A1483

新海竹太郎

| 1868-02-27(慶応4年2月5日) | 1927-03-12

SHINKAI Taketarō

| 1868-02-27(慶応4年2月5日) | 1927-03-12

作家名
  • 新海竹太郎
  • SHINKAI Taketarō (index name)
  • Shinkai Taketarō (display name)
  • 新海竹太郎 (Japanese display name)
  • しんかい たけたろう (transliterated hiragana)
生年月日/結成年月日
1868-02-27(慶応4年2月5日)
生地/結成地
山形県山形市
没年月日/解散年月日
1927-03-12
没地/解散地
東京都
性別
男性
活動領域
  • 彫刻

作家解説

慶応4年2月5日(太陽暦では1868年2月27日)、現在の山形県山形市中心部に、仏師新海宗松、サダの長男として生まれる。家業を学び、10代半ばには父親も師事した山形県大江の仏師林治郎兵衛のもとで修業した。大江町(個人蔵)や山形市内の法来寺、白鷹町[しらたかまち]の塩田行屋[しおたぎょうや]に伝わる少年時代の彼が制作した仏像は、いわゆる「地方」的な造形ではあるものの、父親も刃物の研ぎ方に感心したという技量を十分に感じさせる。一方、1883(明治16)年からは自宅近くで漢学塾を開いていた細谷風翁[ほそやふうおう]・米山[べいざん]父子に漢学や書画を学んで深い感化を受け、軍人を志した。 1886(明治19)年陸軍士官を目指して出奔、上京したが希望は叶わず、1888年12月に徴兵適齢により近衛騎兵大隊に入営した。在隊中の1891年に手すさびで作った馬の木彫が上官の目にとまり、彫刻家になることを勧められて軍人出身の彫刻家後藤貞行のもとに通い、同年11月に満期除隊後、後藤の家に住み込んで彫刻を学んだ。翌年には後藤の助手として、当時東京美術学校(現・東京藝術大学)で高村光雲を中心に進められていた、《楠木正成像(楠公像)》(1900年、皇居外苑)の原型制作を手伝った。1893年独立し、翌年の第9回彫刻競技会に木彫《闘馬》(所在不明)を出品して銅賞牌を受賞した。 日清戦争とそれにつづく台湾占領に従軍し、帰国後の1896(明治29)年、台湾の陣中で没した北白川宮能久[よしひさ]親王の銅像原型制作を依嘱され、1899年に木彫原型を完成させた。彼の出世作となったその銅像は、1903年に近衛歩兵第一、第二連隊営門前に設置・除幕され、戦後に北の丸公園内に移設されて現存する。その原型制作に取り組んでいた頃、彼は山崎朝雲、米原雲海ら同世代の木彫家らと研究グループを結成し、1898年には岡倉覚三(天心)が創設した日本美術院に正員として参加、一方で洋画家浅井忠にデッサンを、洋風彫刻家小倉惣次郎に塑造を学んで表現の幅を広げていく。1900年にはパリ万国博覧会視察をかねて渡欧し、数カ月をパリで過ごしたのち、同年夏から翌年11月までベルリンに留学した。同地ではアカデミズムの大家エルンスト・ヘルターに師事して本格的な塑造技法を学びつつ、オーギュスト・ロダンやアレクサンドル・シャルパンティエ、コンスタンタン・ムーニエ、アドルフ・フォン・ヒルデブラントらによるヨーロッパ彫刻の新たな潮流にも接した。 1902(明治35)年1月に帰国後、30代半ばの新海は新進気鋭の洋風彫刻家として活躍する。明治美術会の後身として同年発足した太平洋画会の会員となり、同展で清新な表現による作品を次々と発表するとともに、1904年に設立された同会の研究所で彫刻を指導し、堀進二や中原悌二郎、戸張孤雁らを育てた。また雑誌や新聞に彫刻に関する論考を盛んに寄稿し、1903年には丸善が販売する西洋の文豪の石膏像を制作するなど彫刻芸術の普及に努めるとともに、家具のデザインや書籍の装丁も手がけた。 1907(明治40)年の第1回文部省美術展覧会(文展)に出品した等身大の女性の全身裸体像である石膏製《ゆあみ》(東京国立近代美術館、2000年重要文化財指定)は、アール・ヌーヴォー風の装飾が施された専用の台座の上に置かれ、西洋の古典彫刻の表現をふまえながら日本女性の顔立ちやしぐさを的確にとらえ、新しい時代の造形表現の潮流も取り入れた意欲作であった(註)。その後も塑造と木彫、丸彫と浮彫といった多彩な表現技法を駆使して、進化論に取材した《原人》(1909年、現存せず)、片足を失って松葉杖をつく兵士の木彫像《戦捷記念日》(1912年、皇居三の丸尚蔵館、東京)、釈迦の生涯を表現した浮彫《釈迦八相》(1915年、現存せず)、分離派的な作風を思わせる浮彫《道成寺》(1922年、現存せず)など、古今東西のさまざまな主題による作品を制作した。「日本の新彫刻の(中略)遠景には実に五大洲を含んで居る」のであり、「従来の法則や定義などには拘泥せず思ひ切つたことを遣つて見るが宜しい」(「日本彫刻」『東京朝日新聞』1909年12月7日)、「自分は、彫塑を広義に解釈して居る。世界は広大無辺である(中略)出来る丈、広く大きく遣るべしサ」(「彫塑の進歩」『読売新聞』1911年10月15日)といった彼の言葉からは、写実を基調としつつ、当時の日本という場のなかで独自の造形を追究する姿勢がうかがわれる。 1912(明治45)年に彼が「浮世彫刻」として発表した塑造による石膏製の作品群でも、新海は人びとの日常生活などに題材をとって、「ロダンの真似のやうだとさへ言はれるやうな気使ひのない」ものを目指した(「新試作『浮世彫刻』」『書画骨董雑誌』47号、1912年4月)。そのうちの《こゞえる手先ふところに(梅川忠兵衞)》(1912年、ブロンズ製は山形美術館)は近松門左衛門による歌舞伎「恋飛脚大和往来[こいのたよりやまとおうらい]」での道行の場面を主題に、1本の傘の下で寄り添う、命を賭した男女の愛情が濃密に表現されている。そうしたヒューマニスティックな方向性は、荷車で大きな積み藁を運ぶ夫婦を表現した前年の木彫《一致》(1911年、皇居三の丸尚蔵館)や、新海の作品の鋳造を多く手がけた鋳物師阿部胤斎[いんさい]をモデルに、ドイツの詩人シラーの詩をモチーフにした晩年の木彫《鐘ノ歌》(1924年、皇居三の丸尚蔵館)にも見ることができる。 大正期の新海は、朝倉文夫らとともに彫刻の制作だけで十分に生活できる数少ない塑造家の一人であり、中国陶磁や西洋・東洋の美術書を数多く収集した。その主な収入源であった肖像彫刻のうちには、軍人の大山巌(1918年、東京・九段坂公園)、皇族の有栖川宮威仁[たけひと]親王(1920年、福島・天鏡閣)、政治家の平田東助(1921年、米沢市内)、英国人建築家ジョサイア・コンドル(1922年、東京大学構内)といったモニュメンタルな銅像の秀作が数多く含まれる(《コンドル像》以外は移設後の現設置場所)。これらの大作を次々と手がけ、文展のすべての回で審査委員をつとめ、1917(大正6)年に帝室技芸員、1919年には帝国美術院会員に任命された彼は、大正期彫刻界の中心的な存在であった。とはいえ多くの彫刻家を輩出した東京美術学校と直接のつながりをもたない彼は、堀進二や国方林三、浅川伯教[のりたか]、甥の新海竹蔵といった優れた教え子たちを育てながらも、つねに在野的な立場にあったといえる。交友関係では美術家よりも、美術史家の平子鐸嶺[ひらこたくれい]や中川忠順[ただより]、文学者の内田魯庵、美学者大塚保治、宗教学者高島米峰、建築家伊東忠太、陶磁器研究家の奥田誠一ら他分野の人びとと深く交わり、その交流が新海の作品にも大きな影響を与えている。また東京帝国大学の建築学科で塑造の授業を担当し、1920年に分離派建築会を結成する学生たちも指導した。 1927(昭和2)年3月12日、東京で病没。没後、遺作集『古竹遺韻[こちくいいん]』(東京: 大塚巧藝社)が刊行され、1930年には郷里の山形市中心部に新海竹蔵による胸像が設置された(歌懸稲荷神社境内)。1934年竹蔵は帝国美術院から明治大正美術史編纂の一環として竹太郎の伝記執筆を依頼され、故人を知る友人・知人らへの綿密な取材をもとにそれを完成させた。その原稿は公表されないまま、戦後も長く帝国美術院附属美術研究所の後身である東京国立文化財研究所(現・東京文化財研究所)に保管されていたが、1974年に所員の中村傳三郎が発見し、1981年に遺族らにより私家版として竹太郎の著述なども合わせて収録したかたちで刊行された(新海竹蔵撰『新海竹太郎伝』新海尭、1981)。1968年に完成した山形美術博物館(現・山形美術館)の別館に遺作陳列室が設置された際には、竹蔵が展示指導にあたった。 (田中 修二)(掲載日:2023-09-27) 註 《ゆあみ》のブロンズ像は没後鋳造が4体ある。1957年に新海竹蔵が監修して2体が鋳造され、東京国立近代美術館と山形市に収蔵された。のちにさらに2体が鋳造され、山形美術館と山口県立美術館が所蔵する。

1930
遺作展覧会, 山形県立物産陳列所, 1930年.
1955
新海竹太郎先生を偲ぶ展覧会, 山形中央公民館画廊, 1955年.
1966
新海竹太郎遺作展, 山形美術博物館, 1966年.
2013
湯殿山信仰、異形の神仏: 白鷹町の仏像展 2: 塩田行屋の「御沢仏」, 白鷹町文化交流センター Ayu:M, 2013年.
2014
ヤマノカタチノモノガタリ: 地域文化遺産の保存と伝承: 東北芸術工科大学文化財保存修復研究センター研究成果展, 山形県郷土館 文翔館, 2014年.
2021
山形で考える西洋美術: 「ここ」と「遠く」が触れるとき: 令和3年度国立美術館巡回展: 国立西洋美術館コレクションによる, 山形美術館, 2021年.

  • 山形美術館
  • 山形県立図書館
  • 東京国立近代美術館
  • 三の丸尚蔵館, 東京
  • 東京藝術大学大学美術館

1894
夢龍「異材顕秘録 彫馬一刀」『二六新報』第102号 (1894年3月17日): 1面.
1894
夢龍「異材顕秘録 彫馬一刀」『二六新報』第103号 (1894年3月18日): 1面.
1936
狩野鐘太郎「天才彫刻家 新海竹太郎小伝」『伝記』第3巻第8号 (1936年8月): 34-41頁.
1940
「第二三 新海竹太郎」『山形市郷土読本』山形: 山形市教育会, 1940年, 120-128頁.
1955
山形市中央公民館編『新海竹太郎』[出版地不明]: 新海竹太郎先生胸像再建実行委員会, 1955年.
1969
『新海竹蔵作品集』[東京]: 国画会彫刻部, 1969年.
1981
新海竹蔵撰『新海竹太郎伝』[東京]: 新海堯, 1981年.
1992
山形美術館学芸課編『山形美術館作品集』山形: 山形美術館, 1992年.
1994
加藤千明「近代彫刻の巨匠 新海竹太郎」『山形の人: 1 「人国記」シリーズ 新アルカディア叢書: 第8集』山形: 山形県生涯学習人材育成機構, 1994年, 207-230頁.
1997
坂本雅子「新海竹太郎のドイツ留学」『東海大学短期大学紀要』31号 (1997年): 5-12頁.
2000
坂本雅子「屋外彫刻保存の意味: 新海竹太郎制作「市川紀元二像」の修復をとおして」『Matrix』16号 (2000年3月): 5-18頁. 平塚:東海大学芸術研究所.
2002
田中修二『彫刻家・新海竹太郎論』鶴岡: 東北出版企画, 2002年.
2005
磯崎康彦「彫刻家新海竹太郎の有栖川宮威仁親王銅像と天鏡閣」『福島大学研究年報』1号 (2005年12月): 122-128頁.
2006
田中修二「彫刻家の収支の記録: 新海竹太郎(1868-1927)の資料から」『日本アートマネジメント学会全国大会予稿集』第8回 (2006年): 26-29頁.
2008
長坂一郎「山形美術館蔵新海竹太郎作「聖観音像」の制作背景について」『東北芸術工科大学紀要』15号 (2008年3月): 177-166頁.
2013
岡田靖, 宮本晶朗「新海宗慶(宗松)および少年期の新海竹太郎の造形的特徴における新知見: 神仏分離に伴う古仏修理から得られた造形理解に関する考察」『東北芸術工科大学文化財保存修復研究センター紀要』3号 (2013年3月): 45-64頁.
2013
『文化財保存修復研究センター研究成果報告書』平成24年度 (2013年) 山形: 東北芸術工科大学文化財保存修復研究センター.
2014
齊藤祐子「新海竹太郎 ゆあみ」『国華』第1426号 (2014年8月): 49-51頁.
2014
「新海竹太郎関連ガラス乾板DB」東京文化財研究所. 公開日2014年.
2015
田中修二「研究資料「新海竹太郎資料」について」『美術研究』第416号 (2015年8月): 49-75頁.
2021
新藤淳責任編集『山形で考える西洋美術|高岡で考える西洋美術: 「ここ」と「遠く」が触れるとき: 令和3年度国立美術館巡回展: 国立西洋美術館コレクションによる』東京: 国立西洋美術館, 2021年 (会場: 山形美術館, 高岡市美術館).

Wikipedia

新海 竹太郎(しんかい たけたろう、慶応4年2月10日(1868年3月3日) - 昭和2年(1927年)3月12日)は、現在の山形県山形市生まれの彫刻家。息子に画家の新海覚雄がいる。

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VIAF ID
251699132
ULAN ID
500329636
AOW ID
_00041399
NDL ID
00126686
Wikidata ID
Q11502732
  • 2024-03-01