- 作家名
- 竹内栖鳳
- TAKEUCHI Seihō (index name)
- Takeuchi Seihō (display name)
- 竹内栖鳳 (Japanese display name)
- たけうち せいほう (transliterated hiragana)
- 竹内恒吉 (real name)
- Takeuchi Tsunekichi
- 棲鳳 (art name)
- 生年月日/結成年月日
- 1864-12-20
- 生地/結成地
- 京都府京都市
- 没年月日/解散年月日
- 1942-08-23
- 没地/解散地
- 神奈川県足柄下郡湯河原町
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
作家解説
1864年、京都府京都市に生まれる。本名は恒吉。1877年、日本絵画の一流派である四条派の土田英林に入門した後、1881年、やはり、日本絵画の一流派である円山派と四条派さらに南画を学んだ幸野楳嶺に入門して棲鳳の号をつけられる。最初に手本を三つほど与えられた後は運筆の指導しか受けなかったが、半年後、塾内の試験で自己流に描いたところ合格し、塾の工芸長に抜擢された。粉本が重用され、師風に倣うことが当然とされた当時としては異例のことで、京都府画学校(現・京都市立芸術大学)設立を建議するなど開明的な思想をもって京都画壇近代化の端緒を開いた楳嶺の導きにより、栖鳳は大きく成長していく。例えば、その指示で京都府画学校に学び、画塾だけでは知ることの出来なかった他派の描法を目にしたり、1885年楳嶺に従って東本願寺法主・巌如上人の北越地方巡遊に同行、京都周辺とは全く異なる様相を呈す自然を写生し画嚢を肥やしたり、臨時全国宝物取調局の宝物調査に協力するのに参加してさまざまな流派の古画を模写、研究したりしている。
1887年、京都府画学校修了後再び楳嶺につくが、8月に一家をもったことから師の許しを得て独立開業する。1888年、84年と86年に、京都で行われたアーネスト・フェノロサの講演に刺激を受け、他の若手画家たちと共に、その講演録『美術真説』(フエノロサ述、大森惟中記、龍池会、1882年)を輪読・研究する煥美協会[かんびきょうかい]を設立するも、棲鳳らの革新派と守旧派との間で激しい対立が起きて協会は解散する。1891年二分された若手画家たちが一堂に会する懇親会が開催されると、選挙によって議長となり、京都(私立)日本青年絵画共進会開設を可決させ、守旧派の妨害にも屈せず京都府の協力なども得て同年6月の開催にまで漕ぎ着けた。開会日に行なわれた互選による審査員選挙の結果、二番目に多い票を受けるとともに、出品作が最高賞の一等賞銀印一席となり、京都画壇における若手画家の先頭におどり出る。
1894年、京都の画家達の団体である如雲社が、その中心的人物であった森寛斎の死去に伴い改革された際も、若手を代表してその委員に就任する。更に翌年2月師・楳嶺が亡くなると、5月京都市美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)の教諭に、10月京都博覧会協会が主催する日本青年絵画共進会審査員に、1896年、如雲社より改称された後素協会の委員に、1897年には、京都美術協会が開催する新古美術品展の鑑査委員を任され、この年は辞退するも翌年から審査員を務めるなど、京都画壇の中心的な画家と認識されるに至った。また、第2回、第3回の内国勧業博覧会で褒状、日本美術協会第3回展で銅牌を得たことで東京でも名前を知られはじめる。以後、日本絵画協会展など東京の団体が主催する展覧会で受賞を重ね、没骨描法を用いた清新な写生的作品が、橋本雅邦をはじめとする東京美術学校(現・東京藝術大学)派の主観的理想的な作品と比較され、東京画壇に対する京都画壇を代表する画家として認識されるようになった。
この間、自らの画塾竹杖会で弟子たちとともに、西洋美学に精通し、後に京都市美術工芸学校で西洋美術史を教えた日本画家・徳永鶴泉からジョン・ラスキン著『近代画家論』の翻読を聞いたり、鶴泉の師である日本画家・河田小龍の子息で、産婦人科医の河田蘭太郎から解剖講義を聞いたりする。また1889年に勤めはじめた髙島屋で、輸出用染織品図案作成の参考とするために集められた西洋の画集、雑誌、絵画の写真などを目にしており、日本の古画と同じように西洋美術への理解を深めていき、やがて渡欧を志すようになっていたところ、1900年、農商務省と京都市によってパリ万国博覧会の視察を命じられる。滞在中はフランスを中心に、イギリス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ハンガリー、イタリアを回って美術品を見たり、画家と面会するだけでなく、1895年から教鞭を執っていた美術工芸学校での指導に役立てるべく美術学校を視察したり、作品そのもの、あるいはその下図、複製、写真版を大量に購入したりした。
翌1901年2月に帰国すると、翌月早速『京都日出新聞』で談話を、6月京都美術協会で講演を行なう。西洋画も日本画も写生を根底としているが、前者は物につき過ぎて写意を疎かにし、後者は写意を重んじ過ぎて物から離れてしまった。これからの日本画はもう一度実物を見直して、因襲的な筆墨技法に捉われずに描き、そこに自分の感興を乗せていくことが大切だとした。渡欧で西洋美術の実際を知り、それと比較することにより、これまでに学んだ古今各流派の日本画への理解を更に深めるとともに、自らの進む道を見定めた棲鳳は、「棲」のつくりを西洋の西に変えて「栖」鳳となる。
帰国後第一作は、同1901年4月の第7回新古美術品展に出品されたセピア色の《獅子》(個人蔵)であった。西欧の動物園でライオンの実物写生をして、その猛々しさ、しなやかさをスケッチ風の繊細な筆で表現した現代の獅子図は一躍評判になった。また、西洋の景色も取り上げ、同時期の油彩画《スエズ景色》(1901年、海の見える杜美術館、広島)では、青空を背景に濃厚な色彩で光と影をはっきりと描くのに対して、日本画では、薄墨を刷いた画面に墨と淡彩で空気遠近法によって模糊とさせている。ここでは、点苔や皴法を駆使したり、第5回内国勧業博覧会出品の《羅馬古城祉真景(西洋山水図屏風)》(《羅馬之図》1903年、海の見える杜美術館)のように、物寂しい感じを日本人に分かりやすく表現するため、秋の夕暮れ時の情景としたりするなど、西洋風景が違和感なく受け入れられるよう工夫を凝らしてもいる。獅子図と西洋風景画は当初、日本画ではない、と、批判されることもあったが、画家による改良と大きな展覧会への繰り返しの出品、鑑賞者側の西洋的な写実や風物への慣れを経て徐々に人気を得、全国に於いて栖鳳の名を更に高めることとなった。
1907年、日本初の官設の美術展覧会である、文部省美術展覧会(文展)が開催されると、京都画壇側を代表して審査員に任じられる。その第1回展には、獅子でも西洋風景でもなく、自らの画家としてのルーツと言える四条派の祖・呉春の代表作《柳鷺群禽図屏風》(重要文化財、京都国立博物館)を彷彿させる《雨霽[あまばれ]》(東京国立近代美術館)を出品、鷺や風に揺れる柳の動きの一瞬をとらえ、水墨による清新な花鳥画として蘇らせた。第2回展出品の《飼われたる猿と兎》(1908年、東京国立近代美術館)でも同じくもう一つのルーツと言える円山派の動物画を、垂直と水平を強調した構図や動と静の対比により近代的なものとした。第3回展以後も、従来京都画壇が弱いとされてきた人物画にも挑んだ、舞妓をモデル写生した《アレ夕立に》(1909年、髙島屋史料館、大阪)、ヌードモデルの女性が着物を脱ぐ刹那のはじらいの心理を描写した《絵になる最初》(1913年、重要文化財、京都市美術館)、信仰の光が日雇労働の少女の日焼けした肌を照らす様を金泥で表現し、全体を細密に描き込こんだ西洋の宗教画のような《日稼》(1917年、東京国立近代美術館)を発表。山水画ではない日本の風景画にも挑み、興津(静岡)での写生をもとに、横物の大画面の上半分を空に充て、下半分に川や松など少ない要素を、墨と淡彩だけで描き、広くひらけた自然を前にした爽快な感興を表現した《河口》(1918年、静嘉堂文庫美術館、東京)を発表。大舞台に意欲的な作品を次々と発表して京都画壇の意気地を示した。
1919年、文展はこの年創設された帝国美術院が主催する展覧会(帝展)に改組される。同院会員となった栖鳳は、審査員の席を一世代下の画家達に譲る。既に1913年に帝室技芸員に任命され、1915年大正天皇御即位にあたって大嘗祭大饗の場に飾られる《大正度 主基地方風俗歌屏風》(皇居三の丸尚蔵館、東京)の揮毫者に選ばれるなど、大家として認められていたが、そこに安住することなく、新たな画境を求めて翌1920年と1921年の2度にわたり、中国に約2ヶ月づつ滞在する。修業時に目にした狩野派の水墨山水に描かれた、遠景に塔のある景色への憧れとともに、日本画家として活動していく以上、そのおおもととなった中国の古画や実際の中国風物を見ることは欠かせないとの考えもあった。質の良い中国古画とは出会えなかったが、蘇州や南京・秦淮などの水辺の町で、自然と人間の生活が一体となり、それぞれの雑多な色彩が調和した美しさを持つ風景に魅せられる。これまでにも描いてきた水墨による湿潤な風景に、彩色された家や船、人々の生活する様子が点景として加わった中小品は、以後その得意とするところとなり、1927年の茨城県・潮来という好画題の発見にもつながった。
1922年、日仏交換美術展に出品された《蘇州の雨》(ギメ東洋美術館、パリ)を、フランス政府の要請によってリュクサンブール美術館(パリ)が収蔵。同年、日本画家として初めてのサロン会員に推されてもいる。続いて羅馬開催日本美術展覧会(パラッツォ・ナツィオナーレ・デラ・エスポジツィオーネ、ローマ、1930年)、ベルリン日本美術展(1931年)、アメリカ・トレド日本画展覧会(トレド美術館、オハイオ州、1932年)に作品を出品、イタリアとドイツ、各政府が出品作を収蔵。フランス、ドイツ、ハンガリーで勲章を授与されるなど(註)、明治時代にその下絵による染織品が万国博覧会で表彰されたように、今度は画家として世界で評価を得るようになった。この頃日本国内では、明治40年代(1907–1912年)から出現した百貨店や表具屋、画商による市井展が最盛期を迎えつつあり、1924年、百貨店の三越によって、栖鳳、横山大観など東西の重鎮画家6名による淡交会が組織される。かつて髙島屋の意匠部に勤め、創業家・飯田家と昵懇の間柄でもあったためその美術部が企画する展覧会に協力したこともあった栖鳳は、同会の第1回展に《班猫[はんびょう]》(重要文化財、山種美術館、東京)を出品するなど、市井展にも優品を発表した。
数年前から体調を崩しがちで、しばしば神奈川県・湯河原にある旅館天野屋に逗留しており、1934年、前の年に画塾を解散したことから、その一角に住居とアトリエを建て、生活の中心をこの地に置くようになる。古稀を機に京都画壇の中心から一歩退いたようなかたちとなったが、制作意欲は衰えず、1936(昭和11)年文展招待展に《夏鹿》(1936年、MOA美術館、神奈川)、第1回新文展に《若き家鴨》(1937年、京都国立近代美術館)、紀元二千六百年奉祝美術展に《雄風》(1940年、京都市美術館)、と、少ない筆数で巧みに生態をとらえた動物画の大作を発表。一方で、引き続き市井展には、季節感のある花鳥画や潤いある風景画、《爐邊》(1935年、足立美術館、島根)のような生命感あふれる動物画といった中小品に、軽妙洒脱な熟達の筆を揮った。1937年には、東京画壇を代表する大観とともに、第1回の文化勲章を受章し、1942年、湯河原で亡くなる。
なお、栖鳳は、制作者としてだけでなく、指導者、牽引者として、京都画壇の発展に大きく寄与したことが特筆される。自身の画塾竹杖会のみならず、1909年、東京画壇に伍して展覧会の場で活躍出来る画家の育成を目指して開設された京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)においても積極的に後進の指導にあたり、画塾や学校の垣根を払って画壇全体で将来にわたる隆盛を志した。1918年、弟子の土田麦僊、小野竹喬等が文展を飛び出して国画創作協会を結成した折には、顧問となって、大きな展覧会では認められることの少ない新しい傾向を持つ若手画家たちが安心して活躍出来る場となるよう後方支援もした。また1935年の帝展改組では、戦時下国家統制の名のもと、画壇が東京中心に編成されることに危機感を抱き、『報知新聞』紙上で反対を表明するなど、生涯を通して、京都画壇が埋没しないよう心を砕いた。その根底には、さまざまな団体が競い合うことで美術は発展する、という信念がある。若き日、一つの画に狩野派、円山派、四条派の筆法を使用して「鵺派」と批判されても動ぜず、制作に資するものであれば古今東西を問わず参考とし、何物にも囚われず独自の画を発表し続けた姿勢は、まさに近代の画家のものであり、この栖鳳が牽引者だったからこそ、さまざまな個性を持った画家が登場し、京都画壇は現代まで命脈を保てたと言えよう。
(小倉 実子)(掲載日:2025-01-21)
註
「竹内栖鳳制作略年譜」『国画』2巻12月号(1942年12月)、36–38頁。
- 1943
- 栖鳳回顧展覧会, 髙島屋(日本橋), 1943年.
- 1957
- 竹内栖鳳名作展, 渋谷東横, 1957年.
- 1969
- 竹内栖鳳: その人と芸術, 山種美術館, 1969年.
- 1970
- 竹内栖鳳とその後の展開: 栖鳳・松園・五雲・翠嶂・関雪・麦僊, 京都市美術館, 1970年.
- 1978
- 竹内栖鳳展, 京都市美術館, 1978年.
- 1979
- 竹内栖鳳展, 新宿伊勢丹クローバーホール, 1979年.
- 1986
- 竹内栖鳳: 風景画を中心として, 笠岡市立竹喬美術館, 1986年.
- 1987
- 第1回 竹内栖鳳展, 王舎城美術宝物館, 1987年.
- 1988
- 第2回 竹内栖鳳展: 竹内栖鳳とその弟子展, 王舎城美術宝物館, 1988年.
- 1989
- 第3回 竹内栖鳳展: 栖鳳の学びしもの, 王舎城美術宝物館, 1989年.
- 1990
- 竹内栖鳳展: 京都画壇の巨匠, 日本橋髙島屋, 京都髙島屋, 横浜髙島屋, 大阪髙島屋, 1990年.
- 1994
- 栖鳳・松園: 本画と下絵, 京都市美術館, 1994年.
- 1997
- 大観と栖鳳: 東西画壇の両雄, 練馬区立美術館, 1997年.
- 2000
- 近代日本画の巨匠 竹内栖鳳: 生きものたちへのまなざし, 佐野美術館, 2000年.
- 2001
- 没後60年 竹内栖鳳展, 日本橋髙島屋, なんば髙島屋, 2001–2002年.
- 2005
- 竹内栖鳳とその門下生たち, 海の見える杜美術館, 2005年.
- 2013
- 竹内栖鳳展: 近代日本画の巨人, 東京国立近代美術館, 京都市美術館, 2013年.
- 2014
- 竹内栖鳳: 生誕150年記念, 海の見える杜美術館, 姫路市立美術館, 碧南市藤井達吉現代美術館, 小杉放菴記念日光美術館, 2014–2015年.
- 2023
- 竹内栖鳳: 破壊と創生のエネルギー, 京都市美術館(京都市京セラ美術館), 2023年.
- 2024
- 生誕160年 竹内栖鳳 天才の軌跡, 海の見える杜美術館, 2024年.
- 海の見える杜美術館, 広島県
- MOA美術館, 静岡県熱海市
- 京都国立近代美術館
- 京都市美術館 (京都市京セラ美術館)
- 皇居三の丸尚蔵館, 東京
- 髙島屋史料館,大阪
- 東京国立近代美術館
- 東京国立博物館
- 山種美術館, 東京
- 1899
- 黒田譲「画家 竹内棲鳳」『名家歴訪録: 上篇』東京: 黒田譲, 1899年, 288–299頁.
- 1903
- 竹内栖鳳「絵画の将来」石川松溪『名家訪問録: 第3集』東京: 金港堂, 1903年, 147–157頁.
- 1904
- 「日本画の将来 竹内栖鳳君」山田桂華編『日本画の将来』京都: 山田芸艸堂, 1904年, 1–15頁.
- 1924
- 横川毅一郎「巨匠竹内栖鳳 人及び芸術家としての六十年の過程」『中央美術』第10巻第12号 (1924年12月): 32–63頁.
- 1928
- 豊田豊「竹内栖鳳」『現代画壇の巨匠』東京: 美術春秋社, 1928年, 54–77頁.
- 1934
- 竹内栖鳳「思ひ出 画人談話編」豊田豊編『古画: 評論随筆編・画人談話編』東京: 古今堂, 1934年, 225–250頁.
- 1934
- 竹内栖鳳「明治初期画壇の顧望 画人談話編」豊田豊編『古畫 評論随筆編・画人談話編』東京: 古今堂, 1934年, 251–260頁.
- 1934
- 竹内栖鳳「『海』の絵画 画人談話編」豊田豊編『古畫 評論随筆編・画人談話編』東京: 古今堂, 1934年, 261–267頁.
- 1936
- 竹内逸『栖鳳閑話』東京: 改造社, 1936年.
- 1936
- 村松梢風「竹内栖鳳論」『本朝画人伝: 続』東京: 資文堂, 1936年, 199–216頁.
- 1940
- 「竹内栖鳳喜寿記念特集」『塔影』第16巻第11号 (1940年11月): 2–52頁.
- 1942
- 沖長璋彦『画人栖鳳』東京: 青年書房, 1942年.
- 1942
- 「竹内栖鳳追悼」『日本美術』第1巻第6号 (1942年10月): 25–49頁.
- 1942
- 「竹内栖鳳追悼特集」『国画』第2巻第12号 (1942年12月): 1–38頁.
- 1947
- 竹内逸編『栖鳳芸談』京都: 全国書房, 1947年.
- 1979
- 内山武夫「竹内栖鳳: その生涯と芸術」加藤一雄, 内山武夫『竹内栖鳳 カンヴァス日本の名画: 4』東京: 中央公論社, 1979年, 92–95頁.
- 1981
- 京都市美術館編『竹内栖鳳の素描: 資料研究 叢書・京都の美術: 3』京都: 京都市美術館, 1981年.
- 1981
- 原田平作編『竹内栖鳳』京都: 光村推古書院, 1981年.
- 1988
- 田中日佐夫『竹内栖鳳』東京: 岩波書店, 1988年.
- 1990
- 京都市美術館編『竹内栖鳳の資料と解題: 資料研究 叢書・京都の美術: 4』京都: 京都市美術館, 1990年.
- 2000
- 廣田孝『竹内栖鳳: 近代日本画の源流』京都: 思文閣出版, 2000年.
- 2013
- 平野重光編『竹内栖鳳』京都: 光村推古書院, 2013年.
- 2013
- 廣田孝監修『竹内栖鳳: 近代京都画壇の大家 別冊太陽: 日本のこころ』第211号 (2013年9月).
- 2019
- 東京文化財研究所「竹内栖鳳」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. (日本語) https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8592.html
- 2022
- 藤木晶子『竹内栖鳳: 水墨風景画にみる画境』京都: 思文閣出版, 2022年.
- 2023
- 廣田孝『竹内栖鳳と髙島屋: 芸術と産業の接点』京都: 思文閣出版, 2023年.
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「竹内栖鳳」『日本美術年鑑』昭和18年版(78-81頁)明治大正昭和三代の画界に独歩の境地を礎き、大なる足跡を残した帝室技芸員帝国芸術院会員竹内栖鳳は、神奈川県湯河原天野屋旅館別荘で病気療養中のところ肺炎のため8月23日午前6時40分死去した。享年79。同月27日洛東黒谷本房に於て葬儀執行され、畏き辺りでは幣帛並に祭粢料を御下賜、また久迩宮家より御菓子を賜り、葬儀委員長西山翠嶂をはじめ全画壇をあげての会葬があつた。同日特旨を以て位1級を進められ正4位に...
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竹内 栖鳳(たけうち せいほう、1864年12月20日(元治元年11月22日) - 1942年(昭和17年)8月23日)は、戦前の日本画家。近代日本画の先駆者で、画歴は半世紀に及び、戦前の京都画壇を代表する大家である。帝室技芸員。第1回文化勲章受章者。本名は恒吉。最初は棲鳳と号した。霞中庵の号もある。動物を描けば、その匂いまで描くといわれた達人であった。
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- 2025-03-17