A1308

北脇昇

| 1901-06-04 | 1951-12-18

KITAWAKI Noboru

| 1901-06-04 | 1951-12-18

作家名
  • 北脇昇
  • KITAWAKI Noboru (index name)
  • Kitawaki Noboru (display name)
  • 北脇昇 (Japanese display name)
  • きたわき のぼる (transliterated hiragana)
生年月日/結成年月日
1901-06-04
生地/結成地
愛知県名古屋市
没年月日/解散年月日
1951-12-18
性別
男性
活動領域
  • 絵画

作家解説

1901年、愛知県名古屋市に生まれる。1910年、京都に住む叔父で実業家の広瀬満正のもとに移り、以後は京都を拠点に活動する。同志社中学を中退後、1919年から21年にかけて鹿子木孟郎に学ぶ。その後しばらく画業を中断するが、1930年に津田青楓の画塾に入り、1932年に第19回二科展に初入選。しかし1933年に津田がマルクス主義者の河上肇をかくまった容疑で検挙されると画塾は閉鎖され、北脇らは友人たちと独立美術協会京都研究所を組織し、新たに須田国太郎を指導者に迎えた。1934年の第4回展から独立美術協会展に出品。また研究所の有志たちと1935年に新日本洋画協会を結成した。 1936年の末頃から北脇はシュルレアリスムに関心をもち、1937年の第7回独立美術協会展に出品した《独活》(東京国立近代美術館)や、第3回新日本洋画協会展に出品した《空港》(東京国立近代美術館)などにおいて、身近な植物を別の何かに(《独活》においてはウドを人間に、《空港》においてはカエデの種子を飛行機に)見立てた独自の幻想的な光景を描き出して注目を浴びた。また同展にて協会メンバーと行った集団制作《浦島物語》(京都市美術館[京都市京セラ美術館])では、シュルレアリスムの「妙屍体」(お互いに描いているものを知らないまま合作することで唐突なイメージの組み合わせを得る手法)と日本の俳諧連句を結びつけた14点連作のユニークな実験を行った(ただし北脇は事前に「設計書」を作り綿密な全体構成を行っている点で「妙屍体」とは方法を異にしている)。こうした幻想的な傾向の作品の代表作としては、1938年に京都市美術展で市長賞を受けた《眠られぬ夜のために》(京都市美術館)がある。 1938年には同じ独立美術協会京都研究所の友人、小牧源太郎とともに創紀美術協会の結成に参加し、同展には自然界のモティーフの組み合わせで人の顔を浮かび上がらせる「ダブル・イメージ(重複映像)」の連作〈観相学シリーズ〉を出品した。これらはユーモラスな外見をもつものであるが、この探求の背後には、混沌とした社会の背後にひそむ法則性を探ることへの関心があった。この関心のもと、北脇は次第にゲーテの自然科学、とりわけ色彩論と植物形態学に関心を広げ、作風も単なる幻想的なものではなく、具象的なイメージと、それらの関係を幾何学的な図形や色面で図解する独自な作風へと展開する。その代表的なものが《(A+B)2意味構造》(東京国立近代美術館)や《流行現象構造》(京都市美術館)であり、これらは1940年の第1回美術文化協会展に出品された。同協会は、独立美術協会を脱退した福沢一郎を中心に前衛画家たちによって結成された団体であるが、戦争の進展とともに同協会には弾圧が加えられ、1941年4月には福沢と、同協会を理論的に支えていた美術評論家の瀧口修造が検挙されるに至った。 この検挙の直後に、同協会は第2回展を開催するが、北脇は同展に、ゲーテの自然科学に加えて東洋の易の思想を取り入れた作品を発表した。これを時局に応じた東洋回帰と見なす解釈もなされてきたが、しかしもともと「易経」は自然観察によって事象の変化を捉え、体系づけようとするものであったことを考えるならば、ここで北脇は東西の自然科学を統合し、図式化する、まったく新しい表現を生み出そうとしていたと見なすこともできる。例えば〈周易解理図〉の連作(1941年、東京国立近代美術館および京都市美術館)において、八卦の記号が6段の色の帯で描かれているが、「陽」を表す記号は暖色(赤、橙、黄)で、「陰」を表す記号は寒色(緑、青、紫)で描かれており、これらの色彩の分割はゲーテの色彩論に基づきつつ、陰陽の循環こそが世界に秩序をもたらすという「易経」の思想もまた図式化されている(色彩の分割も単なる直線的なスペクトル分解ではなく、色彩環として暖色の赤と寒色の紫とが連続するように表される)。こうした観念の図式化の表現は世界的に見ても同時代に類例がなく、北脇の独自性を最もよく示すものといえるだろう。しかしさらに戦局が深まると彼の探求も行き詰まり、戦争末期には制作からしばらく遠ざかる。 終戦後の1946年、彼は画壇の民主化を掲げた日本美術会に参加し、また1947年には日本アヴァンギャルド美術家クラブにも参加して、前衛美術の一般大衆への啓蒙活動を積極的に進めるが、過労により結核を患い、1951年に50歳で早すぎる死を迎えた。彼が最後に発表した油彩画《クォ・ヴァディス》(1949年、東京国立近代美術館)は、袋を背負い、脇に本を抱えた後ろ姿の男が、右へ進もうか左に進もうか、途方に暮れているところを描いたものだが、彼の視線の先、画面の右には嵐に見舞われる街が、画面の左には赤旗を掲げる人々の行進が、それぞれ小さく描かれている。戦後進むべき道を、見る者にともに考えさせる構図となっている。これは戦時中に突き詰めた図式絵画の課題を、より一般大衆にわかりやすく開いていった絵画形式と見ることもでき、北脇の新たな展開を予感させるものだっただけに、その死が惜しまれる。 彼の死後、夫人により多くの作品が国立近代美術館(現在の東京国立近代美術館)に、またいくつかの主要作が京都市美術館に寄贈された。国立近代美術館では1958年に「四人の作家」展において主要作品を紹介し、また1997年に大規模な回顧展を開催した(東京国立近代美術館で開催の後、京都国立近代美術館と愛知県美術館に巡回)。また詳細な評伝として中村義一『日本の前衛絵画 その反抗と挫折—Kの場合』(美術出版社、1968年)がある。国際的には「Japon des avant gardes(前衛芸術の日本)」展(ポンピドゥーセンター、1986年)において、まとまった数の作品が紹介されて注目を浴びた。 (大谷省吾)(掲載日:2025-12-01)

1953
北脇昇遺作展, 京都市美術館, 1953年.
1958
四人の作家: 小川芋錢, 梶田半古, 佐分眞, 北脇昇, 国立近代美術館 (京橋), 1958年.
1963
北脇昇: 1901–1951: 13回忌遺作展, 青木画廊, 1963年.
1986
前衛芸術の日本: 1910–1970: Japon des Avant Gardes 1910–1970, ポンピドゥー・センター, 1986–1987年.
1997
北脇昇展, 東京国立近代美術館, 京都国立近代美術館, 愛知県美術館, 1997年.
1999
名作が生まれる時: 近代日本洋画5つの結晶, 郡山市立美術館, 北九州市立美術館, 1999年.
2020
北脇昇: 一粒の種に宇宙を視る, 東京国立近代美術館, 2020年.
2021
さまよえる絵筆: 東京・京都戦時下の前衛画家たち, 板橋区立美術館, 京都府京都文化博物館, 2021年.

  • 東京国立近代美術館
  • 京都市美術館 (京都市京セラ美術館)
  • 名古屋市美術館
  • 横浜美術館
  • 新居浜市美術館, 愛媛県
  • 岡崎市美術博物館, 愛知県
  • 京都国立近代美術館
  • 大川美術館, 群馬県桐生市

1953
瀧口修造「北脇昇小論」『美術手帖』第70号 (1953年6月): 8–13頁.
1968
中村義一『日本の前衛絵画: その反抗と挫折Kの場合 美術選書』東京: 美術出版社, 1968年.
1979
瀬木慎一「北脇昇」『現代美術のパイオニア: 黎明期の群像』東京: 美術公論社, 1979年, 200–212頁.
1987
Linhartová, Věra. “Dada et Surréalisme au Japon. Arts du Japon.” Paris: Publications orientalistes de France, 1987.
1992
山田諭「北脇昇《空港》」『不安と戦争の時代 日本の近代美術, 10』東京: 大月書店, 1992年, 65–80頁.
2016
大谷省吾『激動期のアヴァンギャルド シュルレアリスムと日本の絵画1928–1953』東京: 国書刊行会, 2016年.
2016
黒沢義輝「北脇昇 意味の次元」『日本のシュルレアリスムという思考野』東京: 明文書房, 2016年, 347–378頁.
2019
東京文化財研究所「北脇昇」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. (日本語) https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8887.html
2021
弘中智子, 清水智世編『さまよえる絵筆: 東京・京都 戦時下の前衛画家たち』東京: みすず書房, 2021年 (会場: 板橋区立美術館, 京都府京都文化博物館). [展覧会カタログ].
2021
大谷省吾「『ニッポン新聞』にみる北脇昇の思考の軌跡(前編)」『東京国立近代美術館研究紀要』第25号 (2021年3月): 24–34頁.
2022
大谷省吾「『ニッポン新聞』にみる北脇昇の思考の軌跡(後編)」『東京国立近代美術館研究紀要』第26号 (2022年3月): 54–74頁.
2022
大谷省吾「二つの、もしくは三つの前衛美術-北脇昇の軌跡が問いかけるもの」『美術フォーラム21』45 (2022年): 69–74頁.
2023
大谷省吾「北脇昇から黒田秀道への書簡」『東京国立近代美術館研究紀要』第27号 (2023年3月): 81–92頁.
2023
ヴァンサン・マニゴ「北脇昇: サルバドール・ダリ作品の再解釈ともう一つのシュルレアリスムの探求」『戦後フランスの前衛たち: 言葉とイメージの実験史』進藤文乃編. 東京: 水声社, 2023年, 121–148頁.

日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art

前衛画壇に活躍した美術文化協会々員北脇昇は、肺結核のため12月18日逝去した。享年50歳。明治34年名古屋に生れ、大正6年京都同志社中学を中退して同8年鹿子木洋画塾に入塾、昭和5年津田青楓塾に転じた。はじめ二科展、独立展に出品したが昭和14年美術文化協会の創立と共に参加、会員となつた。常に京都にあつて同地の前衛画界の推進に尽力し、昭和8年独立美術京都研究所、同10年新日本洋画協会、同12年京都青年...

「北脇昇」『日本美術年鑑』昭和27年版(139頁)

Wikipedia

北脇 昇(きたわき のぼる、1901年6月4日 - 1951年12月18日)は、日本のシュルレアリスムの画家。

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VIAF ID
72257616
ULAN ID
500320584
AOW ID
_00057035
Benezit ID
B00099064
Grove Art Online ID
T046756
NDL ID
00548707
Wikidata ID
Q3342557
  • 2025-10-10