- 作家名
- 佐伯祐三
- SAEKI Yūzō (index name)
- Saeki Yūzō (display name)
- 佐伯祐三 (Japanese display name)
- さえき ゆうぞう (transliterated hiragana)
- 生年月日/結成年月日
- 1898-04-28
- 生地/結成地
- 大阪府西成郡中津村(現・大阪市北区)
- 没年月日/解散年月日
- 1928-08-16
- 没地/解散地
- フランス、ヌイイ゠シュル゠マルヌ
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
作家解説
1898年4月、大阪市西成郡中津村(現・大阪市北区中津)に、浄土真宗本願寺派・房崎山光徳寺[ふさざきざんこうとくじ]の14代住職、佐伯祐哲[ゆうてつ]の次男として生まれる。大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)に入学し、4年生頃から当時梅田にあった赤松麟作の洋画塾で学ぶ。父からは医者になるよう期待されるが、画家になりたいという意志を貫き、中学校卒業後の1917年9月に上京。川端画学校(東京)で学んで受験に備え、1918年4月、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科予備科へ入学する。1、2年の頃は、デッサンコンクールや油彩画の課題で上位の成績を誇ったが、後半には従兄、父、弟の相次ぐ病死に接し、自身も軽い喀血をして休学するなど体調が思わしくない状態が続き、制作への集中を欠いたまま卒業を迎えた。一方で在学中には銀座の貿易商の娘・池田米子[よねこ]との結婚、一人娘の彌智子[やちこ]の誕生など、私生活での大きな変化があった。
美術学校卒業後は、関東大震災の発生で計画にやや遅れがあったものの、フランス留学を決行。1924年1月から約2年間をパリで過ごす。父亡き後光徳寺を継いだ兄・祐正[ゆうしょう]からは物心両面での支援を受け、妻子を伴うなど経済的に恵まれた生活を送る。6月30日、里見勝蔵に伴われてオーヴェール = シュル = オワーズにモーリス・ド・ヴラマンクを訪ね、渡仏後に描いた《裸婦》を見せたところ、「このアカデミック!」と批判され、創作上の転機を迎える。美術学校時代から卓越したデッサン力と技術力により、レンブラント風、中村彝[つね]を通じたルノワール風、セザンヌ風など、興味を持つ画家の作風をそつなく取り入れていた佐伯だったが、これ以降、自己の表現を模索し始める。ヴラマンクに物質感や固有色の表現を学びつつ、1924年の後半は試行錯誤が続く。年末にパリ15区のアトリエに引っ越し、またユトリロの作品を見たことなどを契機に、次第に街景を題材とするようになる。そして自らの眼で描くべき風景を発見し、対象に直接対峙して描写するようになって以降、独自の画風を確立していく。佐伯が見出したのは下町の庶民的な建物やうらぶれた町の一角で、一般的な美醜にとらわれない独特の審美眼が、佐伯作品に通底する特徴のひとつとなる。第1次パリ時代の佐伯は、これらの建物を正面から画面いっぱいにとらえ、壁の質感を厚塗りのマチエールで表現することで、比類ない表現に到達した。9月には《コルドヌリ》(所在不明)がサロン・ドートンヌに入選。《壁》(大阪中之島美術館)は1925年10月5日の年記があるこの時期の代表作である。数点の作品に買い手がつくなど制作は軌道に乗り始めるが、健康状態を心配する母の願いを受け、やむなく帰国を決意。1926年1月にパリを発ち、イタリアを経由してナポリから帰国した。
日本に戻った佐伯は、パリの硬質の街並みとの違いからか一転してモチーフに困窮する。その中にあって、集中して取り組み多くの作例を残した画題が、東京のアトリエ付近の〈下落合風景〉と大阪の〈滞船〉である。〈下落合風景〉では、パリでつかんだ自己の作風による表現を試みつつ、坂道や高低差の多い風景を巧みに切り取って画面構成に工夫をこらした。そして中空に伸びる線として電柱が登場する。線の要素は〈滞船〉の連作ではより顕著で、船体を真横からとらえるほぼ同一の構図のいずれも、帆柱やロープを表す線が画面の大部分を占め、画家の主要な関心事となっている。この新たに得た線の表現は、第2次パリ時代の作品につながってゆく。しかし、〈下落合風景〉と〈滞船〉は日本で佐伯が見出した数少ない画題であり、もう一度パリへ行って壁や広告などの題材を描きたいという思いは募り、再渡仏を決意する。
一方、約1年半の一時帰国時代は、佐伯が日本の画壇と交わったわずかな期間でもある。帰国直後の1926年5月には、パリで親しく交友した里見勝蔵、前田寛治、小島善太郎と木下孝則とともに、一九三〇年協会を結成、同月に第1回展を開催。9月の第13回二科展では新帰朝者として19点を特別陳列し、二科賞を受賞。翌年には新宿・紀伊國屋で初めての個展を開催するなど、新人作家として順調な活躍を見せる。しかし、再渡仏もあり評価を確立するには至らず、次に佐伯が注目されるのは没後、その早すぎる死によってであった。
1927年8月、再び妻子を伴いシベリア鉄道経由で渡仏。すぐにパリの街に画架を並べ創作を再開、画面には筆の勢いをそのままカンヴァスに留めた、細く跳ねるような線描が現れるようになる。それは《リュクサンブール公園》(田辺市立美術館、和歌山)のような落葉した木々と、《ガス灯と広告》(東京国立近代美術館)に代表されるポスターの文字の表現に顕著に見られ、佐伯の強い個性が現れた最大の特徴となっていく。11月末に描かれた〈カフェ・レストラン〉連作では、この線描は文字以外のモチーフの表現にも及び、画面中を躍動するに至る。この頃の佐伯は絵を仕上げるスピードが非常に早く、1日に複数枚を仕上げることもあったという。早描きは佐伯の画風を特徴づける重要な要素であり、背景の絵具と混ざらず線が活きるよう、下地を速乾性にするなど工夫がなされていた。しかし、佐伯は満足のいく作品がほとんど出来ないことを思い悩み、その画風は次々と変化していく。奔放な線が画面上で対象の物質的表面から乖離し、中空を浮遊するような表現にまで到達した後、年が明ける頃にはそのような線は画面から消え、画家は再び対象の力強い輪郭と構成を模索するようになる。
制作に行き詰まりを感じた佐伯は、新たなモチーフを求めて、1928年2月10日、パリから東に約40キロ離れた村、ヴィリエ=シュル=モランに写生に赴く。田舎のシンプルな構造の教会堂などを対象に、黒く太い線で輪郭を取り、力強い表現と明快な画面構成を追求した。佐伯の表現方法や厳しい創作態度は、同行した荻須高徳、山口長男、大橋了介、横手貞美に大きな影響を与えている。数日の中断をはさんで、3月上旬までモランに滞在。《煉瓦焼》(1928年、大阪中之島美術館)など、30数点がここで描かれた。
極寒のモランでの屋外制作で体力が奪われたことに加え、パリに戻ってから雨中で写生したことがもとで、佐伯は床に臥せるようになる。この頃、佐伯家に偶然訪ねてきた人物をモデルに、《郵便配達夫》、《ロシアの少女》(いずれも1928年、大阪中之島美術館)の、画家としては珍しい人物像をアトリエで制作。同じ頃、わずかに体力が回復した間隙に《黄色いレストラン》(1928年、大阪中之島美術館)、《扉》(1928年、田辺市立美術館)を屋外で描く。これらを最後に、3月末に喀血。以後筆を持つことはかなわなかった。妻や友人らの献身的な看病を受けるものの次第に精神状態も悪化し、6月にはアパートを抜け出して失踪。これを機にセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院に入院し、8月16日に30歳で死去した。
佐伯は生前には画家としての評価を確立し得なかったが、今ではいわゆる日本的フォーヴィスムを代表する一人と位置付けられることが多く、エコール・ド・パリの画家に数えられる場合もある。しかし佐伯自身は、画風を模索した時期を除けば特定の画家や様式への傾倒を示すことはなく、孤独なまでに自らの創作に徹した。佐伯作品の独創性は、前述の同時代的な枠組みを超越した視点からも検証する価値があるだろう。特に第2次パリ時代の特徴的な線描については、東洋的書に通じる性質が早くから指摘されてきたほか、第二次世界大戦後のアメリカで興隆する抽象表現主義に比肩する、との評価もある。
(高柳 有紀子)(掲載日:2023-09-26)
- 1929
- 1930年協会展04回, 東京府美術館, 1929年.
- 1935
- 佐伯祐三回顧展, 銀座三共ギャラリー, 1935年.
- 1937
- 佐伯祐三遺作展覧会: 山本發次郎氏所蔵, 東京府美術館, 1937年.
- 1939
- 山本発次郎氏 佐伯祐三遺作展, 大阪市立美術館, 1939年.
- 1943
- 佐伯祐三遺作特別展, 大礼記念京都美術館, 1943年.
- 1952
- 佐伯祐三展, 神奈川県立近代美術館 鎌倉, 日本橋三越, 1952年.
- 1966
- 第2回佐伯祐三展, 神奈川県立近代美術館 鎌倉, 1966年.
- 1968
- 佐伯祐三展, 東京セントラル美術館, 大阪・心斎橋 大丸, 1968年.
- 1973
- 佐伯祐三展, 梅田近代美術館, 1973年.
- 1973
- 佐伯祐三: ある画家の生涯と芸術展, 兵庫県立近代美術館, 1973年.
- 1973
- 佐伯祐三展, 香川県文化会館, 1973年.
- 1978
- 佐伯祐三展: 没後50年記念, 京都国立近代美術館, 東京国立近代美術館, 名古屋市博物館, 福岡県文化会館, 1978年.
- 1988
- 佐伯祐三展: 没後60年記念, 日動画廊, 笠間日動美術館, 電気文化会館ギャラリー, 1988年.
- 1998
- 佐伯祐三展: 生誕100年記念, 大阪市立美術館・福岡県立美術館・宮城県美術館・愛知県美術館, 笠間日動美術館, 1998年.
- 2005
- 佐伯祐三展: 芸術家への道, 練馬区立美術館・和歌山県立近代美術館, 2005年.
- 2008
- 佐伯祐三展: 鮮烈なる生涯: 没後80年, 笠間日動美術館, そごう美術館, 三重県立美術館, 2008年.
- 2008
- 佐伯祐三展: パリで夭逝した天才画家の道: 没後80年記念, 大阪市立美術館, 高松市美術館, 北海道立近代美術館, 新潟県立万代島美術館, 2008–2009年.
- 2023
- 佐伯祐三: 自画像としての風景, 東京ステーションギャラリー, 大阪中之島美術館, 2023年.
- 大阪中之島美術館
- 和歌山県立近代美術館
- 山王美術館, 大阪
- ポーラ美術館, 神奈川県箱根町
- 石橋財団アーティゾン美術館, 東京
- 東京国立近代美術館
- 田辺市立美術館, 和歌山県
- 1926
- 佐伯祐三「巴里の生活」『みづゑ』第257号 (1926年7月): 38頁 (再録: 朝日晃, 中島理壽編『佐伯祐三: I 近代画家研究資料』東京: 東出版, 1979年, 1-2頁).
- 1929
- 一九三〇年協会編『佐伯祐三画集 一九三〇年協会叢書: 第1』東京: 一九三〇年協会, 1929年.
- 1937
- 国田弥之輔編『佐伯祐三画集: 山本發次郎氏蒐蔵』東京: 座右宝刊行会, 1937年.
- 1957
- 「特集: 佐伯祐三」『みづゑ』第619号 (1957年2月).
- 1968
- 佐伯祐三全画集刊行委員会編『佐伯祐三全画集』東京: 講談社, 1968年.
- 1970
- 阪本勝『佐伯祐三』東京: 日動出版部, 1970年.
- 1971
- 田中穣『佐伯祐三の死』東京: 文芸春秋, 1971年.
- 1978
- 朝日晃『永遠の画家 佐伯祐三』東京: 講談社, 1978年.
- 1979
- 『佐伯祐三全画集』東京: 朝日新聞社, 1979年.
- 1979
- 朝日晃, 中島理壽編『佐伯祐三 近代画家研究資料』全3冊, 東京: 東出版, 1979-1980年.
- 1980
- 「特集: 佐伯祐三」『太陽』203号 (1980年3月).
- 1980
- 山田新一『素顔の佐伯祐三』東京: 中央公論美術出版, 1980年.
- 1983
- 『佐伯祐三 アサヒグラフ別冊: 美術特集 日本編: 31』東京: 朝日新聞社, 1983年.
- 1994
- 朝日晃『佐伯祐三のパリ』東京: 大日本絵画, 1994年.
- 1996
- 「特集: 佐伯祐三の真実」『芸術新潮』47巻4号 (1996年4月): 3-75頁.
- 2001
- 朝日晃『そして, 佐伯祐三のパリ』東京: 大日本絵画, 2001年.
- 2006
- 河﨑晃一監修『山本發次郎コレクション: 遺稿と蒐集品にみる全容』京都: 淡交社, 2006年.
- 2014
- 渡辺祐子, 河﨑洋充編『光徳寺善隣館と佐伯祐正』大阪: 光徳寺善隣館, 2014年.
- 2021
- 熊田司『もっと知りたい佐伯祐三: 生涯と作品 アート・ビギナーズ・コレクション』東京: 東京美術, 2021年.
- 2023
- 高柳有紀子監修『佐伯祐三: その眼がとらえた風景 別冊太陽: 日本のこころ 304』東京: 平凡社, 2023年.
Wikipedia
佐伯 祐三(さえき ゆうぞう、1898年4月28日 - 1928年8月16日)は、大正・昭和初期の洋画家である。大阪府大阪市出身。
Information from Wikipedia, made available under theCreative Commons Attribution-ShareAlike License
- 2023-09-26