A1221

恩地孝四郎

| 1891-07-02 | 1955-06-03

ONCHI Kōshirō

| 1891-07-02 | 1955-06-03

作家名
  • 恩地孝四郎
  • ONCHI Kōshirō (index name)
  • Onchi Kōshirō (display name)
  • 恩地孝四郎 (Japanese display name)
  • おんち こうしろう (transliterated hiragana)
生年月日/結成年月日
1891-07-02
生地/結成地
東京府南豊島郡淀橋町(現・東京都新宿区)
没年月日/解散年月日
1955-06-03
没地/解散地
東京都杉並区
性別
男性
活動領域
  • 絵画
  • 版画

作家解説

1891(明治24)年7月2日、東京府南豊島郡淀橋町(現・新宿区)に生まれる。父・轍[わだち]は当時東京地方裁判所検事の職にあり、その後北白川宮家家令や宮内省式部職を歴任した人物で、東久邇宮稔彦王の幼少期、自宅に預かり教育する重責も担った。それゆえ恩地は一般の家庭とは異なる厳格な環境で育った。1904年獨逸学協会学校中学に入学、卒業後は父の希望にそって第一高等学校に進み医者になるはずだったが、1909年受験に失敗し、進路が大きく転回することになる。 恩地の画家として、また装幀家としての人生を導いた竹久夢二と出会ったのは1909年だった。『夢二画集 春の巻』(洛陽堂、1909年)の読後感を夢二に渡したのをきっかけとして交友が始まり、以後多くの感化を受ける。1910年には画家の道をめざして東京美術学校(現・東京芸術大学、以下美校)予備科西洋画科に入学、その後彫刻科、さらに西洋画科に再入学したが、1915年には同校を中途退学した。しかしこの間に、夢二の『都会スケッチ』(洛陽堂、1911年)に絵を寄せ、文芸雑誌に短歌や詩を投稿するなど、恩地の創作活動は絵画だけでなく文学へと広がりを見せていた。以後、恩地の創作活動は晩年まで美術と文学の両面にわたって展開された。また、絵画制作とほぼ同時に本の装幀も始めており、武者小路実篤や北原白秋、三木露風、室生犀星、萩原朔太郎、山田耕筰などの文学者や音楽家と幅広い交友関係を築き、彼らの書籍・楽譜も含めて生涯に600種以上の装幀を手がけた。その装本美学は『本の美術』(誠文堂新光社、1952年)に披歴されている。 恩地は美校在学中に学友・田中恭吉、藤森静雄と出会い、1914年から木版画の制作を始める。1910年代初頭は芸術家の個性尊重が叫ばれた時代で、「自画自刻自摺」を基本とする創作版画も画家の個性を表出する新しい芸術として台頭した。恩地、田中、藤森の3名は創作版画に情熱を注ぎ、洛陽堂から詩歌と版画の同人誌『月映[つくはえ]』(1–7号、1914–1915年、和歌山県立近代美術館他)を刊行した。恩地が同誌に発表した木版画シリーズ〈抒情〉は、人間の内的感情を色と形を用いて詩情豊かに表した非具象作品で、代表作に《抒情『あかるい時』》(1915年)がある。このシリーズにより恩地は日本の美術界で時代に先駆けて抽象的作品を発表した作家として、また近代版画運動を推進した版画家として位置づけられている。この時期の恩地の木版画には、ムンク、ルドン、ビアズリーはじめ、1914年の「Der Sturm木版画展覧会」(日比谷美術館、東京)で紹介されたドイツ表現主義、とりわけカンディンスキーの影響が色濃く表れている。 一方、恩地は1910年代から20年代初頭にかけて、版画制作と並行して油彩画も手がけた。《自画像》(1915–1919年、福島県立美術館)、《静物》(1915–1919年、郡山市美術館)を含む複数の油彩画を制作、二科展第6回(1919年)や個展(1920年、兜屋画堂、東京・神田)で発表し、新進画家と見なされていた。しかし、1920年代後半以降は油彩画の発表を止め、以後、版画を生涯にわたる表現領域として選択した。1918年に結成された日本創作版画協会(1931年から日本版画協会)、国画会、新興美術家協会をおもな発表の場とし、帝国美術院展覧会(帝展)(1927年から創作版画を受理)にも出品。他方、『詩と版画』『風』など版画同人誌にも版画を発表し続け、版画界の活性化を図った。また、恩地の創作活動は本の装幀、挿絵、写真、詩、作曲、舞台美術と幅広い領域に及んでいたため、ジャンル横断的制作姿勢を基本とした。それゆえ、恩地の版画を含む詩画集には実験精神が溢れている。詩画集『海の童話』(版画荘、1934年)、詩と写真と版画の綜合作『飛行官能』(同、1934年)、詩画集『蟲・魚・介』(アオイ書房、1943年)はその代表作で、恩地はこれらを「出版創作」と呼んだ。 1910年代半ばから1955年までの約40年間におよぶ恩地芸術の特徴は、それが複数の連作によって構成されている点にある。たとえば関東大震災以後1920年代後半から1930年代にかけては〈人体考察〉シリーズが誕生した。1920年代半ば、未来派や立体派のみならずロシア構成主義の情報も日本には入っており、同シリーズはそうした動向を敏感に察知した作品群といえる。1930年代になると新たなシリーズ〈音楽作品による抒情〉に着手、これは同時代の楽曲から得た感動を抽象的構成によって表した版画群である。《No. 1 諸井三郎〈プレリュード〉》(1930–1932年、東京国立近代美術館)、《No. 4 山田耕筰「日本風な影絵」の内「おやすみ」》(1933–1935年、愛知県美術館)に代表されるように、恩地は版特有の摺り重ねの効果を駆使して、音楽と美術の交流を模索した。ここには、「抽象絵画の空白期」と言われる1930年代に、抽象絵画の存在意義を主張し、美術の表現領域を拡大させようとする恩地の強い意志が看取される。 しかしながら、戦中期まで恩地が抽象的作品のみを制作していたわけではない。たとえば、帝展(帝国美術院展覧会)第10回展出品の《岩間》(1929年、千葉市美術館)や国画会第12回展出品の《海》三部作(1937年、シカゴ美術館)、国画会第18回展出品の《二つの追想像(B) 氷島の著者》(のちに《『氷島』の著者(萩原朔太郎像)》、1943年、東京国立近代美術館)のように、戦中まで抽象的作品と並行して数多くの具象的版画も生み出した。版画界の指導的立場にあった恩地は、創作版画の普及や地位向上を推進するために、油絵に負けない重厚な具象的作品、一般に理解しやすい大衆的作品、詩情あふれる半具象的作品と、多彩な版画を手がけた。 戦中期には、1943年に日本版画奉公会の理事長を務めるなど、戦時協力も行った恩地だったが、一方では1941年から版画の研究会「一木会[いちもくかい]」を自宅で開き、後進の版画家を指導していたことが知られている。ここから戦後、斎藤清や駒井哲郎など国際的に認められる若い版画家たちが巣立っていくこととなる。 戦後は、戦災を免れた恩地の自宅が日本版画協会の事務所となり、恩地は戦後版画界の再建と発展を担った。日本美術家連盟理事、国際版画協会理事長を歴任するとともに、長谷川三郎らと日本アブストラクト・アート・クラブ、岡本太郎らとアートクラブを結成し、創作版画を戦後の現代美術へと架橋した。 制作においては、具象的版画がほとんど姿を消し、もっぱら抽象表現を用いた複数のシリーズ版画を制作、〈リリック〉、〈ポエム〉のほか、〈フォルム〉、〈コンポジション〉など新シリーズが次々と誕生し、その総数は180点を超える。また、紙や紐、針金、葉っぱ、靴の踵などを摺り込んだ《リリック No. 12 たよりない希望》(1951年、ホノルル美術館)や《即興 No. 1濡れた舗道》(1949年、ボストン美術館)など、版木を彫らない多版材版画(マルチブロック・プリント)を制作し、新しい版表現の可能性を追求し続けた。こうしたモノタイプに近い作品は、占領期日本に駐留したアメリカ人に蒐集され本国に持ち帰られた。そのため、戦後代表作の多くが現在シカゴ美術館やホノルル美術館などアメリカの美術館所蔵となっている。 1950年代に入り日本の版画の国際的評価が高まりつつある中で、恩地は《イマージュ No. 9 自分の死貌》(1954年、個人蔵)を残し、その翌年1955(昭和30)年6月3日に東京都杉並区の自宅で死去した。生涯の友人だった室生犀星は弔辞で恩地を「未完成の人」と呼んだが、それは恩地の終わりなき実験精神、新しい版画理念を追求し続けた生涯を熟知してのことである。 (桑原 規子)(掲載日:2023-09-11)

1956
第24回日本版画協会展覧会 恩地孝四郎遺作出陳, 東京都美術館, 1956年.
1964
Koshiro Onchi 1891–1955 Woodcuts, California Palace of The Legion of Honoro, 1964.
1976
恩地孝四郎と「月映」, 東京国立近代美術館, 1976年.
1979
一木会展: 恩地孝四郎とその周辺, リッカー美術館, 1979年.
1981
恩地孝四郎・田中恭吉・逸見享版画展, 和歌山県立近代美術館, 1981年.
1982
恩地孝四郎: 特別展, 渋谷区立松濤美術館, 1982年.
1986
Japon des Avant Gardes 1910–1970 [前衛芸術の日本: 1910–1970], ポンピドゥー・センター, 1986–1987年.
1988
恩地孝四郎の油絵展, フジヰ画廊モダーン, 1988年.
1988
竹久夢二とその周辺, 和歌山県立近代美術館, 宮城県美術館, 1988年.
1991
恩地孝四郎とそれを巡る人達, 大川美術館, 1991年.
1992
恩地孝四郎展, ドゥファミリィ美術館, 1992年.
1992
日本の抽象絵画 1910–1945, 板橋区立美術館, 岡山県立美術館, 姫路市立美術館, 京都府京都文化博物館, 北海道立函館美術館, 秋田市立千秋美術館, 1992年.
1994
恩地孝四郎: 色と形の詩人, 横浜美術館, 宮城県美術館, 和歌山県立近代美術館, 1994–1995年.
1997
モダニズムの光跡: 恩地孝四郎・椎原治・瑛九, 東京国立近代美術館フィルムセンター, 1997年.
2000
Hanga: Japanese Creative Prints, ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館, 2000–2001年.
2002
Japanese Prints during The Allied Occupation 1945–1952: Onchi Koshiro, Ernst Hacker and The First Thursday Society, 大英博物館, 2002年.
2005
ポエジーと抒情: 恩地孝四郎をめぐる人々, 大川美術館, 2005年.
2009
室生犀星生誕120周年記念企画展: 装幀の美: 恩地孝四郞と犀星の饗宴 , 室生犀星記念館, 金沢市, 2009年.
2014
月映: Tsukuhaé, 宇都宮美術館, 和歌山県立近代美術館, 愛知県美術館, 東京ステーションギャラリー, 2014–2015年.
2016
恩地孝四郎展, 東京国立近代美術館, 和歌山県立近代美術館, 2016年.
2020
山田耕筰と美術, 栃木県立美術館, 2020年.

  • 和歌山県立近代美術館
  • 愛知県美術館
  • 千葉市美術館
  • 宇都宮美術館, 栃木県
  • 京都国立近代美術館
  • 東京国立近代美術館
  • 横浜美術館
  • 大英博物館, ロンドン
  • シカゴ美術館
  • ホノルル美術館
  • ボストン美術館

1942
恩地孝四郎『工房雑記: 美術随筆』東京: 興風館, 1942年 [自筆文献].
1952
恩地孝四郎『本の美術』東京: 誠文堂新光社, 1952年 (復刻: 東京: 出版ニュース社, 1973年) [自筆文献].
1953
恩地孝四郎『日本の現代版画 創元選書』東京: 創元社, 1953年 [自筆文献].
1955
恩地孝四郎『日本の憂愁』熱海: 龍星閣, 1955年 [自筆文献].
1956
Statler, Oliver. Modern Japanese Prints: an Art Reborn. Rutland, Vt.; Tokyo: Charles E. Tuttle Co, 1956. 日本語版: オリヴァー・スタットラー『よみがえった芸術: 日本の現代版画』猿渡紀代子監修. 東京: 玲風書房, 2009年.
1975
恩地孝四郎『恩地孝四郎版画集』東京: 形象社, 1975年 (Oversea Limited Edition: 『恩地孝四郎版画集: 1891-1955』東京: 形象社, 1975年. 普及版: 『恩地孝四郎版画集: 1891-1955』東京: 形象社, 1977年).
1976
藤井久栄編『恩地孝四郎と『月映』 近代の美術, 35』(1976年7月).
1976
「特集: 恩地孝四郎と『月映』展」『現代の眼』260号 (1976年7月): 9-51頁. 東京: 東京国立近代美術館.
1977
恩地孝四郎『恩地孝四郎詩集』東京: 六興出版, 1977年 [自筆文献 (詩)].
1982
恩地邦郎編『恩地孝四郎装本の業』東京: 三省堂, 1982年. 新装普及版2011年.
1986
Swinton, Elizabeth de Sabato. The Graphic Art of Onchi Kōshirō: Innovation and Tradition. Outstanding Dissertations in the Fine Arts. New York: Garland Pub., 1986.
1986
「特集1: 抒情の抽象画家 恩地孝四郎」『版画芸術』55号 (1986年12月): 59-90頁.
1987
藤井久栄「資料調査『月映』再考 附「DER STURM木版画展覧会」出品作について」『東京国立近代美術館研究紀要』1号 (1987年3月): 9-51, 136-137頁.
1990
田中清光『月映の画家たち: 田中恭吉・恩地孝四郎の青春』東京: 筑摩書房, 1990年.
1992
恩地孝四郎『抽象の表情: 恩地孝四郎版画芸術論集』恩地邦郎編. 東京: 阿部出版, 1992年 [自筆文献].
1992
恩地孝四郎『装本の使命: 恩地孝四郎装幀美術論集』恩地邦郎編. 東京: 阿部出版, 1992年 [自筆文献].
1996
和田浩一「恩地孝四郎の《水浴》について」『宮城県美術館研究紀要』第8号 (1996年3月): 1-10頁.
2008
Kuwahara, Noriko. “Onchi’s ‘Portrait of Hagiwara Sakutarō’: Emblem of the Creative Print Movement for American Collectors”. Impressions: The Journal of the Japanese Art Society of America, No.29, 35th Anniversary Issue (2007-2008): 120-139.
2012
池内紀『恩地孝四郎: 一つの伝記』東京: 幻戯書房, 2012年.
2012
桑原規子『恩地孝四郎研究: 版画のモダニズム』東京: せりか書房, 2012年.
2015
「特集: 恩地孝四郎展」『現代の眼』615号 (2015年12月): 1-5頁. 東京: 東京国立近代美術館.
2016
東京国立近代美術館, 和歌山県立近代美術館編『恩地孝四郎展』[東京], [和歌山]: 東京国立近代美術館, 和歌山県立近代美術館, 2016年 (会場: 東京国立近代美術館, 和歌山県立近代美術館).
2019
東京文化財研究所「恩地孝四郎」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8825.html
2019
野村優子『日本の近代美術とドイツ: 『スバル』『白樺』『月映』をめぐって 九州大学人文学叢書: 14』福岡: 九州大学出版会, 2019年.

日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art

版画家恩地孝四郎は6月3日心臓衰弱のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年63歳。品川区の高福院で告別式が行われた。明治24年、当時裁判官の職にあつた恩地轍の四男として東京に生れた。東京美術学校に入学、洋画、彫刻を学んだが間もなく中途退学した。その頃から詩と版画の雑誌「月映」を創刊し抽象的な作品を発表、更に萩原朔太郎を中心とする「感情」の同人にも加わり、詩や版画、或は装幀にも活躍した。作品は帝展及...

「恩地孝四郎」『日本美術年鑑』昭和31年版(151頁)

Wikipedia

恩地 孝四郎(おんち こうしろう、1891年(明治24年)7月2日 - 1955年(昭和30年)6月3日)は、東京府南豊島郡淀橋町出身の版画家・装幀家・写真家・詩人。長女は児童文学翻訳家の恩地三保子。創作版画の先駆者のひとりであり、日本の抽象絵画の創始者とされている。前衛的な表現を用いて、日本において版画というジャンルを芸術として認知させるに至った功績は高く評価されている。

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VIAF ID
10130847
ULAN ID
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AOW ID
_00065706
Benezit ID
B00133045
Grove Art Online ID
T063571
NDL ID
00062121
Wikidata ID
Q2038322
  • 2024-03-01