- 作家名
- 斎藤義重
- SAITŌ Yoshishige (index name)
- Saitō Yoshishige (display name)
- 斎藤義重 (Japanese display name)
- さいとう よししげ (transliterated hiragana)
- さいとう ぎじゅう
- Saitoh Ghiju
- Saitō Gijū
- 生年月日/結成年月日
- 1904-05-04
- 生地/結成地
- 青森県弘前市
- 没年月日/解散年月日
- 2001-06-13
- 没地/解散地
- 神奈川県横浜市
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
- 彫刻
作家解説
1904年、陸軍軍人であった父・斎藤長義と咲子の子として、父の赴任先であった青森県弘前に生まれる。幼少期を栃木県宇都宮で過ごし、父の任地変更に伴い7歳から東京に暮らす。私立日本中学校(現・日本学園中学校)在学中に美術クラブに属して絵を描き始めるが、ドストエフスキーやチェーホフをはじめとする外国文学に傾倒して文学を志す。1920年、東京・京橋の星製薬会社で開催されたロシア未来派の画家ダヴィード・ブルリューク、ヴィクトル・パリモフらによる「日本に於ける最初のロシア画展覧会」を見て衝撃を受ける。ロシア構成主義やダダイズムなど、ヨーロッパからの新潮流と1923年に村山知義らによって結成されたマヴォの影響により前衛的な芸術活動への関心を深めた。早くから立体造形を試み、二科展にレリーフ状の作品を出品するが受け入れられず、1933年、阿部金剛、古賀春江、峰岸義一、東郷青児らによるアヴァンガルド洋画研究所に入所して、桂ユキ子、金煥基らと出会う。1936年、《出立》、《アブストラクト》(いずれも所在不明)が第23回二科展に初入選を果たす。1938年、山本敬輔、高橋迪章らと絶対象派協会を結成。また、二科会内の前衛的な傾向の作家たちによって結成された九室会の会員となり、翌年の第1回九室会展、1940年の第1回美術文化協会展に合板による作品を発表した。
戦中は雑誌の編集に携わり、一時美術から離れる。空襲で滝野川の自宅アパートが焼け、それまでの作品や家財を失った斎藤は、戦後、復員してまもない写真家・大辻清司と知り合い、新宿にあった大辻の自宅兼スタジオに寄寓する。大辻のスタジオで制作した《あほんだらめ》を1948年の第1回モダンアートクラブ展に出品。戦争中に感じた社会の不条理を抽象化した喜劇的人物像として描く。
1954年、貧困と原因不明の病のため千葉県浦安で療養生活を送り、再び制作を中断。この頃、大辻清司、山口勝弘、瀧口修造、福島秀子ら実験工房のメンバーと交友する。健康の回復とともに制作を再開させた斎藤は、浦安の漁港でのスケッチをもとに、のちに《漁村》(1956年、神奈川県立近代美術館)を制作する。1957年、第4回日本国際美術展に出品した《鬼》(1957年、神奈川県立近代美術館)がK氏賞を受賞。同年、「今日の新人57年展」の新人賞となり、一躍脚光を浴びる。翌年、瀧口修造の紹介により東京画廊で初の個展を開催。以後、没年まで東京画廊での個展を13回にわたって開催することとなった。
1959年の第5回サンパウロ・ビエンナーレ、翌年の第30回ヴェネツィア・ビエンナーレと国際展への出品を重ね、この年のグッゲンハイム国際美術賞展で優秀賞を受賞するなど、国際的な評価を得ていく。ヴェネツィア・ビエンナーレにあわせて渡欧した際、ミラノでルーチョ・フォンタナのアトリエを訪ねたことは、それまで抱いていた絵画の平面性への問題意識を明確化させるきっかけとなった。帰国後、斎藤は木製パネルに絵筆の代わりに電動ドリルを用いて線や点、円といった条痕を刻んだ作品に取り組む。基本色を赤、白、青、黒の4色に限定した画面には、作家の意図と電動ドリルによる偶発性が一体となった独特なリズムと動きが生み出された。さらに1964年からは、戦前に発表していたベニヤ板によるレリーフ状の形体に電動ドリルによる条痕が加わった《作品2》(1964年、福岡市美術館)、《作品4》(1964年、東京国立近代美術館)へと展開していく。
1960年代半ば以降からは作品のなかに動きを取り入れ、作品に可動部分を伴う《ペンチ》(1967年、宮城県美術館他)、《クレーン》(1967年、東京都現代美術館他)を制作。1973年の東京画廊での連続回顧展を機に空襲で焼失した戦前作の再制作を行い、発表時《作品》だった合板によるレリーフ状の作品のタイトルを《トロウッド》(横浜美術館他)と名付けた。
1970年代に入ると、白木を組み合わせた三次元の作品を制作。1980年代の〈四つの位置〉や〈反対称〉シリーズでは、均衡あるいはポジとネガの関係を追求し、さらに、1983年からはじまる〈複合体〉シリーズでは、色彩の持つ叙情性を排除する観点から、黒く塗装した木材を用い、平面、立体の垣根を越え、周囲の空間との流動的な関係を持つよりスケールの大きな作品へと拡大していく。1990年代後半においては、空間に加え時間の要素を意識したインスタレーションへと展開。2000年には越後妻有トリエンナーレに出品するなど、晩年まで精力的な活動を続けたが、2001年6月13日、97歳で永眠。
制作において物質と存在を問う姿勢を貫いた斎藤義重は、戦後の日本の現代美術のパイオニアとして美術界を牽引する一方、1964年には多摩美術大学(東京)の教授に就任したほか、「Bゼミ」、東京芸術学校(TSA)の講師を務めるなど次世代のアーティストの指導にも力を注いだ教育者としての一面も持ち、関根伸夫、吉田克朗、成田克彦、小清水漸、菅木志雄ら「もの派」の作家へ大きな影響を与えたことでも知られる。
1998年に入善町下山芸術の森 発電所美術館(富山)で開催の「斎藤義重展」の際、評論家の中原佑介の発案により「義重」を「ぎじゅう」と音読みにした「GHIJU」と表記することとし、1999年の生前最後の個展となった神奈川県立近代美術館の鎌倉館での「斎藤義重展」においても新作《14 to》に「G. Saitoh」とサインしている。なお、2002年に没後アトリエに残された書簡、ノート、写真ほか旧蔵書約3,000点が遺族より神奈川県立近代美術館に寄贈され、「斎藤義重アーカイブ」として公開されている。
(長門 佐季)(掲載日:2023-12-15)
- 1936
- 第23回二科展, 東京府美術館, 1936年.
- 1939
- 第1回九室会展, 白木屋, 1939年.
- 1948
- 第1回モダンアートクラブ展, 東京都美術館, 1948年.
- 1957
- 第4回日本国際美術展, 東京都美術館, 1957年.
- 1958
- 第1回斎藤義重個展, 東京画廊, 1958年.
- 1959
- 第5回日本国際美術展, 東京都美術館, 1959年.
- 1960
- 第30回ヴェネツィア・ビエンナーレ, ヴェネツィア, 1960年.
- 1960
- 第3回グッゲンハイム国際美術賞展, ソロモン・R・グッゲンハイム美術館, 1960年.
- 1961
- 第6回サンパウロ・ビエンナーレ, サンパウロ近代美術館, 1961年.
- 1973
- 斎藤義重回顧展 1936→1973, 東京画廊, 1973年.
- 1977
- 斎藤義重展, 神奈川県民ホールギャラリー, 1977年.
- 1978
- 斎藤義重展, 東京国立近代美術館, 1978年.
- 1984
- 斎藤義重展, 東京都美術館, 栃木県立美術館, 兵庫県立近代美術館, 大原美術館, 福井県立美術館, 1984年.
- 1985
- 斎藤義重: disproportion: Y. Saito Exhibition, 現代画廊, ソウル, 1985年.
- 1989
- 山口長男・斎藤義重展: 日本抽象美術の先駆者 “Yamaguchi, Saito: pionniers de l'art abstrait au Japon”, ブリュッセル王立近代美術館, 1989年.
- 1993
- 斎藤義重による斎藤義重展: 時空の木: time・space, wood, 横浜美術館, 徳島県立近代美術館, 1993年.
- 1998
- 斎藤義重展, 入善町下山芸術の森発電所美術館, 1998年.
- 1999
- 斎藤義重展, 神奈川県立近代美術館, 1999年.
- 2003
- 斎藤義重展, 岩手県立美術館, 千葉市美術館, 島根県立美術館, 富山県立近代美術館, 熊本市現代美術館, 2003–2004年.
- 2004
- 斎藤義重文庫展, 神奈川県立近代美術館 葉山, 2004年.
- 大原美術館, 岡山県倉敷市
- 神奈川県立近代美術館
- 京都国立近代美術館
- 千葉市美術館
- 東京国立近代美術館
- 東京都現代美術館
- 富山県美術館
- 兵庫県立美術館
- 新潟県立近代美術館
- 宮城県美術館
- 横須賀美術館, 神奈川県
- 横浜美術館
- 1959
- 針生一郎「斎藤義重論」『三彩』112号 (1959年3月).
- 1961
- 針生一郎「斎藤義重」『芸術の前衛 現代芸術論叢書』東京: 弘文堂, 1961年, 231-237頁 (再版: 1970年).
- 1964
- 『斎藤義重』東京: 美術出版社, 1964年.
- 1973
- 中原佑介「斎藤義重」『斎藤義重 1936-1973』東京: 東京画廊, 1973年.
- 1973
- 「斎藤義重特集」『美術手帖』371号 (1973年9月): 33-112頁.
- 1977
- 斎藤義重, 高松次郎「斎藤義重と語る: 対称は反対称を通って限りなく拡がる」『みづゑ』862号 (1977年1月): 98-108頁.
- 1978
- 「特集: 斎藤義重展」『現代の眼』283号 (1978年6月).
- 1978
- 「斎藤義重<特集>」『みづゑ』880号 (1978年7月): 5-74頁.
- 1987
- 熊谷伊佐子「斎藤義重試論」『東京都美術館紀要』11号 (1987年3月).
- 1990
- 千葉成夫『美術の現在地点 五柳叢書: 18』東京: 五柳書院, 1990年.
- 1992
- 瀧口修造『実験工房; アンデパンダン コレクション瀧口修造: 7』東京: みすず書房, 1992年.
- 1993
- 「斎藤義重<特集>」『三彩』546号 (1993年3月): 36-53頁.
- 1997
- 針生一郎ほか「TSA文化論連続講演『斎藤義重』について」『藝術評論』11号 (1997年秋). 東京: 中延学園.
- 1997
- 小島信夫『X氏との対話』東京: 立風書房, 1997年.
- 2004
- 神奈川県立近代美術館編『斎藤義重文庫展図録』[葉山町 (神奈川県)]: 神奈川県立近代美術館, 2004 (会場: 神奈川県立近代美術館葉山).
- 2016
- 斎藤義重著『無十』千石英世編. 東京: 水声社, 2016年 [自筆文献 (小説)].
- 2018
- 出原均「斎藤義重〈複合体〉について」『兵庫県立美術館研究紀要』第12号 (2018年3月): 12-23頁.
- 2019
- 東京文化財研究所「斎藤義重」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. (日本語) https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28221.html
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「斎藤義重」『日本美術年鑑』平成14年版(239-240頁)現代美術家の斎藤義重は、6月13日、心不全のため横浜市内の病院で死去した。享年97。1904(明治37)年5月4日に生まれる。本籍は、東京市四谷区左門町。1920(大正9)年、京橋の星製薬会社で開かれたロシア未来派の亡命画家ダヴィード・ブルリューク、ヴィクトル・パリモフの展覧会を見て、衝撃を受ける。以後、築地小劇場における村山知義の舞台美術に感動するなど、大正期の新興芸術に関心をよせるようになる。...
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斎藤 義重(さいとう よししげ、1904年5月4日 – 2001年6月13日)は、青森県弘前市出身の現代美術家。多摩美術大学教授。「さいとう ぎじゅう」と読まれることもある。絵画と彫刻の垣根を超えた表現を追求して作品を制作した。戦後以降の現代美術を代表する作品の数々を残し、「もの派」の作家らに大きな影響を与えた。
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- 2024-03-01