A1415

坂本繁二郎

| 1882-03-02 | 1969-07-14

SAKAMOTO Hanjirō

| 1882-03-02 | 1969-07-14

作家名
  • 坂本繁二郎
  • SAKAMOTO Hanjirō (index name)
  • Sakamoto Hanjirō (display name)
  • 坂本繁二郎 (Japanese display name)
  • さかもと はんじろう (transliterated hiragana)
生年月日/結成年月日
1882-03-02
生地/結成地
福岡県久留米市
没年月日/解散年月日
1969-07-14
没地/解散地
福岡県八女市
性別
男性
活動領域
  • 絵画

作家解説

坂本繁二郎は、1882(明治15)年、現在の福岡県久留米市に生まれた。久留米高等小学校在学中の10歳の頃より、久留米在住の画家・森三美[みよし](1872–1913)について洋画を習い始める。森のもとでは、鉛筆デッサンに始まり、イギリス製の習画帳などを使った模写、写生などが行われ、カンヴァスや油絵具、絵具を保管するチューブまで手作りであった。遠近法を教わった坂本は、それまで親しんでいた日本画と異なり、西洋の描き方が理屈にかなって迫真的であることに感動する。1895年、高等小学校を卒業した坂本は、父を早くに亡くしていたため、進学を断念し、絵を描いて過ごす。50号ほどの水墨画《ライオン図》(所在不明)や、写真館の背景画など依頼による制作も行い、「神童」「天才」として周囲に注目された。 1901年、19歳のとき、森の尽力により、森の後任として久留米高等小学校で図画の代用教員となる。1年と少しの短い教員時代であったが、その間の教え子に石橋正二郎(1889–1976)がいた。1902年5月、同級生で画塾の友人でもあった青木繁(1882–1911)が、徴兵検査のため一時帰省した。坂本は、東京美術学校(現・東京藝術大学)で学ぶ青木に絵を見せてもらい、その上達ぶりに驚く。古い名画を洋画の世界と信じ込んでいた自分がこのままではやがて取り残されてしまうと焦り、上京を決意した。9月、坂本は青木と連れだって上京し、その道中に青木《坂本繁二郎像》(1902年、個人蔵)が描かれた。そのときちょうど二十歳であった。 上京した坂本は青木の紹介で画塾の不同舎に入門し、初めて石膏やヌードモデルのデッサンに取り組んだ。久留米時代についた自己流の描き方から本格的な方法へ修正するのに苦労するが、1904年4月に太平洋画会第3回油絵水彩展覧会へ《町裏》(1904年、個人蔵)と5点の水彩作品を出品し、その後開設された太平洋画会研究所へ入所する。同年夏、千葉県安房郡富崎村[あわぐんとみさきむら](現・館山市)の布良[めら]へ、青木、森田恒友[つねとも](1881–1933)、福田たね(1885–1968)と写生旅行へ出かけた。そこで、坂本は大漁の陸揚げを目撃し、その光景について青木に伝えたところ、想像力をかきたてられた青木は《海の幸》(1904年、石橋財団アーティゾン美術館、東京)を制作した。《海の幸》に感動した詩人・蒲原有明[かんばらありあけ](1876–1952)に依頼され、坂本は青木とともに詩集『春鳥集』(本郷書院、1905年)の表紙カバーデザインに携わった。 1906年夏、布良海岸の対岸にある伊豆大島へ森田と訪れ、そこで制作した《大島の一部》(1907年、福岡市美術館)を翌3月の東京府主催の勧業博覧会へ出品した。作品は三等賞首席という好成績で、坂本は画壇において初めて評価を得るところとなったが、このときの審査には派閥争いも絡んでいたため、坂本を含む太平洋画会の会員たちは審査に疑義を唱えるべく、連袂[れんべい]して褒状を返上することとなる。同年10月、坂本は第1回文部省美術展覧会(文展)にも《北茂安村[きたしげやすむら]の一部》(1907年、株式会社西日本シティ銀行、福岡)で入選を果たし、中央画壇においても徐々にその実力を認められていく。 1908年、山本鼎[かなえ](1882–1946)の世話により東京パック社に就職し、雑誌『東京パック』掲載の漫画を3年ほど手がけた。1909年、雑誌『方寸』の同人となる。1910年、久留米で結婚した坂本は、母を伴い3人で上京する。妻をモデルにした《新聞》や《張り物》(ともに1910年、個人蔵)、また、帝劇の俳優や女優の舞台姿を題材にした版画の制作にも精を出す。第4回文展へ出品した《張り物》で褒状を得たのを機に、制作に専念するため東京パック社を辞職した。 1911年に青木が亡くなると、坂本は友人たちと青木の顕彰のために尽力し、1周忌にあたる1912年3月に「青木繁君遺作展覧会」(竹之台陳列館、東京・上野)を開催、さらに、翌年『青木繁画集』(政教社)を発行。その頃、房総半島の御宿村(現・御宿町)へ写生旅行に行き、苦労しながら仕上げた《うすれ日》(1912年、三菱一号館美術館、東京 寄託)を1912(大正元)年の第6回文展に出品したところ、夏目漱石(1867–1916)の目にとまり、『東京朝日新聞』に掲載された展覧会評「文展と芸術(十二)」(1912年10月28日)において評価される。尊敬する文学者に理解されたことで自信を得た坂本は、この記事の切り抜きを終生大切にした。 1914年、文展から独立を図る二科美術展覧会(二科会)の結成に参加。1944年の解散まで、二科展を主な活動の場とする。1910年代に牛を繰り返し描くが、1920年の《牛》(石橋財団アーティゾン美術館)はその総決算である。「日本人的」「東洋人独特の内的な深み」(『私の絵 私のこころ』日本経済新聞社、1969年)を油絵において表すことを目標としてかかげ、画家として生きていくことをこの作品の発表によって宣言したのだった。 1921年から3年間のパリ留学では、半年ほどシャルル・ゲラン(1875–1939)の研究所に学び、それ以降は自然を求めてパリ郊外やブルターニュ地方に出かけて写生をし、また、美術館で巨匠の作品に学んだり、アトリエでモデルを用いた制作に励んだりした。《帽子を持てる女》(1923年、石橋財団アーティゾン美術館)など、坂本の数少ない人物画は、この時期に集中して制作される。作風は、それまでの筆あとを強調した印象派風の表現から、形態は単純化され、ときに背景の省略が試みられるなど、淡い色調の色面によって装飾的にまとめられた画面へと展開した。坂本は、フランスで西洋と日本の文化や風土の違いを目の当たりにし、進むべき道を改めて確信する機会となった。 1924年、帰国した坂本繁二郎は、家族の待つ故郷久留米へ戻る。そして、1931(昭和6)年には、久留米近郊の八女に転居、自宅から約1キロ離れた場所にアトリエを構え、制作一筋の生活を送った。1939年に画商の久我五千男[くがいちお](1911–1984)と出会って以降、坂本の名前と作品は広く知られるようになる。九州では、豊かな自然の中で躍動する馬の姿に魅せられ、熊本の阿蘇をはじめ各地の牧場や馬市を訪れてはスケッチし、それをもとにアトリエで油彩画に仕上げた。馬を題材にすると同時に、静物画も多く描いた。その題材は、身近な果物や野菜、植木鉢や箱、自身で購入した能面などである。終戦の頃より、能面を主題として繰り返し描き始めるが、その背景には、大正のはじめ、三木露風[ろふう](1889–1964)と鑑賞した能舞台に感動し、いつかその味わいを油絵に表してみたいという、心に温めてきた思いがあった。坂本は静物画の画面構成を能舞台にたとえ、モティーフを役者に、背景を舞台や囃子などの役者をひきたてるものとして捉えることにより、「日本人的」な静物画を追求した。1964年、82歳となった坂本は月を描き始める。丸くて大きな月、月暈[つきがさ]、赤い月、それらの表情はひとつひとつ異なり、1969年に亡くなるまで、こつこつと実験を繰り返して探究を深めていった。絶筆《幽光》(1969年、石橋財団アーティゾン美術館)においても、雲に隠れた月が穏やかな光を放つ。 坂本は、弟子をとらない主義であったが、東京在住の折にもその周りには松田諦晶[ていしょう](1886–1961)、髙島野十郎[やじゅうろう](1890–1975)、古賀春江(1895–1933)など同郷の若い美術家が集まり、慕われる存在であった。留学後、八女に定住して以降も、展覧会の審査や研究会を通してその教えを請うた後進は多く、地方に留まり自身の絵の道を極める坂本の姿は、九州で活動する若い作家たちにとって大いに励みとなったのである。 (伊藤 絵里子)(掲載日:2023-09-26)

1942
第29回二科美術展覧会 (坂本繁二郎氏還暦記念特別陳列), 東京府美術館, 大阪市立美術館, 1942年.
1950
坂本繁二郎自選回顧展覧会, 日本橋三越, 大阪高麗橋三越, 1950年.
1950
坂本繁二郎画業五十年展, 福岡・岩田屋, 1950年.
1950
坂本繁二郎回顧展, 熊本日日新聞社, 1950年.
1954
第27回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展, ヴェネツィア, 1954年.
1956
青木繁・坂本繁二郎作品展覧会, 石橋美術館, 1956年.
1957
坂本繁二郎展, 日本橋白木屋, 1957年.
1958
坂本繁二郎: 現代作家デッサン, 銀座松屋画廊, 1958年.
1963
朝日賞受賞記念 坂本繁二郎展, 福岡・岩田屋, 1963年.
1969
坂本繁二郎を偲ぶ特別展, 福岡, 有馬記念館, 1969年.
1970
坂本繁二郎追悼展, 福岡・岩田屋, 大阪・大丸, 名古屋・丸栄, 札幌・今井, 東京・日本橋東急, 1970年.
1971
坂本繁二郎 その人と作品, 石橋美術館, 1971年.
1973
日本洋画の3巨匠展: 安井曾太郎・梅原龍三郎・坂本繁二郎, 大阪・大丸, 1973年.
1982
坂本繁二郎展: 生誕100年記念, 東京国立近代美術館, 京都国立近代美術館, 石橋美術館, 1982年.
1991
坂本繁二郎展: 馬の画家 , 馬の博物館, 1991年.
1999
坂本繁二郎: 没後30年記念: 特集展示, 石橋美術館, 1999年.
2006
坂本繁二郎展: 石橋美術館開館50周年記念, 石橋美術館, ブリヂストン美術館, 2006年.
2019
坂本繁二郎展: 没後50年, 久留米市美術館, 練馬区立美術館, 2019年.
2022
ふたつの旅: 青木繁×坂本繁二郎 : 生誕140年, 石橋財団アーティゾン美術館, 久留米市美術館, 2022–2023年.

  • 石橋財団アーティゾン美術館, 東京
  • 京都国立近代美術館
  • 久留米市美術館, 福岡県
  • ポーラ美術館, 神奈川県箱根町
  • 福岡県立美術館
  • 東京国立近代美術館
  • メナード美術館, 愛知県小牧市
  • 北九州市立美術館, 福岡県
  • ひろしま美術館
  • 大原美術館, 岡山県倉敷市

1947
『坂本繁二郎号 西部美術, 4輯』 (1947年1月) [福岡]: 西日本新聞社 (黒田重太郎「坂本繁二郎氏の芸術」山本和夫「坂本先生を訪ひて」石井鶴三「畏友坂本繁二郎」児島善三郎「坂本繁二郎論」正宗得三郎「坂本君へ」河北倫明「坂本芸術私見」梅野満雄「坂本君を語る」井上三綱「坂本氏の芸術」池上丁一「坂本先生の教え」青木寿「画とその人」吉井淳二「坂本先生のことども」赤星孝「坂本繁二郎先生」「坂本繁二郎画年譜」).
1956
坂本繫二郎『坂本繁二郎文集』石井鶴三, 河北倫明, 久我五千男, 笹村草家人編. 東京: 中央公論社, 1956年. 増補改訂版1970年 [自筆文献].
1960
今西菊松編『坂本繁二郎夜話』熊本: [私家版], 1960年.
1962
杉森麟編著『坂本繁二郎画談』東京: 第一書房, 1962年 (初出:雑誌『高嶺』に連載された記録より編集).
1965
河北倫明『青木繁と坂本繁二郎』東京: 雪華社, 1965年 (初出: 『中央公論』68巻4号 (1953年8月), 『西部美術』3輯 (1946年10月)ほか).
1968
谷口治達『坂本繁二郎の道』東京: 求龍堂, 1968年. 改訂版1981年 (『西日本新聞』1967年4月3日から11月24日まで55回連載分に補筆訂正, 別章を追加).
1969
坂本繁二郎『私の絵 私のこころ』東京: 日本経済新聞社, 1969年 (初出:『日本経済新聞』1966年1月1日, 1969年5月21日–6月14日) [自筆文献].
1970
坂本薫, 河北倫明, 久我五千男編『坂本繁二郎作品全集』東京: 朝日新聞社, 1970年. 増補1981年.
1973
岩田礼『坂本繁二郎』東京: 新人物往来社, 1973年.
1974
岸田勉編著『坂本繫二郎 近代の美術, 21』 (1974年3月).
1974
河北倫明『坂本繁二郎』東京: 中央公論美術出版, 1974年.
1980
坂本暁彦編『坂本繁二郎全版画集』三鷹: 形象社, 1980年.
1986
竹藤寛『青木繁・坂本繁二郎とその友』福岡: 福岡ユネスコ協会, 1986年 (新版: 東京: 平凡社, 1991年).
1986
河北倫明, 坂本暁彦編『坂本繁二郎水彩画集』東京: 光村図書出版, 1986年.
1991
小島直記『坂本繁二郎伝』八女 (福岡県): 八女市, 1991年.
1995
竹藤寛『青木繁と坂本繁二郎: 「能面」は語る 丸善ブックス: 022』東京: 丸善, 1995年.
2004
杉森麟編著『坂本繁二郎画伯談話集』福岡: 中川書店, 2004年 (初出:「続・坂本繁二郎画壇」『高嶺』1987年1月1日から1992年8月1日まで連載).
2009
貝塚健「坂本繁二郎と禅のテクスト」『館報』第57号 (2009年3月): 84-95頁. 東京, 久留米: 石橋財団ブリヂストン美術館, 石橋美術館.
2009
尾籠恵子 [ほか] 編纂・編集『坂本繁二郎「油彩」全作品集』福岡: さかもと, 2009年.
2019
東京文化財研究所「坂本繁二郎」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. (日本語) https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9209.html
2022
伊藤絵里子, 森山秀子, 原口花恵, 原小百合企画編集『ふたつの旅: 青木繁×坂本繁二郎: 生誕140年』[東京], [久留米]: 石橋財団アーティゾン美術館, 久留米市美術館, 2022年 (会場: アーティゾン美術館, 久留米市美術館) [展覧会カタログ].

日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art

洋画家坂本繁二郎は、7月14日午後6時37分、福岡県八女市の自宅で老衰のため死去した。享年87才であった。政府は18日の閣議で、従三位、銀盃一組を贈ることを決定した。葬儀は、18日八女市無量寿院で密葬、21日八女市葬として同市立福島中学校において行われた。坂本繁二郎は、明治15年に福岡県久留米市に生まれ、小学校の同級に青木繁がおり、10才のころ、洋画家森三美について手ほどきをうけた。青木繁との交遊...

「坂本繁二郎」『日本美術年鑑』昭和45年版(76-78頁)

Wikipedia

坂本 繁二郎(さかもと はんじろう、 1882年3月2日 - 1969年7月14日)は、明治後期~昭和期の洋画家である。

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40427069
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T075227
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Q11425358
  • 2023-09-26