- 作家名
- 川合玉堂
- KAWAI Gyokudō (index name)
- Kawai Gyokudō (display name)
- 川合玉堂 (Japanese display name)
- かわい ぎょくどう (transliterated hiragana)
- 川合芳三郎 (real name)
- 玉舟 (art name)
- 生年月日/結成年月日
- 1873-11-24
- 生地/結成地
- 愛知県葉栗郡外割田村(現・愛知県一宮市木曽川町外割田)
- 没年月日/解散年月日
- 1957-06-30
- 没地/解散地
- 東京都西多摩郡三田村御岳(現・東京都青梅市御岳)
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
作家解説
1873年、愛知県葉栗[はぐり]郡外割田[そとわりでん]村(現・一宮市木曽川町)に父・川合勘七[かんしち]、母・かな女の長男として生まれる。本名は芳三郎[よしさぶろう]。父が48歳で生まれた一人息子であった。1881年、岐阜市米屋町[こめやちょう]へ移住。米屋町は当時の繁華街であり、父母はここで紙、筆、墨を売る商売を始めた。芳三郎は利発で、特に絵の上手な少年として知られていた。少年時、本家訪問や父の趣味の散策に付き合う中で、濃尾平野や木曽川、長良川、金華山などの近隣の自然にしばしば触れ、その原体験がのちに日本の自然を好んで描くことにつながったと思われる。13歳の頃、京都の書家・青木泉橋[せんきょう]夫妻が岐阜に滞在、父を通じて知り合った芳三郎に本格的に絵を学ぶことを勧め、友人・望月玉泉を紹介する。1887年、岐阜尋常小学校(現・岐阜市立岐阜小学校)(註)を卒業。同年9月に玉泉に入門、「玉舟[ぎょくしゅう]」の号を与えられ、父母からの条件により年に4、5回、京都で一週間から十日程度絵を学んでは岐阜に戻るという生活を始める。1890年4月、第3回内国勧業博覧会に《春溪群猿図[しゅんけいぐんえんず]》《秋溪遊鹿図[しゅうけいゆうろくず]》(共に所在不明)の2点が入選(この時の出品に際し、外祖父・竹堂の一字をとって雅号を「玉堂」と改める)、前者は褒状を得る。この栄誉により京都で本格的に修業することを父から許され、同年11月、幸野楳嶺の画塾・大成義会[たいせいぎかい]に入った。しかし翌1891年10月28日に発生した濃尾震災により父を亡くし、京都に引き取った母も1893年4月に急性肺炎でこの世を去る。親戚である岐阜・大洞[おおぼら]家の次女・富子と結婚して、全くの孤独になることはなかったが、若くして両親を失う悲運により自らの将来を見つめ直すことになる。1895年4月、第4回内国勧業博覧会に出品されていた橋本雅邦の《龍虎図屏風》(静嘉堂文庫美術館、東京)、《釈迦・十六羅漢》(個人蔵)に感銘を受け、翌年に上京して雅邦を訪問、入門を願い許される。この時、玉堂は博覧会や共進会で受賞を重ねた有望な京都の青年画家と認識されていたが、楳嶺の教える四条派の穏和な作風とは異なる、狩野派の強靭な筆法による勇壮な作風こそが、迷いの中にある自分に必要と考えたのだろう。6月に改めて上京、以後は雅邦門下の中核となり、東京画壇の作家として活動していくことになる。
1897年、日本絵画協会第2回共進会で《孟母断機[もうぼだんき]》(佐野市立吉澤記念美術館)が三等銅牌を受けた。新聞に同作品の図版が掲載され、全国に玉堂の名が伝わる最初の機会となった。以後も受賞を重ね、1900年頃にはその名声により私塾も盛んとなる。まだこの頃は展覧会への出品は歴史人物画が中心であった。それが1900年4月の奥多摩訪問をはじめ、1903年には印旛沼や日光、1904年には塩原というように、毎年、関東の様々な場所をスケッチ旅行するようになり、次第に風景画を描くことが多くなっていく。風景画への傾倒は、関東の山野の風景に魅せられたことが一因だろうが、かつて親しんでいた故郷の美しい情景を濃尾震災により失った経験が、日本の自然を慕う気持ちを育てることにもつながったと考えられる。1907年3月、東京勧業博覧会に《二日月》(東京国立近代美術館)を出品し一等賞を受賞。近景の岩には狩野派の線描、中景の木々は四条派の描法を用いるなど、東西で学んだ技術を融合昇華して、ノスタルジックな独自の世界を完成させた。8月には第1回文部省美術展覧会(文展)の審査員に任命され、12回まで毎回文展の審査員を務めるなど官展の重鎮となっていく。1915年には東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科教授となり1938年まで指導、私塾の外での後進育成にも尽力した。1916年には第10回文展に春の風景を情緒豊かに表した《行く春》(東京国立近代美術館)を出品。同作は昭和46年度に国の重要文化財に指定され、玉堂の代表作となっている。
狩野派と四条派を融合した描法の風景画で知られる玉堂であるが、作品によっては琳派[りんぱ]の描法である「たらしこみ」も多用した。例えば《背戸の畑[せどのはたけ]》(1914年、十六銀行、岐阜市)、《紅白梅》(1919年、玉堂美術館、東京)、《野末の秋[のずえのあき]》(1927年、岐阜県美術館)などのように、四条派の写実性に琳派の装飾性を巧みに織り込んだ花鳥画を制作している。さらに、日本の自然を描き続けた作家と認められているが、少数だが海外に取材した作品もある。1922年、第1回朝鮮美術展覧会(鮮展)の審査員として横山大観らと京城(現・ソウル)を訪問、さらに朝鮮半島の各地を巡った。帰国後、第4回帝国美術院展覧会(帝展)に《柳蔭閑話図》(1922年、岐阜県美術館)を出品するなど、唯一の海外旅行で取材した外国風景を、複数の絵に残している。
玉堂はまた皇室との関わりも深かった。まず1913年に大正天皇が住まわれた青山御所の杉戸絵を制作しており、1917年には帝室技芸員を拝命。1928年には昭和天皇の即位にあたり御大典用品として《昭和度 悠紀地方風俗歌屏風》を制作、滋賀県の風景を、伝統的な青いすやり霞を用いながら色鮮やかに描いた。1944年には皇后陛下(香淳皇后)の絵の指導も担当している。また玉堂は俳句や和歌を趣味としていたが、1955年には宮中歌会始の儀において召人となり御題「泉」を詠進するという栄誉を得た。皇居三の丸尚蔵館(東京)には《植樹祭》(1948年)のように玉堂と皇室の心温まる交流を絵と歌で表現した作品も所蔵されている。
70代以降、1945年に東京大空襲で牛込若宮町にあった自宅を焼失してからは、疎開先の青梅市に定住し、1957年6月30日に亡くなるまで同地で制作活動を続けた。没地の青梅市御岳には玉堂美術館が1961年に開館し、再現されたアトリエと共に作品が展示されている。晩年、青梅時代の作品は、里山に暮らす人々の生活が生き生きと描かれた小品が多い。最後の日展(第10回日展)出品作となった《屋根草を刈る》(1954年、東京都)も、身の回りの出来事を題材とした親しみを感じさせる風景画であった。
玉堂の回顧展は周年記念ごとに繰り返し開催されているが、近年、風景画の巨匠としてだけでなく、玉堂の画業を改めて評価し直す傾向が見られる。画業の最初期にあたる歴史人物画を再評価する動きがあり、玉堂の画業における琳派の影響を重視する考え方も生まれている。500作以上も描いたと伝わる鵜飼の絵について、岐阜市の長良川鵜飼と関市の小瀬[おぜ]鵜飼との違いを表現から読み解いた論考もある。さらに岐阜県歴史資料館、岐阜市歴史博物館、岐阜県美術館ではそれぞれ、美濃和紙や生糸の商人・武井宗祐[そうゆう]、岐阜提灯の仕事で深く関わった勅使河原直治郎、料亭旅館「萬松館」を営む友人の杉山半次郎、玉堂の支援者で貴族院議員を務めた豪農の早川周造、岐阜の画廊主として玉堂を支えた若山喜一郎(初代)・朗[ほがら](二代目)らに宛てた玉堂の書簡調査・研究が進み、それらによって玉堂の意外な側面が明かされ、作品の新たな読み解きが始まろうとしている。
(青山 訓子)(掲載日:2025-01-29)
註
「岐阜尋常高等小学校」と表記する年譜が多いが、1922年までは「岐阜尋常小学校」(のちの金華[きんか]小学校)である。同じ敷地に「岐阜高等小学校」(のちの京町[きょうまち]小学校)が併設されていた。金華小学校と京町小学校は2008年に統合し、岐阜市立岐阜小学校が開校している。なお玉堂は金華・京町、両方を母校と認めていた。1953(昭和28)年、両校がともに学校創立80周年を迎えるにあたって、その記念に卒業生である玉堂に作品を依頼し、玉堂は金華小学校に《富士》を、京町小学校には《三保の松原》を制作した。この時玉堂は81歳だったが、《富士》は89.0×180.0 cm、《三保の松原》は87.5×149.5 cm、どちらも晩年の玉堂には珍しい大作である。母校への恩返しとして力を奮ったのだろう。《富士》は今も岐阜小学校に飾られており、一方、旧・京町小学校所蔵であった《三保の松原》は現在、岐阜市歴史博物館に寄託されている。2点とも所蔵は岐阜小学校である。
- 1958
- 川合玉堂遺作展, 国立近代美術館 (京橋) , 日本橋高島屋, 京都市美術館, 1958年.
- 1968
- 玉堂: 川合玉堂 その人と芸術: 特別展, 山種美術館, 1968年.
- 1986
- 川合玉堂展: 日本の自然と心, 岐阜県美術館, 福井県立美術館, 1986年.
- 1988
- 川合玉堂展: 日本のこころ 四季の美, 横浜高島屋, 京都・高島屋, 1988年.
- 1994
- 川合玉堂展: 生誕一二〇年記念, 日本橋・高島屋, なんば・高島屋, 名都美術館, 1994年.
- 1998
- 川合玉堂展, 愛知県美術館, 1998年.
- 2000
- 川合玉堂展: 21世紀へ伝えたい日本の自然, 日本橋高島屋, なんば高島屋, 2000年.
- 2001
- 川合玉堂: 四季を詠う: 佐野美術館開館35周年記念特別展, 佐野美術館, 2001年.
- 2003
- 川合玉堂展: 生誕百三十年記念 四季を彩る日本の自然と心, 松屋銀座, 京都高島屋, 2003–2004年.
- 2007
- 川合玉堂展 : 時を越えよみがえる日本の自然: 没後五〇年, 日本橋高島屋, なんば高島屋, 2007年.
- 2007
- 川合玉堂名品展: 没後50年: 平成19年度特別展, 一宮市博物館, 2007年.
- 2011
- 川合玉堂展: 描かれた日本の原風景, 松坂屋美術館, 神奈川県立近代美術館 葉山, 2011年.
- 2013
- 川合玉堂: 日本のふるさと・日本のこころ: 特別展 生誕140年記念, 山種美術館, 2013年.
- 2013
- 素顔の玉堂: 川合玉堂と彼を支えた人びと, 岐阜県美術館, 2013年.
- 2015
- 川合玉堂展: 日本の自然美を見つめて: 奥田元宋・小由女美術館 開館10周年記念, 奥田元宋・小由女美術館, 2015年.
- 2017
- 川合玉堂: 四季・人々・自然: 特別展 没後60年記念, 山種美術館, 2017年.
- 2021
- 川合玉堂: 山﨑種二が愛した日本画の巨匠: 開館55周年記念特別展, 山種美術館、2021年.
- 2023
- 川合玉堂展: 生誕百五十年記念, 富山県水墨美術館, 2023年.
- 2023
- 川合玉堂展: 生誕百五十年: 特別展, 二階堂美術館, 2023年.
- 2023
- 川合玉堂: 心に響くノスタルジックワールド: 特別展: 生誕150年記念, 名都美術館, 2023年.
- 玉堂美術館, 東京
- 東京国立近代美術館
- 東京国立博物館
- 大倉集古館, 東京
- 岐阜県美術館
- 二階堂美術館, 大分県
- 皇居三の丸尚蔵館, 東京
- 山種美術館, 東京
- 五島美術館, 東京
- 東京藝術大学大学美術館
- 1917
- 川合玉堂「玉堂自叙」[連載]1-3『絵画清談』第5巻7月号 (1917年7月): 10–11頁; 第5巻9月号 (1917年9月): 26–28頁; 第5巻10月号 (1917年10月): 10–11頁. (談話を記者がまとめる. 3回連載して中断. 濃尾震災までの自叙伝)
- 1918
- 田口鏡次郎編『玉堂画集』東京: 日本美術学院, 1918年. (印譜掲載)
- 1927
- 川合玉堂, 藤島武二『和洋絵画実習法 書画骨董叢書: 第4巻』東京: 書画骨董叢書刊行会, 1927年.
- 1927
- 川合玉堂『日本画実習法』東京: 二松堂書店, 1927年.
- 1930
- 川合玉堂「習学時代を語る」『アトリエ』第7巻第4号 (1930年4月): 118–123頁. (談話を記者がまとめる. 1896年の上京までの自叙伝)
- 1931
- 児玉希望『川合玉堂』東京: 美術往来社, 1936年. (弟子による伝記)
- 1933
- 川合玉堂『日本画の描き方』東京: 京文社, 1933年.
- 1936
- 川合玉堂『日本画と其技法』東京: 東洋図書, 1936年.
- 1955
- 難波専太郎『川合玉堂』東京: 美術探究社, 1955年.
- 1963
- 『下村観山・川合玉堂 講談社版日本近代絵画全集: 第18巻』東京: 講談社, 1963年.
- 1977
- 『下村観山・川合玉堂 現代日本の美術: 1』東京: 集英社, 1977年.
- 1983
- 『川合玉堂・川端龍子 現代の水墨画: 6』東京: 講談社, 1983年.
- 1987
- 『川合玉堂 歴史を築いた日本の巨匠: 2』全2巻. 東京: 美術年鑑社, 1987年. [カタログ・レゾネ].
- 1987
- 玉堂美術館監修『川合玉堂落款・印譜集』東京: 美術年鑑社, 1987年.
- 1994
- 草薙奈津子編『川合玉堂: 山村余情 巨匠の日本画: 3』東京: 学習研究社, 1994年.
- 1998
- 『川合玉堂の世界: 画集』東京: 美術年鑑社, 1998年.
- 2009
- 岡部昌幸「川合玉堂の母子像: 《孟母断機》とロマンティシズムの潜像」『杉野服飾大学・杉野服飾短期大学部紀要』第8号 (2009年12月): 1–12頁.
- 2012
- 青山訓子「杉山半次郎宛 川合玉堂書簡について」『岐阜県美術館研究紀要』No. 1 (2013年9月).
- 2015
- 三戸信惠「川合玉堂《鵜飼》について: 主題表現に関する一考察」『実践女子大学美学美術史学』第29号 (2015年3月): 11–30頁.
- 2019
- 東京文化財研究所「川合玉堂」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. (日本語) https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8857.html
- 2024
- 鳥羽都子「書簡からたどる川合玉堂と故郷・岐阜の画廊を巡る交流」『岐阜県美術館研究紀要』No. 8 (2024年): 2–22頁.
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「川合玉堂」『日本美術年鑑』昭和33年版(168-171頁)日本画家、日本芸術院会員川合玉堂は、6月30日心臓喘息のため東京都青梅市の自宅で逝去した。87歳。明治6年11月24日、愛知県葉栗郡に生れた。本名は芳三郎、晩年の別号に偶庵がある。明治20年14歳の時京都に出で、望月玉泉の門に入り玉舟と号した。同23年幸野楳嶺の門に移つて玉堂と改め、この年の第3回内国勧業博覧会に出品して、はやくも褒状を受けた。その後、日本青年絵画協会、京都市美術工芸品展覧会、日本...
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川合 玉堂(かわい ぎょくどう、1873年〈明治6年〉11月24日 - 1957年〈昭和32年〉6月30日)は、明治・大正・昭和時代の日本で活動した日本画家。本名は 川合 芳三郎(かわい よしさぶろう)。画号は当初「玉舟(ぎょくしゅう)」、間もなく「玉堂」に改め、晩年は終の棲家と同名の「偶庵(ぐあん)」を別号として用いた。
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- 2025-03-14