- 作家名
- 高松次郎
- TAKAMATSU Jirō (index name)
- Takamatsu Jirō (display name)
- 高松次郎 (Japanese display name)
- たかまつ じろう (transliterated hiragana)
- 田中新八郎 (real name)
- 高松新八郎 (real name)
- 生年月日/結成年月日
- 1936-02-20
- 生地/結成地
- 東京府
- 没年月日/解散年月日
- 1998-06-25
- 没地/解散地
- 東京都三鷹市
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
- 彫刻
- 写真
- コンセプチュアルアート
作家解説
1936(昭和11)年、現在の東京都渋谷区に、職業軍人の田中彌[わたる]と妻・栄の第3子として生まれた。本名は新八郎。1歳のとき父が死去し、幼少期に東京西部に移る。高校時代に母方の生家に養子に入り、高松姓となった。1954年東京藝術大学油画科に入学、同級の中西夏之とは生涯にわたって交友した。1958年の大学卒業後、しばらく会社勤めのかたわら制作を続け、読売アンデパンダン展(読売新聞社主催の日本アンデパンダン展)にほぼ毎年参加した。同展を舞台に反芸術に熱狂する美術家たちに混ざり、高松も廃物利用のオブジェを作り始める。1962年10月には、中西ら数人と《山手線フェスティバル》(註)と題したイベントを企て、紐に廃品を絡ませた作品を山手線ホームで引きずるなどして、公共空間に芸術を侵出させた。
紐は1963年3月の第15回読売アンデパンダン展にも登場し、トランクやテーブルに絡まりさらに展示空間そして美術館外に伸びた。同年5月に中西、赤瀬川原平らと匿名の芸術家集団ハイレッド・センターを結成。翌年にかけて、ビルの屋上から物を落とす《ドロッピングイベント》や、銀座の街路を無許可で掃除する《首都圏清掃整理促進運動》などのイベントを行った。「芸術」の名のもとに、東京の路上でハイレッド・センターが遂行した侵犯は、オリンピックという国家行事に猛進する全体主義への鋭利な批評行為であった。
ハイレッド・センターの活動と並行して、高松は後に「世界拡大計画」としてまとめるテキストを執筆し始める。不在にこそ事物の充全性、いわば生の意欲を見出せるという考えは、影のみがあって発生源がない非現実的な状況を描いた作品として具体化された。その〈影〉の作品は、当時創設されたばかりの第2回長岡現代美術館賞(《カーテンを開けた女の影》1965年、新潟県立近代美術館 寄託)を受賞し、注目を集めた。翌1966年に現代美術専門画廊である東京画廊で個展「アイデンティフィケーション」を開催。壁に直接人物の影を描き込み、それら偽物の影が訪れた人々の本物の影と混ざり合うという、ハプニングが起こる空間を作り出した。同様の試みとして、倉俣史朗デザインの飲食店サパー・クラブ・カサドール(東京・新宿)、磯崎新設計の福岡シティ銀行応接室(福岡・博多)などがある。高度経済成長期の高揚感と疎外感を、空想科学小説のような奇抜な設定の中に鮮やかに浮き上がらせた〈影〉シリーズは、高松の代名詞となった。同じ頃に同世代の美術家である荒川修作や宇佐美圭司が作品に影を登場させ、影をめぐり批評家たちが時代のイメージ論としての「影論争」を交わすことともなった。
続けて高松は、《遠近法の椅子とテーブル》(1966–1967年、東京国立近代美術館)を発表する。グリッド線の入った白い椅子とテーブルは、絵の中の透視図のとおりに手前が大きく、奥が小さく作られている。ルネサンス以来の西欧絵画の作図法を3次元に適応して遠近法の特殊性を際立たせ、近代の空間概念を相対化した。遠近法を主題とした作品は、1968年第34回ヴェネツィア・ビエンナーレや、1970年万国博覧会などの国際的な舞台でも披露された。
1970年、第10回日本国際美術展(東京ビエンナーレ)に招待された高松は、丸太の一部を削り等間隔に並べた《16の単体》(発表時タイトルは《波間》、消失)を出品した。加工をわずかに施しただけの自然物を床に直置きして、イリュージョンの発生を否定しようとするこの作品は、西ヨーロッパと北アメリカから来日していた美術家たちと、問題意識を共有していた。ここで高松は、アルテ・ポーヴェラ、ミニマリズム、コンセプチュアルアートといった欧米の美術動向と接続する。
〈単体〉に続く〈複合体〉シリーズで高松は、家具、ブロック、金属棒といった工業製品を組み合わせて床に置き、あるいは壁に立てかけて、それらが日常的に持つ機能と名称を失効させ、事物の存在様態を捉え直そうとした。同様の構造をもつ鉄の彫刻《錆びた大地》(個人蔵)は、1977年の第6回ドクメンタに出品されている。1970年代前半の特筆すべき活動に、「塾」と自主企画展がある。塾は大学紛争後の自主ゼミナールとして、読書会や合評会、討議を自身のアトリエで行ったもので、講師に批評家の中原佑介や美術家の斎藤義重らが招かれた。また高松は塾生とともに、アトリエやその近辺で展覧会を行なった。これらは教育や展示という側面から、美術の制度性を問う試みだった。
活動の後半20年の関心は、平面に向けられた。1970年代後半には、弧と直線の組み合わせによって絵画空間が自動生成する、〈平面上の空間〉シリーズを制作。1980年代と1990年代に、それまでの抑制を解くように、色数が増え筆触は奔放になって画面は豊潤さを増した。やがて曲線の絡まりの中から精神の原型を示すような形象があらわれた。これらの絵画群は、絵画という伝統的形式への回帰やイメージの復活という点で、1970年代後半から1980年代にかけての平面の台頭や表現主義の復権という文脈のなかに位置付けられてきた。だが、高松の内的展開の意味が十分に検証されているとは言えず、今後の研究が待たれる。
1996年に新潟市美術館と地元の三鷹市美術ギャラリー(東京)の2カ所で個展を開催し、最新作として絵画の連作《形/原始》(国立国際美術館、大阪)を発表。およそ2年後の1998年6月、闘病の甲斐なく死去した。
高松次郎は、日本が敗戦から復興を遂げ高度経済成長の波に乗る1960年代に、戦前の画壇制度を軸とする価値観を脱して成立した、発展の時代を象徴する「現代美術」の中心的存在であった。近代の認識構造を相対化する批評性に富んだ1960年代後半の作品群は、同時代の美術家や批評家たちに大きな影響を与えた。なかでも、李禹煥や関根伸夫らが高松を批判的に継承し、「もの派」の理論を構築したことは、没後の調査や展覧会を通して検証されてきた。2010年代以降は欧米での紹介が進み、美術史を読み直す動きの中で、国際的な動向との共時性が着目される。
思考の器として高松が作り出した作品は独特の触知性を持ち、単なる図解にとどまらない。そこから発せられる探究心旺盛な創作意欲は、今も私たちの目に新鮮に映る。
(神山 亮子)(掲載日:2023-09-11)
註
このイベントは「山手線事件」の名称でも知られている。
- 1963
- 第5次ミキサー計画, 新宿第一画廊, 1963年.
- 1966
- 高松次郎: アイデンティフィケーション, 東京画廊, 1966年.
- 1968
- 第34回ヴェネツィア・ビエンナーレ, 日本館, ヴェネツィア, 1968年.
- 1969
- 第6回パリ青年ビエンナーレ, パリ市立近代美術館, 1969年.
- 1970
- 第10回 日本国際美術展: 人間と物質: 東京ビエンナーレ, 東京都美術館, 京都市美術館, 愛知県美術館, 福岡県文化会館, 1970年.
- 1970
- 1970年8月: 現代美術の断面, 東京国立近代美術館, 1970年.
- 1970
- アトリエ開放展, 高松次郎アトリエ, 1970年.
- 1976
- 七人のイタリア作家と七人の日本作家: 新しい認識への方法・美術の今日展, イタリア文化会館, 東京, 1976年.
- 1977
- ドクメンタ6 [documenta 6], カッセル, ドイツ, 1977年.
- 1980
- 現代の作家2: 高松次郎, 元永定正, 国立国際美術館, 1980年.
- 1995
- 1970年: 物質と知覚: もの派と根源を問う作家たち [Matter and Perception 1970: Mono-ha and The Search for Fundamentals], 岐阜県美術館, 広島市現代美術館, 北九州市立美術館, 埼玉県立近代美術館, サン=テティエンヌ・メトロポール近現代美術館 [Musee D'Art Moderne et Contemporain de Saint-Étienne Métropole], 1995–1996年.
- 1996
- 高松次郎の現在, 新潟市美術館, 三鷹市美術ギャラリー, 1996年.
- 2000
- 高松次郎: 1970年代の立体を中心に, 千葉市美術館, 2000年.
- 2004
- 高松次郎: 思考の宇宙, 府中市美術館, 北九州市立美術館, 2004年.
- 2005
- もの派: 再考, 国立国際美術館, 2005年.
- 2005
- 横浜トリエンナーレ2005: アートサーカス: 日常からの跳躍, 山下ふ頭, 横浜, 2005年.
- 2012
- 東京1955–1970: 新しい前衛 [Tokyo, 1955–1970: A New Avant-garde], ニューヨーク近代美術館, 2012–2013年.
- 2014
- 高松次郎ミステリーズ, 東京国立近代美術館, 2014–2015年.
- 2015
- 高松次郎: 制作の軌跡, 国立国際美術館, 2015年.
- 2017
- Jiro Takamatsu: Temperature of the Sculpture, ヘンリー・ムーア・インスティテュート, 2017年.
- いわき市立美術館, 福島県
- 国立国際美術館, 大阪
- 東京国立近代美術館
- 東京都現代美術館
- 豊田市美術館, 愛知県
- 兵庫県立美術館
- 三鷹市美術ギャラリー
- メトロポリタン美術館, ニューヨーク
- テート・モダン, ロンドン
- ダラス美術館
- 1966
- 石子順造「高松次郎論 クリティカル・アーチスト: 3」『現代美術』第8号 (1966年2月): 16-27頁. 東京: サン・プロダクション.
- 1967
- 高松次郎「世界拡大計画: 不在性についての試論 (概説)」『デザイン批評』第3号 (1967年6月): 60-67.
- 1969
- 李禹煥「高松次郎: 表象作業から出会いの世界へ」『美術手帖』320号 (1969年12月): 140-144, 153-165頁. (再録: 李禹煥『出会いを求めて: 新しい芸術のはじまりに』東京: 田畑書店, 1971年).
- 1970
- 針生一郎「高松次郎の10年」『高松次郎1961~70』[東京]: [ピナール画廊], 1970 (会場: ピナール画廊) [展覧会カタログ].
- 1972
- 高松次郎「断片的文章」[連載] 1-3『美術史評』第2次1号 (1972年8月) 10–50頁; 第2次2号 (1973年4月): 8-24頁; 第2次3号 (1974年4月): 4-23頁. 東京: 美術史評社 [自筆文献].
- 1974
- 高松次郎「台本 (身体と精神の作品化のために)」『季刊トランソニック』2号 (1974年4月). 東京: 全音楽譜出版社 [自筆文献].
- 1974
- 宮川淳, 高松次郎, 中原佑介「事物と言語: 様式から状況へ」『芸術倶楽部』第8号 (1974年4月): 110-128頁. 東京: フィルムアート社.
- 1977
- 高松次郎「金網の柵に沿った長い道」『季刊現代彫刻』第12号 (1977年3月): 134-136頁. 東京: 聖豊社 [自筆文献].
- 1980
- 中原佑介「知覚の統御 特集高松次郎」『みづゑ』第902号 (1980年5月): 4-27.
- 2003
- 高松次郎『世界拡大計画』東京: 水声社, 2003年 [自筆文献].
- 2003
- 高松次郎『不在への問い』東京: 水声社, 2003年 [自筆文献].
- 2005
- 中井康之「もの派: 再考」国立国際美術館編『もの派: 再考』[大阪]: 国立国際美術館, 2005年, 9-21頁 (会場: 国立国際美術館) [展覧会カタログ].
- 2008
- ユミコチバアソシエイツ編『Photograph: Jiro Takamatsu』広島: 大和プレス, 2008年.
- 2009
- ユミコチバアソシエイツ編『Jiro Takamatsu: All Drawings』広島: 大和プレス, 2009年.
- 2011
- 光田由里『高松次郎言葉ともの: 日本の現代美術1961-72』東京: 水声社, 2011年.
- 2012
- Jiro Takamatsu Critical Archive, 4 vols. 東京: ユミコチバアソシエイツ, 2012年.
- 2014
- 真武真喜子, 神山亮子, 沢山遼, 野田吉郎, 森啓輔編『高松次郎を読む』東京: 水声社, 2014年.
- 2016
- Fogle, Douglas. “The Skin of the World”, in Jiro Takamatsu: Works, 1966-1978, 8-15. [Exh. cat.]. New York: Fergus McCaffrey, 2016 (Venue: Fergus McCaffrey).
- 2019
- 東京文化財研究所「高松次郎」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. (日本語) https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10678.html
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「高松次郎」『日本美術年鑑』平成11年版(422-423頁)60年代から今日まで、芸術表現に一貫して根源的な問いとかけと視点をもちつづけながら、作品と言説においてつねに現代美術をリードしていた美術家高松次郎(本名、高松新八郎)は、直腸ガンのため東京都三鷹市の病院で死去した。享年62。昭和11(1936)年、2月20日東京に生まれ、同34年東京芸術大学美術学部絵画科油絵専攻を卒業、同年3月に第10回読売アンデパンダン展に出品。同38年、赤瀬川原平、中西夏之と...
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高松次郎(たかまつ じろう、昭和11年(1936年)2月20日 - 平成10年(1998年)6月25日)は、前衛美術、現代日本美術家。本名は新八郎。
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- 2024-02-16