A1383

小林古径

| 1883-02-11 | 1957-04-03

KOBAYASHI Kokei

| 1883-02-11 | 1957-04-03

作家名
  • 小林古径
  • KOBAYASHI Kokei (index name)
  • Kobayashi Kokei (display name)
  • 小林古径 (Japanese display name)
  • こばやし こけい (transliterated hiragana)
  • 小林茂 (real name)
  • 秋香 (art name)
生年月日/結成年月日
1883-02-11
生地/結成地
新潟県中頸城郡(現・新潟県上越市)
没年月日/解散年月日
1957-04-03
没地/解散地
東京都
性別
男性
活動領域
  • 絵画

作家解説

1883(明治16)年2月11日、新潟県中頸城郡高田土橋町[なかくびきぐんたかだつちはしまち](現・上越市大町一丁目)に生まれる。本名は茂。高田榊原家藩士の父・株[みき]とユウの次男として生まれた。茂が3歳の時には一家は株の仕事の関係で高田を離れ、新潟市や岩船郡平林村(現・村上市)に転居する。その翌年には母が他界、12歳の時には兄、さらにその翌年には父を亡くすなど、幼少期に相次いで家族との別れを経験した。兄から絵を描くことの楽しさを教わった茂は、幼少期から絵を得意としており、14歳頃から当時新潟で絵を教えていた上毛沼田(現・群馬県沼田市)の画家・青木香葩[こうは](?–1911)に師事して日本画の手ほどきを受け、香葩から「秋香[しゅうこう]」の雅号をもらって創作活動を行っていた。 1899(明治32)年、16歳の時に画家を志して上京し、山中古洞(1869–1945)の紹介により梶田半古の画塾に入門する。同年の第7回日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会では《村上義光[よしてる]》(個人蔵)を秋香の雅号にて出品したが、その後、半古から「古径」の雅号を受けた。1901(明治34)年に前田青邨が半古塾に入門した頃には塾頭格となって病気がちな師に代わって後輩の絵の指導をするまで成長し、その後も共進会展などに出品して褒状授与を重ねるとその活躍が岡倉天心の目に留まり、1910(明治43)年に発表された《加賀鳶》(東京国立近代美術館)の制作に際して天心から直接指導を受けた。また、安田靫彦の誘いを受けて新進気鋭の画家たちが集う紅児会に参加し、1911(明治44)年から天心の配慮もあって横浜の豪商で美術品蒐集家の原三溪(1868–1939)の支援を受けた。1912(大正元)年の第6回文部省美術展覧会(文展)では《極楽井》(東京国立近代美術館)を発表、さらに1914(大正3)年の再興第1回日本美術院展(院展)には《異端》(東京国立博物館)を発表して日本美術院同人に推挙された。原三溪の物心両面からの支援や紅児会での研究活動を経て、古径はその才能を開花させた。 大正時代には《伊勢物語》(1915[大正4]年、伊豆市、静岡)や《竹取物語》(1917[大正6]年、京都国立近代美術館)など古典物語を題材とした大和絵風の作風が多くみられ、その後の《出湯図》(1918[大正7]年出品、落款は1921[大正10]年、東京国立博物館)や《芥子》(1921年、東京国立博物館)は写実的な傾向を示すようになる。また、1922(大正11)年10月から翌年の8月までの間、日本美術院留学生として前田青邨と彫刻家の佐藤朝山ともにヨーロッパ各地を巡る機会を得た。イタリアやエジプトなど各地の西洋美術についての見聞を広めるとともに、福井利吉郎の依頼によって大英博物館では顧愷之[こがいし]の作と伝えられる《女史箴図巻[じょししんずかん]》の模写(模写作品は東北大学附属図書館所蔵)に前田青邨と従事する。この模写事業によって、蚕が絹糸を吐くような東洋画の線の美しさを再認識し、対象の本質を見抜く観察眼を養った。古径は作品制作の背景で多くの古典絵画の模写を行っている。小林古径記念美術館や東京藝術大学が所蔵する素描作品からは《平治物語絵詞》や《源氏物語絵巻》などの古典絵巻から仏教絵画や風俗画に至る多くの古典絵画の模写が散見され、これらの学習によって習得した古典絵画の知識や精神性が古径初期の芸術性を形成したひとつの要因と考えられる。 留学後の古径の芸術性は、その経験を生かして飛躍的に高まっていった。1928(昭和3)年、再興第15回院展では二曲一双屏風の《鶴と七面鳥》(永青文庫、東京)を出品した。琳派の装飾性を受け継ぎながらも的確な描写と洗練された色彩によって描かれた作品は高い評価を受けた。次いで1930(昭和5)年の再興第17回院展では8場面からなる《清姫》(山種美術館、東京)、翌年の第18回展には《髪》(永青文庫、重要文化財)を発表した。写実を基本としながらもしなやかで凛とした描線と清澄な色彩によって描かれた作品には高い気品が感じられ、生涯における古径の主要な代表作がこの時期に次々と生み出された。 1930(昭和5)年には小林古径、平福百穂[ひらふくひゃくすい]、鏑木清方、安田靫彦、前田青邨、菊池契月、土田麦僊[ばくせん]の7名により「七絃会[しちげんかい]」が結成された。古径にとっては院展に次ぐ主要な作品発表の場のひとつであり、他の作家も力作を発表することから美術界からの注目度は高かった。また、1933(昭和8)年には座右宝刊行会の主宰者である後藤真太郎により「清光会」が結成された。その会員には古径のほか、安田靫彦、土田麦僊、梅原龍三郎、安井曽太郎、坂本繁二郎、佐藤朝山、高村光太郎が名を連ね、第一線で活躍する日本画家や油彩画家、彫刻家たちが参加した。この他にも「清流会」や「五月会」などにも出品しており、これらの絵画団体を通じて画壇の枠を超えた多くの作家たちと交流を深め、自身の芸術性を高めていった。古径は昭和初期から草花や陶磁器、動物を描いた作品が多く見られるようになる。この頃の写生帖には対象物を的確にとらえる徹底した修練の跡が見られ、日常にある対象の観照を進めた結果、その本質や生命感を内包する作品が残された。 戦時下では、院展のほか日本画家報国会主催軍用機献納作品展(1939[昭和17]年)や帝国芸術院会員戦艦献納画展などを通じて作品を発表した。この頃の作品には《旭陽》(1939[昭和17]年、個人蔵)や《富士》(1944[昭和19]年、東京国立近代美術館)などの国威発揚とみられる表現もあり、当時の社会背景に影響を受けながらも制作活動を続けた。また、1944(昭和19)年には東京美術学校(現・東京藝術大学)の教授に就任して後進の指導にあたるなど、制作以外でも多忙な日々を過ごしたが、戦争の激化に伴い1945(昭和20)年には山梨県北都留郡棡原村尾続[ゆずりはらむらおづく](現・山梨県上野原市)に一時疎開する。疎開先でも写生は日課として行うなど、古径は戦時下においても制作を続け、終戦の日を迎えた。 終戦後は南馬込の自宅に戻り、戦後の混乱期にありながらも制作活動を展開し、東京美術学校の再開に伴って後進の教育にも再び取り組み始める。この頃になると、古径は近代日本画壇を代表格としての地位を名実ともに築き上げ、1950(昭和25)年には画壇での長年の功績を称えられて文化勲章を受章した。同年の再興第35回院展出品の《壺》(茨城県近代美術館)や翌年の清光会展出品の《丘》(小林古径記念美術館、新潟)には明るさを取り戻した戦後の日常の女性像が描かれている。また、再興第36回院展の《楊貴妃》(足立美術館、島根)には日本の伝統美やその幽玄な精神性をも感じ取ることができる。 1952(昭和27)年頃から古径は次第に体調が悪化し、1952(昭和27)年の再興第37回院展に出品された《菖蒲》(山種美術館)を最後に小品は発表するが大作は控えるようになる。この時期に発表した《無花果[いちじく]》(1954(昭和29)年、個人蔵)や《莟[つぼみ]》(1955(昭和30)年、個人蔵)では、余分なものを可能な限り削ぎ落とした簡潔明瞭な画面構成によって描かれている。晩年の作品には、これまでのような緊張感のある線描こそは見られないが、これまでにない優しさや豊潤さが醸し出されている。1955(昭和30)年には神奈川県湯河原にて静養するが、翌年には容体が悪化して慶應病院に入院し、1957(昭和32)年4月3日に74歳の生涯を閉じた。 出身地である上越市には、古径が1934(昭和9)年に東京都大田区南馬込に建てた邸宅(小林古径邸、国登録有形文化財)が小林古径記念美術館敷地内(高田城址公園内)に移築復原されている。あわせて別棟の画室も再現されており、古径の生活の場や制作の場を体感することができる。古径邸の設計は吉田五十八[いそや]であり、吉田の初期にあたる近代数寄屋建築としても貴重な建築物である。 (笹川 修一)(掲載日:2023-09-11)

1952
小林古徑展: 祝壽七十年記念, 日本橋三越, 1952年.
1952
古径・靫彦・青邨: 三人代表作展, 松坂屋 (銀座), 1952年.
1960
小林古径遺作展, 国立近代美術館, 京都市美術館, 1960年.
1965
小林古径展, 新宿伊勢丹, 1965年.
1970
古径: 小林古径その人と芸術: 特別展, 山種美術館, 1970年.
1977
小林古径展, 日本橋三越, 1977年.
1979
小林古径展: 近代日本画壇の巨匠: 郷土先人シリーズ4: 上越市が生んだ日本画壇の巨匠, 上越市立総合博物館, 1979年.
1983
小林古径展: 生誕一〇〇年記念, 京都市美術館, 1983年.
1994
小林古径展: 生誕一一〇年記念, 小田急美術館, 大阪・三越, 1994年.
1996
三人の巨匠たち: 御舟・古径・土牛: 山種美術館開館30周年記念特別展, 山種美術館, 1996年.
2001
小林古径特別展: 上越市発足三十周年記念, 上越市立総合博物館 (小林古径記念美術館), 2001年.
2005
小林古径展, 東京国立近代美術館, 京都国立近代美術館, 2005年.
2009
小林古径: いのちを線に描く: 日本画家, 佐野美術館, 2009年.
2013
小林古径展: 内なる美を求めて: 生誕130周年記念, 小林古径記念美術館, 2013年.

  • 東京国立近代美術館
  • 東京国立博物館
  • 京都国立近代美術館
  • 東京藝術大学大学美術館
  • 永青文庫, 東京
  • 山種美術館, 東京
  • 小林古径記念美術館, 新潟県上越市

1929
小林古径「作家言」『美術新論』第4巻第3号 (1929年3月): [n.p.] [自筆文献].
1933
小林古径「東洋画の線 諸家問答」『美術新論』第8巻第3号 (1933年3月): 6-9頁 [自筆文献].
1934
小林古径「半古先生に入門した頃」『塔影』第10巻第7号 (1934年7月): 8-9頁 [自筆文献].
1935
小林古径「ウソといふこと わが技巧論」『美術評論』第4巻第4号 (1935年5月): 10–12頁 [自筆文献].
1939
小林古径「雅号の由来」『東京朝日新聞』第19092号 (1939年5月31日): 3頁.
1944
藤森順三『小林古径』東京: 石原求龍堂, 1944年.
1951
芳川赳編『古径先生の肖像』東京: 千城書店, 1951年.
1951
『小林古径特輯号 三彩: 55号』(1951年9月).
1957
『小林古径追悼号 三彩: 87号』(1957年5月).
1957
「小林古径追悼号」『萌春』通巻第46号 (1957年10月): 2-26頁.
1957
「小林古径追悼特集」『心』10巻6号 (1957年6月): 57-67頁.
1960
奥村土牛ほか監修『小林古径画集』全5冊, 東京: 中央公論美術出版, 1960-1961年.
1960
「特集: 小林古径遺作展」『現代の眼』71号 (1960年10月): 1-7頁.
1960
『小林古径画集』全5冊. 東京: 中央公論美術出版, 1960-1961年.
1960
「小林古径遺作展特集」『現代の眼』71号 (1960年10月): 1-7頁. 東京: 国立近代美術館.
1973
倉田公裕編『小林古径 近代の美術, 14』(1973年1月).
1980
村山和夫「小林古径の幼年期の考察とそれにもとづく年譜の補正稿」『新潟大学教育学部高田分校研究紀要』 第24号 (1980年3月): 101-111頁.
1981
『小林古径画集』東京: 朝日新聞社, 1981年.
1983
河北倫明編『小林古径: 作品と素描』東京: 光村図書出版, 1983年.
2013
笹川修一「小林古径の創作の源泉: 古典絵画の模写」『小林古径展: 内なる美を求めて: 生誕130周年記念』小林古径記念美術館編. [上越]: 小林古径記念美術館, 2013年 (会場: 小林古径記念美術館).
2015
小林古径記念美術館編『古径この地に生まれて : 作品とゆかりの品々でたどる画家の足跡』上越: 小林古径記念美術館, 2015年.
2019
東京文化財研究所「小林古径」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. (日本語) https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8855.html

日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art

芸術院会員、日本美術院同人小林古径、本名茂は4月3日、パーキンソン氏病並びに脳軟化症のため逝去した。明治16年2月11日新潟市に生れた。4歳のとき母を失い、次いで兄、12歳の折父と相次で肉親を失い孤独のうちに少年時代を過したが、父を失つてから郷里で日本画を学びはじめた。明治32年17歳のとき上京して山中古洞を訪ね、古洞の紹介で梶田半古の門に入ることになつた。新時代の写生的風俗画に新しい展開をみせて...

「小林古径」『日本美術年鑑』昭和33年版(166-168頁)

Wikipedia

小林 古径(旧字:古徑、こばやし こけい、1883年(明治16年)2月11日 - 1957年(昭和32年)4月3日)は、大正~昭和期の日本画家。 本名は茂(しげる)。1883年(明治16年)、新潟県高田(現上越市)に生まれる。早期に家族を亡くし、16歳の1899年(明治32年)に上京して梶田半古に日本画を学ぶ。39歳の1922年(大正11年)より前田青邨と共に渡欧留学。翌1923年(大正12年)、大英博物館で中国・東晋の名画「女史箴図巻」(じょししんずかん)を模写している。「蚕の吐く糸のような」と評される線描が特色のこの中国古典を研究することによって、古径は東洋絵画の命である線描の技術を高めた。代表作「髪」は、このような古径の線描の特色をいかんなく発揮した名作である。簡潔に力強く描かれた線と単純な色彩で、髪の毛一本一本や美しく縁取られた顔の輪郭、半裸の女性の体温や皮膚の柔らかい感触まで、繊細に描き出している。「髪」は、裸体画として、日本で初めて切手のデザインとなった。1935年(昭和10年)、帝国美術院会員。1944年(昭和19年)、東京美術学校教授に就任。同年7月1日帝室技芸員となる。1950年(昭和25年)、文化勲章受章。1957年(昭和32年)4月3日、死去、贈従三位、贈勲二等旭日重光章(没時叙位叙勲)。古径の住居として東京都大田区南馬込に建築された小林古径邸は新潟県上越市の高田公園(現:高田城址公園)内に移築・復原され、国の登録有形文化財に登録されている。古径は、「私が好きになるような家を建ててください。」と言っただけで一切注文を出さなかった、古径邸ができあがってもすぐには移り住まずに通ってきては眺めて楽しんだというエピソードが残っている。また、古径は絵画における写生の重要性を認識しており、庭の植物や庭で飼育した鳥などを写生したという。

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VIAF ID
38065394
ULAN ID
500123268
AOW ID
_00004622
Benezit ID
B00099764
Grove Art Online ID
T047043
NDL ID
00033172
Wikidata ID
Q3198111
  • 2024-03-01