A1263

河井寬次郎

| 1890-08-24 | 1966-11-18

KAWAI Kanjirō

| 1890-08-24 | 1966-11-18

作家名
  • 河井寬次郎
  • KAWAI Kanjirō (index name)
  • Kawai Kanjirō (display name)
  • 河井寬次郎 (Japanese display name)
  • かわい かんじろう (transliterated hiragana)
  • 河井寛次郎
生年月日/結成年月日
1890-08-24
生地/結成地
島根県能義郡安来町(現・島根県安来市)
没年月日/解散年月日
1966-11-18
没地/解散地
京都府京都市東山区
性別
男性
活動領域
  • 彫刻
  • 工芸

作家解説

1890(明治23)年8月24日島根県能義郡安来町[のぎぐんやすぎまち](現・安来市)に生まれる。生家は代々大工の棟梁を務めており、7歳年上の兄善左衛門[ぜんざえもん]が後に家職を継いでいる。16歳の時に、生母の弟にあたる産婦人科医の叔父足立健三郎の助言により、陶器の道に進む決心をする。1910(明治43)年、東京高等工業学校(現・東京工業大学)窯業科に無試験で入学。同校では、当時板谷波山が陶芸指導をおこなっており、また3年後には後輩の濱田庄司と知り合うこととなる。在学中の1912(明治45)年には、白樺主催第4回美術展覧会(三會堂、東京・赤坂)に併設のバーナード・リーチ展を見て壺を購入するとともに、後日上野桜木町(東京)のリーチ宅を訪ねている。1914(大正3)年に同校を卒業し、京都市陶磁器試験場に技手として入所すると、小森忍などから技術指導を受ける一方で、附属伝習所の学生に英語を教えた。1916(大正5)年には濱田も同試験場に入所しており、久原[くはら]鉱業株式会社監査役の山岡千太郎の支援を受けて、ホブソン編『中国の陶磁』(註)など海外の文献を入手し、共に釉薬などの研究に励んだという。この時期には、農商務省第3回図案及応用作品展覧会から農商務省第6回工芸展覧会まで、連続して出品している。 1917(大正6)年に同試験場を辞めて、五代清水六兵衞の技術顧問を務めるようになる。1920(大正9)年には、山岡の厚誼により、五条坂鐘鋳町[ごじょうざかかねいちょう]の五代清水六兵衞の窯を自らのものとし「鐘溪窯[しょうけいよう]」と名付けて生涯の制作拠点とした。住居や陶房も同地に構え、窯は共同窯として、他の陶家も使用した。なお、1937年の室戸台風の影響で住居を建て替えており、その際に自ら設計し、実兄を棟梁として建設した自邸は、河井の没後の1973(昭和48)年から河井寬次郎記念館として公開されている。 1921(大正10)年、初個展「河井寬次郎氏創作陶磁展観」(髙島屋、東京・京橋)が開催され、釉裏紅や玳皮盞、三島手など、中国陶磁や朝鮮陶磁を意識した作品を出品した。個展に際し、生涯に渡って親交を結ぶことになる川勝堅一(当時、髙島屋東京店宣伝部長)と知り合い、以後髙島屋での個展が主な作品発表の場となる。また翌年には、髙島屋美術部の出版により河井の代表作10点を掲載した『鐘溪窯第一輯』を刊行し、陶磁器研究者の奥田誠一による序文で「鐘溪窯は突如として陶界の一角に其姿を現はした」と絶賛されている。奥田の紹介で、岩崎小弥太や黒板勝美、細川護立など初期の支援者との関係が生まれていく。一方で、美術雑誌の批評欄には「殊にイヤなのは形ちに於ても甚しく技巧的であつて、氏の才氣は明らかに酌み取れる代りに、藝術的な高い香りはどうしても感じ得ないことの遺憾さがある」(「河井寬次郎陶磁展」『中央美術』9巻6号、1923年6月)など批判的な論調も見られ、河井に対する批評からは、陶芸における芸術的表現をいかに捉えるかという同時代の批評家たちの立場の違いも窺える。 河井は、1923年に倉敷で児島虎次郎が収集したエジプトやオリエントの古陶磁片を調査し、翌年恩賜京都博物館にこれらが展示された「外邦古陶器展覧会」に協力しており、会期中に「陶器の所産心」と題して講演を行っている。ここで河井は、宋時代の青磁やエジプトの陶器などを例として「美しさをたくまずして現れて来る」「無名の生活陶から受ける素晴らしい美」について言及しており(河井寬次郎「陶器の所産心」『恩賜京都博物館講演集』1号、1925年6月、10–15頁)、後の民藝運動と重なる関心がこの時期にはすでに見られ、それまでに研究対象としてきた幅広い古陶磁によって喚起されたものであることが分かる。 1924(大正13)年には、イギリスから帰国した濱田が河井邸に滞在しており、濱田を介して柳宗悦と知り合っている。木喰上人に関する調査などで各地を3人で旅行する中で、「民衆的工藝」を略した「民藝」という言葉が作られ、1926(大正15)年には富本憲吉、濱田、柳と連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表した。同年、黒板や内藤湖南の呼びかけで河井氏後援会が発足しており、制作の方向性を模索する河井を支援している。1929(昭和4)年に髙島屋での個展を再開するが、この間に後援会の主催した展覧会で徐々に見られるようになった日常的に用いるための器も多く発表され、英国のスリップ・ウェアを想起させる流し描やのびのびとした草花文など、この時期には器形や模様、釉薬による表現が大きく変化している。 民藝運動との関わりを考えると、柳が京都で活動を始めるための人的ネットワークに、河井は不可欠な存在だったと言える。また、収集旅行で訪れて知った各地方の窯場の技法や造形に河井が触発され、自作に取り入れた例も指摘できる。さらに河井は、民藝運動の機関誌となる雑誌『工藝』には1931(昭和6)年の創刊号から寄稿しており、同誌または戦後の『民藝』誌を主な執筆の場として多くの文章を残すことになった。特に、太平洋戦争中は陶芸の焼成が出来なかったため、思索や文筆活動に集中して取り組み、それらは戦後、幼少期の思い出を語った随筆などとして発表されている。 1949(昭和24)年頃から、壺や皿などの器物ではありながらも不定形な作品に取り組み始め、その後練上による大胆な模様や、泥刷毛目や三色打薬、碧釉など、しばしば初期・中期・後期と区分される河井の作風の変化において、後期にあたる作品がみられるようになる。1950(昭和25)年頃からは本格的に木彫にも取り組み始め、手をモティーフとした木彫像などを制作している。 河井は重要無形文化財や文化勲章などを辞退しており、主に個展を発表の場としてきた。受賞歴としては、川勝が自らのコレクションから出品した作品として、1937(昭和12)年のパリ万国博覧会で《鉄辰砂草花図壺》(1935年、京都国立近代美術館)が、また1957(昭和32)年に第11回ミラノ・トリエンナーレで《白地草花絵扁壺》(1939年、京都国立近代美術館)が共にグランプリを受賞している。1962(昭和37)年には、小山富士夫の選んだ作品が出品された第3回国際陶芸展(チェコ、プラハ)で《三色扁壺》(不詳)が金賞を受賞した。 1966(昭和41)年、京都にて死去。なお、川勝は生涯にわたって収集した河井の作品を、1968(昭和43)年に京都国立近代美術館へ寄贈し、後に数点を加えた計425点の「川勝コレクション」は、河井の作品を通覧できる「年代作品字引」(川勝堅一「不滅の炎に捧ぐ」京都国立近代美術館編『京都国立近代美術館所蔵作品集 川勝コレクション 河井寬次郎』光村推古書院、2019年、15頁)として知られている。 (宮川 智美)(掲載日:2023-09-11) 註 恐らく、Hobson, R. L. Chinese Pottery and Porcelain: an account of the potter’s art in China from primitive times to the present day. Cassell, 1915.

1921
河井寬次郎氏創作陶磁展観, 京橋 高島屋呉服店, 1921年.
1968
陶工河井寛次郎展: 川勝コレクション, 京都国立近代美術館, 1968年.
2004
表現者 河井寬次郎展, 渋谷区立松濤美術館, 岐阜県現代陶芸美術館, アサヒビール大山崎山荘美術館, 町田市立博物館, 2004–2005年.
2009
河井の真実: 河井寬次郎生誕120年にむけて, 益子陶芸美術館, 2009年.
2010
生誕120年河井寬次郎展: 生命の歓喜, 日本橋高島屋, 大阪高島屋, 京都高島屋, ジェイアール名古屋タカシマヤ, 2010-2011年.
2013
河井寬次郎の陶芸: 科学者の眼と詩人の心: 河井寛次郎記念館開館40周年記念, 東大阪市民美術センター, 瀬戸市美術館, はつかいち美術ギャラリー, 2013-2014年.
2016
河井寬次郎と棟方志功: 日本民藝館所蔵品を中心に, 千葉市美術館, 2016年.
2016
河井寬次郎: 過去が咲いてゐる今、未来の蕾で一杯な今: 没後50年, 美術館「えき」KYOTO, パラミタミュージアム, パナソニック汐留美術館, 兵庫陶芸美術館, 2016-2018年.
2022
陶技始末: 河井寬次郎の陶芸: 特別展, 中之島香雪美術館, 2022年.

  • 京都国立近代美術館
  • 国立工芸館, 石川県金沢市
  • 島根県立美術館
  • 広島県立美術館
  • アサヒグループ大山崎山荘美術館, 京都府
  • 足立美術館, 島根県安来市
  • 大原美術館, 岡山県倉敷市
  • 河井寬次郎記念館, 京都
  • 日本民藝館, 東京

1922
『鐘溪窯第一輯』[東京]: 髙島屋美術部, 1922年.
1940
柳宗悦『富本憲吉・河井寬次郎・濱田庄司作品録』東京: 日本民藝協會, 1940年.
1948
河井寬次郎『いのちの窓』京都: 西村書店, 1948年 (復刻: 河井寬次郎『いのちの窓』河井寬次郎記念館監修. 大阪: 東方出版, 2007年) [自筆文献].
1967
大原美術館編『河井寬次郎』倉敷: 大原美術館, 1967年.
1968
河井寬次郎『六十年前の今』日本民藝館監修. 東京: 東峰書房, 1968年 [自筆文献].
1978
河井寬次郎『炉辺歓語』河井寬次郎記念館監修. 東京: 東峰書房, 1978年 [自筆文献].
1980
乾由明責任編集『河井寬次郎 現代日本陶芸全集: やきものの美: 第4巻』東京: 集英社, 1980年.
1981
河井寬次郎『手で考え足で思う』東京: 文化出版局, 1981年 [自筆文献].
1981
河井寬次郎『陶技始末』東京: 文化出版局, 1981年 [自筆文献].
1996
河井寬次郎『火の誓い 講談社文芸文庫』東京: 講談社, 1996年 [自筆文献].
1996
吉竹彩子「『土』の言説: 一九二〇年代の河井寬次郎,〈技巧〉から〈素朴〉への変遷をめぐって」『研究紀要』17号 (1996年3月): 139-173頁. 京都: 京都大学文学部美学美術史研究室.
2000
濱田庄司「河井との五十年」『無盡蔵』東京: 講談社, 2000年, 207–236頁.
2006
河井寬次郎『蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ 講談社文芸文庫』東京: 講談社, 2006年 [自筆文献].
2018
宮川智美「河井寬次郎の『故郷』表象: 生物学的関心と陶磁器研究という観点から」『比較文学』60号 (2018年3月): 69–83頁.
2019
京都国立近代美術館編『河井寬次郎: 京都国立近代美術館所蔵作品集: 川勝コレクション』京都: 光村推古書院, 2019年.
2019
東京文化財研究所「河井寛次郎」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. (日本語) https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8989.html

日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art

陶芸家の河井寛次郎は、11月18日午後1時5分、京都市東山区の専売公社京都病院で老衰のため死去した。享年76才。河井寛次郎は、柳宗悦、浜田庄司らとともに昭和初年から民芸運動に挺身し、民族的で健康な民衆的な陶芸を主張し、釉薬の研究などにもすぐれた業績をあげた。ロンドン、ニューヨークなどでの個展や昭和32年ミラノ、トリエンナーレ国際工芸展における最高賞受賞など国際的にも著名であった。年譜明治23年(1...

「河井寛次郎」『日本美術年鑑』昭和42年版(149-150頁)

Wikipedia

河井 寛次郎(かわい かんじろう、1890年(明治23年)8月24日 - 1966年(昭和41年)11月18日)は、日本の陶芸家。陶芸のほか、彫刻、デザイン、書、詩、詞、随筆などの分野でも作品を残している。河井 寬次郎とも表記される。

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VIAF ID
17389135
ULAN ID
500234059
AOW ID
_00002766
Grove Art Online ID
T046076
NDL ID
00028917
Wikidata ID
Q6379524
  • 2024-03-01