A1354

小出楢重

| 1887-10-13 | 1931-02-13

KOIDE Narashige

| 1887-10-13 | 1931-02-13

作家名
  • 小出楢重
  • KOIDE Narashige (index name)
  • Koide Narashige (display name)
  • 小出楢重 (Japanese display name)
  • こいで ならしげ (transliterated hiragana)
生年月日/結成年月日
1887-10-13
生地/結成地
大阪府大阪市南区長堀橋筋(現・大阪府大阪市中央区東心斎橋)
没年月日/解散年月日
1931-02-13
性別
男性
活動領域
  • 絵画

作家解説

1887年10月13日、大阪市の中心地・南区長堀橋筋に生まれる。父は代々の薬屋・天水香を営み、絵を四条派の渡辺祥益に学んで祥泉と号し、書も得意とした趣味人であった。小出は、南区の島之内と呼ばれる地にある大宝尋常小学校に入学し、生粋の大阪の町人が住む環境で幼い時を過ごした。1901年に、府立市岡中学校の第1期生として入学し、図画には抜群の成績を残している。このことを物語る高等小学校や中学校時代の鉛筆画による図画帖も現存する。ただ、身体は弱く心臓病を患い卒業も1年遅れたが、卒業近くには、将来は洋画家となることを望んで、図画教師に水彩や素描を学んでいたという。1907年4月に、上京して念願の東京美術学校(現・東京藝術大学)洋画科を受験するも、はじめての木炭画で思うように描けなかったようで不合格となり、定員に余裕のあった日本画科への入学となった。しかし、本来の希望をかなえるため白馬会洋画研究所に学んで、洋画科に転じることができた。卒業までに5年を要し、卒業制作は《自画像》(1913年、東京藝術大学)と《銀扇》(1914年、大阪中之島美術館)であった。 美術学校を卒業した小出は大阪に戻り、奈良でも制作を続けた。卒業の年(1914年10月)に文部省美術展覧会(文展)に出品するが落選。その翌年の日本美術院第2回展の洋画部門に出品した《山の初夏》(1915年、大阪府立市岡中学校)が、公募展初入選作となった。その後、幸いにも生家から近い南区鍛冶屋町にあった日本画家・北野恒富[つねとみ]の旧居に落ち着き、1917年に結婚した重子と、翌年には長男・泰弘も生まれ、画家としての成果を世に問う時期にも達していた。そしてこの鍛冶屋町の住居で《芸術家の家族》(1919年、兵庫県立美術館)に着手し、この作品と同じ構想で、さらに密度の濃い《Nの家族》(1919年、大原美術館、倉敷)を完成する。この作品は、友人で小説家の広津和郎[ひろつかずお]のすすめで第6回二科展に出品し、樗牛賞を受賞。小出の洋画家としてのデビュー作となった。翌年の第7回二科展でも《少女お梅の像》(1920年、ウッドワン美術館、広島)ほか4点が入選し、この作品が二科賞を受賞して会友に推挙された。こうして、この初期大阪での活動で、小出は洋画家としての確かな第一歩を刻むことができたのである。 小出は1921年8月から翌年の4月にかけて、多くの画家たちが経験したように、ヨーロッパの息吹に直接触れる機会を得た。しかし、この8か月ほどの旅は、たとえば当地の美術学校に入学し、特定の画家の指導を受けるといった性格を持つものではなかった。自筆の「作品控えのメモ」(小出龍太郎『聞書き小出楢重』中央公論美術出版、1981年)に20頁にわたるこの「メモ」の全文が掲載されている)には、「洋行中のものとして」わずか8点しか記されていない。多くは、ルーヴル美術館などの見学に費やされていたようだ。ただ、ルノワールも滞在していたフランスのカーニュでは、2点の油彩画を描いている。 1922年2月に、妻や市岡中学校時代からの友人である石濱純太郎に最終の葉書を出し、マルセイユから出帆、4月7日に神戸港に着いた。その後、9月に開かれた第9回二科展に滞欧作である《窓》(1922年、個人蔵)ほかガラス絵も含め、4点の作品を出品する。1923年に、小出は『みづゑ』(no.215)に「国境見物」の随筆を寄稿し、1921年にも同誌に「ガラス絵に就いて」(no.193)の文章を寄せていたが、さらに1924年から1931年まで、『中央美術』や『アトリヱ』、『週刊朝日』などの雑誌に計82編の随筆を執筆しはじめる。これらの随筆はすべて、匠秀夫編『小出楢重全文集』(五月書房、1981年)に収録されている。1923年から1929年まで、二科展審査のため上京する。その1923年9月、第10回二科展に《帽子のある静物》(1923年、西宮市大谷記念美術館、兵庫)ほか4点を出品するが、その招待日の9月1日に関東大震災が起こり、黒田重太郎らと上野の会場前で野宿する。翌日から山下新太郎宅に身を寄せ、中旬に大阪に戻る。小出はこの時期、二科展を発表の場として、油彩画のみならずガラス絵にも魅力的な作品を発表していく。 関西の二科会の中でも重要な位置に立つようになっていった小出が、さらに指導者としての地位を固める契機となったのが、1924年4月に、大阪市西区の信濃橋の交差点の一角、当時の大阪でも指折りのモダンな6階建てのビルディングに開所した信濃橋洋画研究所での活動である。開設の前年にそろって二科会会員となった小出、黒田重太郎、鍋井克之、国枝金三が指導するこの研究所は、全国で盛んに行われるようになった講習会の先駆けである夏季講習会や、研究所主催の公募展覧会を企画して、関西の洋画普及にも貢献した。とりわけ研究所展が発展した全関西洋画展覧会(1927年から開催)は、戦前の関西洋画の勢力を大阪に糾合したことでも意義深く、研究所開設の年に描かれた《帽子を冠れる肖像》(1924年、アーティゾン美術館、東京)には、洋画家として、さらには指導者としての自信にあふれた自らの姿が描かれている。 そして、時代が大正から昭和へと変わろうとする1926年、本来の洋画家にふさわしい洋風のモダンなアトリエを兵庫県芦屋市に構える。「座るべき座敷が無い」洋風の家屋で、「洋服を意地でも着て暮らす」(「芦屋風景」『美の國』4巻4号、1928年4月)生活によって、近代都市化の進む大阪(1925年の第2回国勢調査で、大阪の人口は東京を抜いて日本一となる)と、外国人居留地としてハイカラな雰囲気の漂う神戸という阪神間モダニズムの地で過ごしていく。加えて、本格的なアトリエを得たことで、静物や裸婦作品の制作にも拍車がかかり、とりわけ「裸婦の楢重」と呼ばれる名作を数多く生み出した。1929年には挿絵を描いた谷崎潤一郎の『蓼喰ふ蟲』(改造社)が刊行され、1930年12月に、直木三十五が『夕刊大阪新聞』に連載の「大阪を歩く」の挿絵も担当した(全10回)。さらに、自作自演の16ミリ映画や、自ら装丁した3冊の写真アルバムも残し、多彩な活動を行なっている。1930年12月中旬、体調を崩して大阪帝国大学附属病院に入院。翌年1月に退院するも、2月12日に心臓発作を起こし昏睡状態となり、翌13日に逝去。絶筆は、自宅から南側に位置する前庭に転がる丸太と、阪神電車の架線を描いた一見シュルレアリスム風の《枯木のある風景》(1930年、ウッドワン美術館)。1991年に開館した芦屋市立美術博物館には、晩年を過ごしたアトリエが移築され、作品に描かれたソファやテーブルなども配されて、制作の一端をうかがうことのできる空間となっている。2003年には、《Nの家族》が重要文化財に指定された。 (山野 英嗣)(掲載日:2023-09-11)

1931
小出楢重遺作洋画展覧会, 大阪三越, 1931年.
1933
小出楢重遺作素描展,銀座紀伊國屋画廊, 1933年.
1940
小出楢重遺作展覧会: 第27回二科美術展覧会, 大阪市立美術館, 1940年.
1948
小出楢重回顧展: 第33回二科展, 東京都美術館, 1948年.
1953
小出楢重・古賀春江展, 神奈川県立近代美術館, 1953年.
1955
小出楢重回顧展覧会, 梅田画廊, 1955年.
1957
小出楢重遺作展覧会, ブリヂストン美術館, 1957年.
1962
異色作家シリーズ第25回 小出楢重展, 渋谷・東横百貨店, 1962年.
1965
小出楢重, 国立近代美術館京都分館, 1965年.
1969
小出楢重展, 神奈川県立近代美術館, 1969年.
1970
小出楢重展: 没後四十年記念, 大阪梅田阪神百貨店, 日動画廊, 1970年.
1978
小出楢重展: 生誕90年, 西宮市大谷記念美術館, 1978年.
1980
小出楢重: ある画家の生涯と芸術展: 開館十周年記念, 兵庫県立近代美術館, 1980年.
1987
小出楢重展: 生誕100年, 神奈川県立近代美術館, 群馬県立近代美術館, 兵庫県立近代美術館, 1987年.
1991
小出楢重と芦屋: 昭和モダニズムの光彩: 開館記念特別展, 芦屋市立美術博物館, 1991年.
2000
小出楢重の素描: 開館十周年記念, 芦屋市立美術博物館, 2000年.
2000
小出楢重展: 没後70年記念, 名古屋市美術館, 京都国立近代美術館, そごう美術館, 2000–2001年.
2002
小出楢重回顧, 芦屋市立美術博物館, 2002年.

  • 東京国立近代美術館
  • 京都国立近代美術館
  • 兵庫県立美術館
  • 大阪中之島美術館
  • 芦屋市立美術博物館, 兵庫県
  • 神奈川県立近代美術館
  • 三重県立美術館
  • 茨城県近代美術館
  • 大原美術館, 岡山県倉敷市
  • メナード美術館, 愛知県小牧市

1927
小出楢重『楢重雑筆』東京: 中央美術社, 1927年 [自筆文献].
1930
小出楢重『めでたき風景』東京: 創元社, 1930年 [自筆文献].
1931
小出重子『小出楢重作品集』東京: 春鳥会, 1931年.
1936
小出楢重『大切な雰囲気』小出泰弘編. 東京: 昭森社, 1936年 [自筆文献].
1948
座右宝刊行会編『小出楢重素画集』東京: 座右宝刊行会, 1948年.
1955
黒田重太郎『小出楢重の生涯と芸術』東京: 美術出版社, 1955年.
1962
『小出楢重・岸田劉生 世界名画全集: 続巻5』東京: 平凡社, 1962年.
1963
『萬鉄五郎・小出楢重・古賀春江 日本近代絵画全集: 9』東京: 講談社, 1963年.
1970
小出楢重『楢重硝子絵集』東京: 求龍堂, 1970年 [自筆文献].
1972
富山秀男, 乾由明解説『安井曾太郎・小出楢重 現代日本美術全集: 10』東京: 集英社, 1972年.
1972
匠秀夫編著『小出楢重 日本の名画: 36』東京: 講談社, 1972年.
1976
増田洋編『小出楢重 日本の名画: 17』東京: 中央公論社, 1976年.
1979
小出楢重『油絵の新技法』東京: 中央公論美術出版, 新装版1979年.
1980
「没後50年 小出楢重」『みづゑ』908号 (1980年11月): 3-59頁.
1981
匠秀夫編『小出楢重全文集』東京: 五月書房, 1981年 [自筆文献].
1987
芳賀徹編『小出楢重随筆集 岩波文庫』東京: 岩波書店, 1987年 [自筆文献].
1989
『小出楢重 アサヒグラフ別冊, 美術特集日本編』59 (1989年5月).
1993
山野英嗣「《帽子を冠れる肖像》について」『美学』43巻4号 (1993年3月): 51-61頁.
1993
山野英嗣「近代大阪の自画像: 小出楢重《Nの家族》」『新思潮の開花: 明治から大正へ 日本の近代美術: 4』田中淳責任編集. 東京: 大月書店, 1993年, 97-106頁.
1997
『小出楢重 新潮日本美術文庫: 38』東京: 新潮社, 1997年.
2002
岡畏三郎, 原田平作責任編集『小出楢重画集』京都, 大阪: 小出楢重画集刊行委員会, 東方出版 (発売), 2002年 [カタログ・レゾネ].

Wikipedia

小出 楢重(こいで ならしげ、1887年〈明治20年〉10月13日 - 1931年〈昭和6年〉2月13日)は、日本の洋画家。大正から昭和初期に活躍した。

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VIAF ID
13641998
ULAN ID
500123269
AOW ID
_00004779
Benezit ID
B00100107
Grove Art Online ID
T047152
NDL ID
00034141
Wikidata ID
Q3336023
  • 2024-03-01