続性と前衛(Continuité et Avant-garde au Japon)」(国際美学研究所、トリノ、1961年)、「構造と様式(Structure e Stile)」(トリノ市近代美術館、1962年)等で作品が紹介される。国内でも「現代美術の実験」(東京国立近代美術館、1961年)、「現代絵画の動向〈西洋と日本〉」(国立近代美術館京都分館、1963年)等、現代美術の重要な企画展で出品作家に選出され、第6回現代日本美術展(東京都美術館、1964年、以後全国を巡回)で優秀賞を受賞。またアメリカでも「グッゲンハイム国際賞」(グッゲンハイム美術館、ニューヨーク、1964年)、「日本の新しい絵画と彫刻」(サンフランシスコ近代美術館ほか、1965–1967年)で取り上げられ、後者の展覧会では、前年の第6回現代日本美術展で優秀賞を受賞した《作品》(1964年)が《Untitled》として出品され、ニューヨーク近代美術館買上げとなった。 ただこの頃から吉原との間で意見の相違が表面化するなど軋轢が生じるようになり、体調悪化で1965年夏、金山と共に具体を退会するに至った。当時の田中は金山が「再起不能」(金山明「SHORT REVIEW」『ATSUKO TANAKA』あかお画廊・大阪、1968年8月)と語るほどであったが、金山の献身的な介護によって1966年には再び制作に取り組めるほど復調した。この時期の作品は、《Spring 1966》(1966年、芦屋市立美術博物館)や《地獄門》(1965–1969年、国立国際美術館)に端的に示されるように、具体時代よりも円が重層化し線も複雑さを増して稠密の度合いが高まっているのが特徴的である。 その後、精力的に制作活動に取り組み、2004年まで定期的に個展を開催。具体再評価の動きが本格化した1980年代以後は、戦後美術をテーマに据えた国内外の大規模な展覧会や、具体を包括的に検証した展覧会で、常に主要な作家の一人として紹介された。また、1990年代後半より具体という歴史的文脈を超え、一人の作家として注目されるようになり、2001年の芦屋市立美術博物館および静岡県立美術館での回顧展「田中敦子—未知の美の探求 1954–2000」でその存在を改めて広く国内外に知らしめた。2002年にインスブルック(Galerie im Taxispalais、オーストリア)、2004年にニューヨーク(ニューヨーク大学 Grey Art Gallery)、2005年にバンクーバー(ブリティッシュ・コロンビア大学 Morris and Helen Belkin Art Gallery)で本格的な個展が企画され、国外でも再評価の機運が高まる中、2005年3月の交通事故が元で同年12月に急逝。2007年、大規模な国際展「ドクメンタ12」(カッセル)の出品作家の一人に選出され、翌年にも第16回シドニー・ビエンナーレで取り上げられるなど、没後の国際的評価はさらに揺るぎないものとなっている。 (加藤瑞穂)(掲載日:2025-12-01) 註1 『具体』第3号(1955年10月20日)、2–3頁。「甦る野外展」(芦屋市立美術博物館主催、芦屋公園、1992年)のために初めて再制作を行った際の作家による指示書(芦屋市立美術博物館)でも10メートルとなっており、また2001年4月15日に芦屋市立美術博物館で行われたトークイベント「田中敦子 自作を語る」においても、田中自身が10メートル四方であることを明言している(書き起こし:加藤瑞穂『田中敦子と具体美術協会 金山明および吉原治良との関係から読み解く』大阪大学出版会、2023年1月、367頁)。ただ、1955年当時吉原に提出したと思われる構想図では一辺「約6ヤール」であるほか、1955年7月26日付『産業経済新聞』(阪神版)掲載の「モチーフを語る(1)」では「二十畳敷」とされていること、そして同記事に添付された作品写真から推察すると、実際は5メートルあまりだった可能性が高い。その点を最初に指摘したのは塚村真美による次のテクストである。「【タイムトラベラーGUTAI探偵】『真夏の太陽』の巻 その3『危険なふたり』」『花形文化通信』2024年12月17日更新、(https://hanabun.press/2024/12/29/gutaitantei03/#_edn15)。特に註XVを参照。なお、2001年の「田中敦子 未知の美の探求 1954–2000」展で本作を再制作するにあたって筆者が田中に確認したところ、設置場所の条件に合わせて大きさを変更しても良いとの意向だったため、同展では8.5メートル四方にした。 註2 オリジナルの《電気服》に使われた電球の正確な個数は不明である。1986年に再制作された《電気服》の電球は、丸型86個、管型97個、合計183個で、詳細は次を参照。加藤瑞穂『田中敦子と具体美術協会 金山明および吉原治良との関係から読み解く』大阪大学出版会、2023年1月、32–33頁。

2004
Kato, Mizuho, and Ming Tiampo. “Electrifying Art: Atsuko Tanaka, 1954–1968.” Vancouver: Morris and Helen Belkin Art Gallery, 2004 (Venues: Grey Art Gallery and The Morris and Helen Belkin Art Gallery). [Exh. cat.].
2011
Watkins, Jonathan, and Mizuho Kato, eds. “Atsuko Tanaka = 田中敦子.” Birmingham, Castelló, Tokyo: Ikon Gallery, Espai d'art contemporani de Castelló, Museum of Contemporary Art, Tokyo, 2011 (Venues: Ikon Gallery and Espai d'art contemporani de Castelló and Museum of Contemporary Art Tokyo). [Exh. cat.].
2019
東京文化財研究所「田中敦子」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. (日本語) https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28347.html

日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art

国内外で活動した現代美術作家の田中敦子は12月3日午後3時55分、肺炎のため奈良市の病院で死去した。享年73。田中は、1932(昭和7)年2月10日に大阪市に生まれ、50年3月樟蔭高等学校卒業、美術大学受験準備のため大阪市立美術館付設美術研究所に入所。翌年、京都市立美術大学に入学するが、秋には退学し、再び上記の研究所に通うこととなり、後に夫となる金山明を知り助言をうけるようになった。金山、白髪一雄...

「田中敦子」『日本美術年鑑』平成18年版(395頁)

Wikipedia

田中 敦子(たなか あつこ、本名:金山敦子(かなやま あつこ)、1932年 - 2005年12月3日)初期具体美術協会メンバーの美術家。草間弥生、オノヨーコに並ぶ偉才と評された。

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VIAF ID
117728335
ULAN ID
500125006
AOW ID
_40231135
Benezit ID
B00179378
NDL ID
00836540
Wikidata ID
Q274945
  • 2023-02-20