A1345

黒田辰秋

| 1904-09-21 | 1982-06-04

KURODA Tatsuaki

| 1904-09-21 | 1982-06-04

作家名
  • 黒田辰秋
  • KURODA Tatsuaki (index name)
  • Kuroda Tatsuaki (display name)
  • 黒田辰秋 (Japanese display name)
  • くろだ たつあき (transliterated hiragana)
生年月日/結成年月日
1904-09-21
生地/結成地
京都府京都市
没年月日/解散年月日
1982-06-04
没地/解散地
京都府京都市伏見区
性別
男性
活動領域
  • 工芸

作家解説

1904(明治37)年、京都府京都市祇園清井町に生まれる。父の黒田亀吉は加賀大聖寺の武家に生まれ、幼い時に石川県山中町(現・加賀市)の黒田家の養子になったことで、同地で山中塗を習得し、京都で塗師屋となった。1919(大正8)年に京都市立第二高等小学校を卒業すると、同年秋に父と兄のすすめで蒔絵師の瀬川嘯流[しょうりゅう]の住み込み弟子となるが、健康を害して2か月で家に戻っている。この頃から、漆芸界の分業制に疑問を抱き、「工芸といえども芸術を願うなら、一貫制作の方法を摂らねば不可」と考えて、木工による素地制作をはじめとして独学で取り組み始める(「黒田辰秋年譜」『黒田辰秋 人と作品』駸々堂出版、1972年、253頁)。17歳頃までに、陶芸家の楠部彌一[くすべやいち]と知り合っている。また、雑誌に掲載された富本憲吉の著作を読むことで、陶工にも真摯な芸術家がいることを知って、自らの信念を強めたという。1924(大正13)年の秋には、大阪美術倶楽部で河井寬次郎の講演を聞いた帰路に、楠部の紹介により河井と知り合う。その後、河井邸を訪ねるうちに柳宗悦[むねよし(そうえつ)]や、当時同志社中学の教諭及び学生寮の舎監を務めていた青田五良[ごろう]を紹介されて、交友関係が深まっていった。 1927(昭和2)年3月に上加茂南大路町(京都)の社家の空き家を借り受け、夏頃から黒田(木工)、青田(染織)、青田の弟の七良[しちろう](金工)、鈴木実[みのる](助手)が移り住み、共同生活をしながら制作する「上加茂民藝協團」を創設する。主な活動としてまず挙げられるのは、1928(昭和3)年3月に東京の上野公園で開催された御大禮記念国産振興東京博覧会へ出品された特設館「民藝館」に関わる制作である。「民藝館」では、中流家庭のための木造平屋建て住宅一棟を、柳の設計のもと、日本各地の民藝品や関係作家の作品によって什器を設えたモデルルーム形式で展示し、新たな生活スタイルを具体的に提示した。黒田は木工家具を担当し、「民藝館」の定紋(井桁紋)を透し彫りにした《拭漆欅テーブルセット》(1928年、アサヒグループ大山崎山荘美術館)や《朱漆三面鏡》(1928年、日本民藝館、東京)などを制作したほか、後に「民藝館」が山本為三郎によって購入され、大阪に「三国荘」として移築された際には《子供用机・椅子》(1930年頃、アサヒグループ大山崎山荘美術館、京都)を追加制作している。この他、上賀茂民藝協團には志賀直哉や青山二郎、小林秀雄など多くの来訪者があったとされ、1929(昭和4)年には、河井の支援者でもあった大阪毎日新聞の岩井武俊[たけとし]の発案により、作品頒布会として「民藝協團作品展」が開催されている。当時、彼らの指導的役割にあった柳は、1926(大正15)年4月に「日本民藝美術館設立趣意書」を富本、河井、濱田庄司との連名で発表し、1927(昭和2)年2月には「工藝の協団に関する一提案」によっていわゆる「クラフトギルド」の必要性を論じている。上加茂民藝協團は、1929(昭和4)年に解散するまでの短い活動期間ではあるが、後の民藝運動の胎動期に位置づけられる実践的試みとして重要であり、検証が進められている。 上賀茂民藝協團の解散後、黒田は1930(昭和5)年から柳の推薦で国画会工芸部へ無鑑査出品するようになる。また、進々堂の續木斎[つづきひとし]氏の依頼で百万遍パンホールに《拭漆楢テーブルセット》(1930年頃、京大北門前進々堂、京都)を制作したり、今西善造氏の依頼で祇園石段下「鍵善良房[かぎぜんよしふさ]」菓子舗に《拭漆欅大飾棚》(1931年、鍵善良房、京都)や《螺鈿くずきり用器》(1932年、同)などの店内調度を手掛けたりして、京都の支援者の元で初期の代表作を制作している。なお1933(昭和8)年8月末には、河井及び岩井の推挙により、北海道長官・佐上信一[さがみしんいち]の招聘を受けて、北海道工業試験場(現・北海道立総合研究機構)で木工品制作の指導にあたるが、父の危篤のため同年12月には帰京した。 1935(昭和10)年、後藤新太郎の斡旋で個展「黒田辰秋木漆工芸品個人展」(中村屋、大阪)を開催するにあたり、志賀直哉から推薦文を受け、「ようやく作家として歩むべき自己を見出す」ことになる(同上書、255頁)。この頃から、メキシコ産アワビ貝を用いた螺鈿を本格的に手掛けるようになり、これは版画家の棟方志功により「耀貝[ようがい]」と命名された。日中戦争が始まると、資材の購入が困難になるが、倉敷の大原家をはじめとした個人からの依頼に応えて制作を続けている。1944(昭和19)年に、吉林郊外で在住日本人用の陶磁器制作の指導にあたるため中国に渡った際には、途中でソウルを経由し李王家博物館などを見学した。黒田の初期の作品には、柳が所蔵していた棚を写した《拭漆欅真鍮金具三段棚》(1927年、河井寬次郎記念館、京都)など、朝鮮の木漆工作品からの影響が認められるが、実際に訪れるのはこの時が初めてである。 1945(昭和20)年には、復員してきた若い漆芸家を集めて、番浦省吾[ばんうらしょうご]や竹中微風[たけなかびふう]らと漆芸研究団体「創人社」を作ったとされる。1954(昭和29)年には石黒宗麿に懇請されて、日本工芸会近畿支部の創設に協力した。翌年から日本伝統工芸展に出品するようになり、1956(昭和31)年には第3回日本伝統工芸展で《拭漆文欟木[ぶんかんぼく]飾棚》(1956年、所在不明)が朝日新聞社賞受賞、日本工芸会正会員となり、後に鑑査委員や木竹部会長を務めている。1964(昭和39)年に映画監督の黒澤明からの依頼で、《拭漆楢彫花文椅子》(豊田市美術館、愛知)をはじめとした室内セットを制作、その後1966(昭和41)年には宮内庁から昭和新宮殿に関わる制作依頼を受け、正殿「竹の間」「梅の間」入口扉表裏のノブ及び飾り座板4組(1966年)、扉飾り4組と「梅の間」用大飾棚(1967年)、「千鳥の間」「千草の間」用《朱溜栗小椅子》30脚及び卓子10脚(1968年)の制作にあたった。1970(昭和45)年には木工芸の分野では初めてとなる、重要無形文化財「木工芸」保持者に認定されている。黒田は、拭漆により木目の美しさを生かすような作品から、花などを象った彫文や、稜文による造形を探求した作品、また螺鈿を作品表面の表現に効果的に用いた作品などを制作し、木漆工の表現の幅を広げていった。1976(昭和51)年には、回顧展「黒田辰秋 人と作品」(梅田阪急百貨店、大阪)が開催され、同展に合わせて駸々堂出版(京都)から作品集『黒田辰秋 人と作品』が刊行されている。紫綬褒章受章(1971年)、京都市文化功労者(1976年)、勲四等旭日小綬章受章(1978年)。1982年6月4日、77歳で急性肺炎のため京都市伏見区日野の自宅で死去。 (宮川 智美)(掲載日:2023-09-11)

1935
黒田辰秋個展, 中村屋, 1935年.
1976
黒田辰秋: 人と作品, 大阪・梅田阪急百貨店, 1976年.
1983
黒田辰秋展木工芸の匠, 東京国立近代美術館工芸館, 1983年.
2000
黒田辰秋展, 豊田市美術館, 2000年.
2011
Kuroda Tatsuaki: ein Bildhauer unter den Lackkünstlern, Museum für Lackkunst, Münster, 2011–2012年.
2014
生誕110年: 黒田辰秋の世界: 目利きと匠の邂逅, そごう美術館, 北海道立旭川美術館, 2014年.
2017
黒田辰秋: 京の至宝, 美術館「えき」KYOTO, 2017年.
2023
黒田辰秋展: 没後40年: 山本爲三郎コレクションより, アサヒビール大山崎山荘美術館, 2023年.
2024
生誕120年 人間国宝 黒田辰秋: 木と漆と螺鈿の旅, 京都国立近代美術館, 2024年.

  • 京都国立近代美術館
  • 国立工芸館, 石川県金沢市
  • 北海道博物館
  • 調布市武者小路実篤記念館, 東京
  • 豊田市美術館, 愛知県
  • アサヒグループ大山崎山荘美術館, 京都府
  • 日本民藝館, 東京
  • 河井寬次郎記念館, 京都
  • 川端康成記念會, 神奈川県鎌倉市
  • 旧白洲邸 武相荘, 東京
  • ZENBI-鍵善良房-KAGIZEN ART MUSEUM, 京都

1961
黒田辰秋「柳さんと上加茂民芸協団と私」『民芸手帖』通巻43号 (1961年12月): 8-11頁 [自筆文献].
1963
黒田辰秋「朝鮮の木工品」『民芸』130号 (1963年10月): 20-21頁 [自筆文献].
1967
黒田辰秋「開眼の縁」『民芸』170号 (1967年2月): 15-17頁 [自筆文献].
1972
『黒田辰秋: 人と作品』京都: 駸々堂出版, 1972年.
1977
『黒田辰秋: 木工芸 人間国宝シリーズ: 32』東京: 講談社, 1977年.
2000
豊田市美術館編『黒田辰秋展』豊田: 豊田市美術館, 2000年 (会場: 豊田市美術館).
2014
井澤豊一郎編『黒田辰秋の世界: 目利きと匠の邂逅: 河井寛次郎 柳宗悦 鍵善良房 白洲正子 小林秀雄 武者小路実篤 川端康成 黒澤明』東京: 世界文化社, 2014年.
2018
土田眞紀「『民藝』が誕生した磁場: 大正末期の京都と柳宗悦」杉山享司, 土田眞紀, 鷺珠江, 四釜尚人『柳宗悦と京都: 民藝のルーツを訪ねる』京都: 光村推古書院, 2018年, 77–129頁.
2019
東京文化財研究所「黒田辰秋」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. (日本語) https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9881.html

日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art

木質の美を追求し続けた木漆工芸の人間国宝黒田辰秋は、6月4日午後3時30分、急性肺炎のため京都市伏見区の自宅で死去した。享年77。1904(明治37)年9月21日、京都市に塗師屋を営む黒田亀吉の六男として生まれる。病弱の幼時期を送り、19年父兄の勧めで一時蒔絵師に就くが、健康を害してこれを止め、以後独学する。この頃、漆芸界での分業制に疑問を持ち、制作から塗りまでの木工芸の一貫作業を目指して木工も独...

「黒田辰秋」『日本美術年鑑』昭和58年版(273-274頁)

Wikipedia

黒田 辰秋(くろだ たつあき、1904年9月21日 - 1982年6月4日)は、漆芸家、木工家。京都市祇園生まれ。刳物、指物などの木工と乾漆、螺鈿などの漆芸で幅広く知られる。

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  • 2023-09-26