A1557

高村光雲

| 1852-03-08(嘉永5年2月18日) | 1934-10-10

TAKAMURA Kōun

| 1852-03-08(嘉永5年2月18日) | 1934-10-10

作家名
  • 高村光雲
  • TAKAMURA Kōun (index name)
  • Takamura Kōun (display name)
  • 高村光雲 (Japanese display name)
  • たかむら こううん (transliterated hiragana)
  • 中島光蔵 (birth name)
  • 幸吉
生年月日/結成年月日
1852-03-08(嘉永5年2月18日)
生地/結成地
江戸浅草北清島町(現・東京都台東区)
没年月日/解散年月日
1934-10-10
没地/解散地
東京府
性別
男性
活動領域
  • 彫刻

作家解説

嘉永5年2月18日(太陽暦1852年3月8日)、江戸・浅草北清島町に中島兼松と増の次男として生まれる。幼名は光蔵[みつぞう]。父は屋台で細工物を売る商売などを営み、のちに光雲も酉の市で父親が売る熊手の制作や販売を手伝うことがあった。幼い頃から木を切ったり彫ったりするのが好きだったことから、1863(文久3)年数えで12歳のときに大工に奉公することに決まっていたところ、町内の床屋の紹介で江戸仏師の高村東雲に弟子入りした。東雲のもとでは幸吉と呼ばれた。その後、礼奉公1年を含め11年間東雲宅に住み込みで修業し、1874(明治7)年師から光雲の雅号を許され、また徴兵から逃れるため東雲の姉の家を継いで高村姓となった。 1877(明治10)年の第1回内国勧業博覧会に東雲の代作として出品した《白衣観音》(所在不明)が主席の龍紋賞を受賞し、その実力が広く知られることとなる。翌年からは師が依頼を受けた外国人向けの彫刻を代作するなかで、のちの本人の言葉を借りれば「仏様臭」さから脱して、より「写生的」な造形へと表現の幅を広げていった(高村光雲『光雲懐古談』東京: 万里閣書房、1929年)。1876年に開校した工部美術学校の彫刻学科で洋風彫刻が教えられていることを知って、そこで石膏が使われていることにも興味を抱いたという。1880年頃には大島高次郎、勝次郎(如雲)父子の鋳物工場で蝋型の原型制作に携わったように、新たな表現技法への関心や意欲をつねにもちつづけた。1880年代には内国勧業博覧会のほか、伝統的な日本美術の保護と振興を目的に設立された龍池会による観古美術会とその後身の日本美術協会展、石川光明からの誘いで自身も発起人として参加した1887年創立の東京彫工会の彫刻競技会などに出品して受賞を重ね、名実ともに東京を代表する彫刻家となった。この時期の代表作となる、新皇居を飾るブロンズ像の原型として制作された4体の木彫《狆》(1887年、所在不明)と、パリ万国博覧会への出品に間に合わなかったという日本美術協会展出品作《矮鶏[ちゃぼ]》(1889年、敦井美術館、新潟/皇居三の丸尚蔵館、東京)は、どちらも姿形のよいモデルを探すのに苦心を重ねた話が『光雲懐古談』で語られていて、対象を写生的にとらえることへの意欲が伝わってくる。 1889(明治22)年岡倉覚三(天心)からの要請を受けて、同年開校した東京美術学校(現・東京藝術大学)の彫刻科雇となり、1892年教授、また同年には宮内省より帝室技芸員に任命された。美術学校では生徒の指導のほかに、同校に依嘱された銅像の木彫原型を数多く手がけた。皇居外苑の《楠木正成像(楠公像)》(1893年原型完成、1900年竣工)や上野公園の《西郷隆盛像》(1897年原型完成、1898年竣工)といった現在も東京の名所として知られる銅像は、いずれも光雲が主任となり、同校の教員らとともに制作したものである。その間、1893年にはシカゴ・コロンブス万国博覧会に代表作となる《老猿》(東京国立博物館、1999年重要文化財指定)を出品した。その制作にあたっては猿を借りてきて研究を重ね、材となる栃も自ら山奥まで足を運んで良質なものを求めた。当初彼は栃の木肌が白いことを予想して白猿を作ることにしていたが、思っていたのとはちがう色味であったために「野育ちの老猿」を彫ることにしたという(前掲書)。小さな猿を大人の人間の大きさにまで拡大し、上半身を大きく捻り、取り逃がした鷲の羽根を左手に握ってその逃げ去った先を見つめる迫真的でダイナミックな造形は、明治期を代表する彫刻作品と呼ぶにふさわしい。 その後、どちらも皇居三の丸尚蔵館が所蔵する、1900(明治33)年のパリ万国博覧会出品作《山霊訶護[さんれいかご]》(1899年)や《鹿》(1920年)といった高さ50–60センチ程度の、対象を写実的にとらえた作品を制作したほか、《大倉鶴彦[つるひこ]翁夫妻肖像》(1927年、大倉文化財団、東京)、《佐伯定胤[さえきじょういん]和上像》(1930年、法隆寺、奈良)などの肖像彫刻の優品ものこした。ただしこれら2点の肖像は長男の高村光太郎が原型を担当したという(註)。近年の調査・研究により、大正期以降の作品ではその石膏原型がいくつか現存し、塑造により原型を制作したのちに木彫に写す方法を用いていたことが確認されている。美術学校での指導の一方で、自らの工房に多くの弟子を抱えて作品を制作していくシステムは、江戸時代からの徒弟制度に新しい表現技法や制作工程を組み入れたともいえ、近代日本彫刻の特徴的な一側面を表わしている。 もともと仏師の修業をした彼にとって、仏像の制作は自らの本領を発揮できる最も重要な仕事であった。展覧会出品作や肖像彫刻、屋外に設置された銅像(モニュメント)を手がける一方で、彼は生涯にわたって仏像を作りつづけた。その代表的なものには、東京美術学校に依嘱された京都・知恩院の《観音像》(1892年、木型は東京藝術大学)、弟子の米原雲海との共作である信濃善光寺仁王門の《仁王像》一対と《三宝荒神立像》、《三面大黒天立像》(いずれも1919年)、高野山伽藍金堂本尊の《薬師如来像》(1934年)がある。そのほか数多くのこされている小品の仏像も、近代の仏師の作品として魅力的なものである。光雲の全貌は近代の彫刻家としてだけでなく、そのような仏師としての側面も含めて考えねばならず、そこにこそ近代日本彫刻史における彼の造形の特質も見出されるであろう。 1922(大正11)年、長男の光太郎と小説家・田村松魚[しょうぎょ]は光雲からの聞き書きを始め、翌年の雑誌『中央公論』4、7、9月号に「(田村松魚聞書)光雲翁昔ばなし」として連載されたのち、1929年に『光雲懐古談』として出版された。同書はその聞き書きの「昔ばなし」と、光雲自身の著述を「想華篇」としてまとめて、合わせて一冊にしたものである。そのうちの「昔ばなし」は幕末から明治・大正期の彫刻界、それを取り巻く人びとの生活や社会の動きをいきいきと物語るものとして、戦後も『木彫七十年』(東京: 中央公論美術出版、1967年)、『高村光雲懐古談』(東京: 新人物往来社、1970年)、『幕末維新懐古談』(岩波文庫、東京: 岩波書店、1995年)といった書名で復刻されている。一方、「想華篇」には、自らがその系譜を継いだ江戸の仏師である高橋鳳雲やその兄の高橋宝山、出雲の指物師小林如泥[じょでい]、社寺の堂宇を多彩な装飾彫刻で飾った彫刻師たちや、修業時代に手本にした本所・羅漢寺の五百羅漢像のこと、光雲自身も浅草の見世物興行を実見して感嘆した幕末・明治初期の生人形師松本喜三郎についてなど、雑誌に発表された光雲自身の文章や講演記録が収められている。それらからは、光雲の彫刻表現の背景に広がっていた江戸時代からつづく立体造形の世界の多様さと奥行きの深さが伝わってくる。 彫刻家としての作品制作以外にも、光雲は東京美術学校や自らの工房で多くの若い彫刻家を育て、長く彫刻界の長老としての位置にあった。1907(明治40)年の文部省美術展覧会(文展)開設に際しては第1回展から最後の1918(大正7)年の第12回展まで第三部(彫刻)の審査委員をつとめ(第7–9回は主任)、翌1919年には帝国美術院会員に任命された。1926年に東京美術学校教授を依願免官となり(同年名誉教授)、翌年帝国美術院会員からも退いた(1930年再任命)。1934(昭和9)年10月10日、東京で病没。長男・光太郎はつねに父の存在の大きさと格闘しつつ近代日本を代表する彫刻家・詩人となった。三男・豊周[とよちか]は鋳金家として活躍し、その息子の写真家・高村規[ただし]は生涯をかけて光雲の作品を撮影し、その発掘と顕彰に努めた。 (田中 修二)(掲載日:2023-09-27) 註 高村豊周「父の代作」『月報 4』(『高村光太郎全集 第四巻』付録)、東京:筑摩書房、1957年(再掲:1995年、4–6頁)。

1937
高村光雲先生遺作木彫展観, 常盤楼, 1937年.
1995
高村光雲記念写真展, 和光ホール, 1995年.
2002
高村光雲とその時代展, 三重県立美術館, 茨城県近代美術館, 千葉市美術館, 徳島県立近代美術館, 2002年.
2003
高村規写真展: 「木彫・高村光雲」, ギャラリーシビック (文京シビックセンター1階), 2003年.
2011
高村光雲と石川光明, 清水三年坂美術館, 2011年.
2021
「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展, 東京藝術大学大学美術館・正木記念館2階, 2021年.
2022
善光寺さんと高村光雲:未来へつなぐ 東京藝術大学の調査研究から: 善光寺御開帳記念, 長野県立美術館, 2022年.

  • 東京国立博物館
  • 三の丸尚蔵館, 東京
  • 東京藝術大学大学美術館

1926
高村光雲「明治初年の彫刻に就て」上『国華』第429号 (1926年8月): 228-230頁 [自筆文献].
1926
高村光雲「明治初年の彫刻に就て」下『国華』第430号 (1926年9月): 254-259頁 [自筆文献].
1928
高村光雲「明治初期の彫刻」『世界美術全集: 第29巻』下中彌三郎編. 東京: 平凡社, 1928年, 21-24頁 [自筆文献].
1929
高村光雲『光雲懐古談』東京: 萬里閣書房, 1929年 [自筆文献].
1938
須賀利雄「楠公銅像製作の由来」『美術研究』第73号 (1938年1月): 28-40頁. 東京: 美術研究所.
1958
高村光太郎「回想録」『美術』2巻1号 (1945年1月): 20-30頁 (再録: 『髙村光太郎全集: 第10巻』東京: 筑摩書房, 1958年, 増補版1995年, 3-51頁).
1958
高村光太郎「父との関係: アトリエにて」[連載]2-4『新潮』第51巻第3号 (1954年3月): 20-25頁; 第51巻第4号 (1954年4月): 40-45頁; 第51巻第5号 (1954年5月): 50-55頁 (再録: 『髙村光太郎全集: 第10巻』東京: 筑摩書房, 1958年, 増補版1995年, 225-257頁).
1967
高村光雲『木彫七十年』東京: 中央公論美術出版, 1967年 [自筆文献].
1968
高村豊周『自画像』東京: 中央公論美術出版, 1968年.
1970
高村光雲『高村光雲懐古談』東京: 新人物往来社, 1970年 [自筆文献].
1986
山崎隆之「仏像の造像比例法: 高村光雲「仏師木寄法」について」『愛知県立芸術大学紀要』15号 (1986年3月): 1-16頁.
1994
田中修二『近代日本最初の彫刻家』東京: 吉川弘文館, 1994年.
1995
高村光雲『幕末維新懐古談 岩波文庫』東京: 岩波書店, 1995年 [自筆文献].
1995
「明治の木彫王 高村光雲ものがたり」『芸術新潮』46巻3号 (1995年3月): 4-35頁.
1996
志邨匠子「高村光雲作《老猿》をめぐる彫刻と工芸」『美学』46巻4号 (1996年3月): 25-36頁.
1997
池上香苗『「光雲懐古談」の世界: 近代日本彫刻の形成に関する考察』東京: 建帛社, 1997年.
1999
高村規撮影『高村規全撮影: 木彫高村光雲』東京: 中教出版, 1999年.
2002
三重県立美術館, 茨城県近代美術館, 千葉市美術館, 徳島県立近代美術館, 美術館連絡協議会編『高村光雲とその時代展』[津]: 三重県立美術館, 2002年 (会場: 三重県立美術館, 茨城県近代美術館, 千葉市美術館, 徳島県立近代美術館).
2011
村田理如監修『高村光雲と石川光明 帝室技芸員 series, 3 彫刻』京都: 清水三年坂美術館, 2011年 (会場: 清水三年坂美術館) [展覧会カタログ].
2019
「調査 長野県 善光寺 仁王門諸像 仁王像・三宝荒神立像・三面大黒天立像」『年報』2018-2019 (2019年10月): 117-129頁. 東京: 東京藝術大学大学院文化財保存学保存修復彫刻研究室.
2022
藤曲隆哉『高村家資料の調査研究: 光雲・光太郎・豊周の作品制作』東京: 東京藝術大学大学院文化財保存学保存修復彫刻研究室, 2022年.

Wikipedia

高村 光雲(たかむら こううん、1852年3月8日(嘉永5年2月18日) - 1934年(昭和9年)10月10日)は、日本の仏師、彫刻家。幼名は光蔵。高村光太郎は長男、高村豊周は三男。写真家の高村規(ただし)は孫(豊周の息子)。

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VIAF ID
2363287
ULAN ID
500121400
AOW ID
_00043224
Benezit ID
B00179190
NDL ID
00078664
Wikidata ID
Q2080344
  • 2024-02-29