- 作家名
- 金重陶陽
- KANESHIGE Tōyō (index name)
- Kaneshige Tōyō (display name)
- 金重陶陽 (Japanese display name)
- かねしげ とうよう (transliterated hiragana)
- 生年月日/結成年月日
- 1896-01-03
- 生地/結成地
- 岡山県和気郡伊部町(現・備前市伊部)
- 没年月日/解散年月日
- 1967-11-06
- 没地/解散地
- 岡山県岡山市
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 工芸
- 2019
- 東京文化財研究所「金重陶陽」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. (日本語) https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9000.html
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「金重陶陽」『日本美術年鑑』昭和43年版(151頁)重要無形文化財、日本工芸会理事の備前焼の陶芸家金重陶陽は、11月6日午後10時30分、脳軟化症のため国立岡山病院で死去した。享年71才。金重陶陽は、明治29年(1896)1月3日、岡山県和気郡において備前焼窯元の名門“六姓”のひとつに生まれ、本名を勇。15才の頃から父、楳陽に陶製法を学び、以後、備前焼の制作に没頭し、一時期低俗な雑器焼となっていた備前焼を格調ある作風に復興させるべく室町・桃山期の古...
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金重 陶陽(かねしげ とうよう、1896年(明治29年)1月3日 - 1967年(昭和42年)11月6日)は、岡山県出身の陶芸家。備前焼の陶工として初めて人間国宝となった。本名は金重 勇(かねしげ いさむ)。江戸時代中期以降伊万里焼や九谷焼などに押されて人気を失っていた備前焼を再興させることに成功し「備前焼中興の祖」と称される。自らが優れた陶工であっただけでなく、多くの弟子を育て、その中から次々と人間国宝を輩出するなど備前焼の歴史上果たした功績は計り知れない。陶陽の弟の金重素山、長男の金重道明、三男の金重晃介もそれぞれ陶芸家である。また、漂泊の日本画家の杉本白象は、自らを「金重陶陽の従兄にあたる」と、昭和42年にパトロンに送った作品に付けた手紙に記している。北大路魯山人やイサム・ノグチらとも親交があり、彼らの芸術性に影響を受けた一方、彼らが備前焼を世に知らしめる役割を果たしている。
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- 2023-02-20