A1215

小野竹喬

| 1889-11-20 | 1979-05-10

ONO Chikkyō

| 1889-11-20 | 1979-05-10

作家名
  • 小野竹喬
  • ONO Chikkyō (index name)
  • Ono Chikkyō (display name)
  • 小野竹喬 (Japanese display name)
  • おの ちっきょう (transliterated hiragana)
  • 小野英吉 (real name)
  • 竹橋 (art name)
生年月日/結成年月日
1889-11-20
生地/結成地
岡山県小田郡笠岡村(現・岡山県笠岡市)
没年月日/解散年月日
1979-05-10
没地/解散地
京都府京都市
性別
男性
活動領域
  • 絵画

作家解説

1889年11月20日、岡山県小田郡笠岡村(現笠岡市)に生まれる。本名は英吉。生家は文具商とラムネ製造業を営み、父・才次郎、母・花代の第五子、四男として生まれた。祖父・白神澹庵[しらがたんあん]は高梁や玉島(岡山県)で活躍していた画家。兄・益太郎(小野竹桃)は、京都で竹内栖鳳に師事していた事があり、益太郎の紹介で1903年竹内栖鳳の画塾竹杖会[ちくじょうかい]に入門。栖鳳より「竹橋」(1923年に「竹喬と改号」)の号をもらい、塾の研究会や日本美術協会展、新古美術品展に出品、1907年第1回文部省美術展覧会(文展)では《山家の春》(所在不明)、第2回文展では《落照》(1908年、笠岡市立竹喬美術館、岡山県)が入選するなど研鑽を積む。 1909年、栖鳳の勧めで同門の土田麦僊とともに京都市立絵画専門学校(絵専、現・京都市立芸術大学)の別科に入学。東西の美術史などを学び、画風も西欧絵画や東洋の古典を意識した拡がりを見せるようになる。1910年、第15回新古美術品展に出品した《暮るる冬の日》(笠岡市立竹喬美術館)を美術評論家の田中喜作が好評し、田中を中心とする日本画家と洋画家混合の美術談話会「黒猫会(ル・シャ・ノアール)」に参加する。この頃の竹喬は、印象派の影響を受けた《南国》(1911年、第1回仮面会展、京都市立芸術大学芸術資料館)や、今村紫紅、冨田溪仙らの新南画の影響を受けた《七類[しちるい]》(1915年、笠岡市立竹喬美術館)など、洋の東西を問わず様々な様式を取り入れて表現を模索している。 1916年、第10回文展で《島二作(早春・冬の丘)》(笠岡市立竹喬美術館)が特選となる。この作品はセザンヌの画面構成を意識して、故郷笠岡の起伏に富んだ内海風景を描いたものである。翌年出品した《郷土風景》(第11回文展、京都国立近代美術館)もセザンヌの〈サント゠ヴィクトワール山〉の連作を意識した自信作であったが、特選から一転して落選となる。この出来事はかねてからあった文展の審査方法に対する不信を更に強くさせ、思いを同じくする京都の若手作家たち、麦僊、村上華岳、榊原紫峰、野長瀬晩花とともに新たな絵画公募展の創立へと舵を切ることとなった。 1918年、竹喬、麦僊、華岳、紫峰、晩花は、国画創作協会を結成。「生ルヽモノハ芸術ナリ。機構ニ由ツテ成ルニアラズ」と宣言書を掲げ、創作の自由を第一義とおき、若手の日本画家たちが個性豊かな作品を出品した。竹喬は、第1回国画創作協会展(国展)に四曲一双の大画面に三重県大王崎の漁村風景を描いた《波切村[なきりむら]》(1918年、重要文化財、笠岡市立竹喬美術館)を出品。第2回国展《夏の五箇山》(1919年、笠岡市立竹喬美術館)と《風景》(所在不明)、第3回国展《海島[かいとう]》(1920年、笠岡市立竹喬美術館)と毎年大作を発表するが、「自然の美しい形や色を見た場合に、それを日本画の手法、日本の絵具で、如何やうに現はしたらよいかといふことが問題になる」(小野竹橋「主観客観融合の絵画(談)」『美術画報』43–2、1919年12月、14頁)、「自然を観て感激した処の十分の一もまだ表現し得ない」(小野竹橋「国展所感」『美術画報』44–2、1920年12月、5頁)と述べて、次第に表現の行き詰まりを感じるようになる。 1921年国展を休会し、麦僊、晩花、洋画家・黒田重太郎とともに渡欧。約半年間の滞在で、パリを拠点にイタリア、スペイン、イギリスを巡る。西欧絵画を直に観て、スケッチや模写をする中で、自身が日本画で目指すべき方向性のヒントを得る。帰国後は、雅号を「竹橋」から「竹喬」へと変更し、《春耕》(1924年、第4回国展、笠岡市立竹喬美術館)のような明朗な色彩の作品を経た後、線での表現の可能性を探る。線を主体とした表現の作品は《冬日帖》(1928年、第7回国展、京都市美術館)で一つの成果を示し、さらに作者の精神性を重視する文人画を意識して《山海行吟帖》(1930年、笠岡市立竹喬美術館)などを生み出す。しかしこの試みは長くは続かず、1939年の《清輝》(第3回文部省美術展覧会[新文展]、所在不明)ではゆったりとした太い墨線を用いて立体感を面で表現する意識が芽生え、以降は色を用いた面的な表現へ移行し、表現の方向性が定まる。 画業の前半には様々な様式を摂取し、表現の模索を続けたが、1939年頃から方向性が定まった後は、造形や色が深化していく。この画風確立の一因として、竹喬のまわりで1936年から1945年までに立て続けに身内や友人が亡くなるという辛い出来事が続いたことが挙げられる。中でも1943年画家を目指していた息子・春男の戦死の悲しみは大きく、春男の戦死の翌年に出品した《月》(1944年、平安神宮御鎮座五十年 平安遷都千百五十年奉祝京都市美術展覧会、笠岡市立竹喬美術館)は、広い画面に月と雲のみを描く、以前には見られない構図である。後の文章のなかで「子供の出征を送って行く道に、夏雲のわき立つのを見て、何となくはるかな想いをした。戦死の報を受け取ったとき、その魂が空にあるような気がした。あのふわりと浮ぶ雲に、その霊が乗っているのではないだろうかとよく想った」(小野竹喬「窓外の雲」『毎日新聞』夕刊、1954年10月14日)と書いており、雲や空への特別な関心は、1943年頃から強くなっていたと考えられる。 戦後《夏山》(1946年、朝日美術展第1回、安来市加納美術館、島根県)、《仲秋の月》(1947年、第3回日展、笠岡市立竹喬美術館)などを出品。1947年に帝国芸術院の会員へ推挙される。《奥入瀬の渓流》(1951年、第7回日展、東京都現代美術館)では写生に大和絵の装飾性を取り入れ、《雨の海》(1952年、第8回日展、東京国立近代美術館)では海面の複雑な模様を丹念に捉えている。1967年《池》(第10回新日展、東京国立近代美術館)は水面と葦のみを描く明快な構成の中に、透き通った自然の美を表現した。このように竹喬は次第に、名勝地など特別な場所ではなく、身近にあるさりげない風景の中に美を見出して描くようになる。 竹喬が1976年に文化勲章を受章する契機となった〈奥の細道句抄絵〉連作10点(1976年、奥の細道句抄絵展、京都国立近代美術館)は、松尾芭蕉の『おくのほそ道』に詠まれた句意を絵画化したものである。竹喬は栖鳳への入門と同時期に俳句も詠みはじめており、『おくのほそ道』を風景画として描きたいという構想は早くから持っていた。この想いを遂げるために1975年から余呉湖(滋賀県長浜市)、東北、敦賀(福井県)、仙台(宮城県)と取材旅行に出かけている。高齢にも関わらず竹喬が現地を取材することにこだわったのは、芭蕉が詠んだ地に改めて立つことが制作の上で必要と考えたためである。《五月雨をあつめて早し最上川》では最上川の取材時に干上がっていた川底のゴツゴツとした岩場を歩き、画面を水の流れだけに絞って描くことを決めた。また酒田(山形県)の取材で日本海への落日をみた竹喬は「太陽が赤くなる前に、あんなに美しい色彩を放つとは想像しませんでした。海がもえぎ色に染まったのを見て、芭蕉の心を溶かすのはこの色でなければという実感がありました」(池田弘『句抄絵奥の細道 ― 小野竹喬の人と芸術 ―』創元社、1978年』)と語り、《暑き日を海にいれたり最上川》を制作している。過去に小杉放庵や川端龍子も『おくのほそ道』の絵画化を試みているが、竹喬の〈奥の細道句抄絵〉は芭蕉と同じ視点に立ち、句の持つ普遍的な情感を竹喬なりに昇華して創造している点において、独自の芸術作品となっている。 竹喬は1979年5月10日、胃癌のために京都で死去する。画業前半のひたむきに表現の模索を続けた姿は、近代日本画の変革期の様を映し、戦後の表現は美術史家・河北倫明が《雨の海》(1952年)を「ほんとうの日本の風景画があらわれた」(河北倫明「小野竹喬の芸術」『小野竹喬遺作展』図録、山陽新聞社、1981年)と評したように、日本の風景画の新しい扉を開いたものといえる。 (中原 千穂)(掲載日:2025-01-15)

1916
第10回文部省美術展覧会, 上野公園竹之台陳列館, 1916年.
1957
小野竹喬写生展, 銀座松屋, 1957年.
1963
国画創作協会回顧展, 京都市美術館, 1963年.
1966
小野竹喬展: 喜寿記念, 日本橋高島屋, 1966年.
1969
小野竹喬回顧展, 京都市美術館, 1969年.
1975
小野竹喬展: 画業60年記念, 日本橋三越, 大阪北浜・三越, 1975年.
1976
奥の細道句抄絵展: 小野竹喬, 日本橋・高島屋, 四条・高島屋, なんば・高島屋, 岡山高島屋, 1976年.
1981
小野竹喬遺作展, 岡山県総合文化センター, 東急百貨店・渋谷, 京都市美術館, 1981年.
1982
小野竹喬: その人と芸術: 開館記念展, 笠岡市立竹喬美術館, 1982年.
1983
小野竹喬: 墨と彩展, 高島屋・東京店, 高島屋・大阪店, 高島屋・京都店, 高島屋・岡山店, 1983年.
1985
小野竹喬: 特別展, 何必館・京都現代美術館, 1985年.
1993
国画創作協会回顧展, 京都国立近代美術館, 東京国立近代美術館, 1993年.
1995
小野竹喬展: 自然に語りかける画家, 京都府京都文化博物館, 1995年.
1995
小野竹喬: その人と芸術: 特別展, 山種美術館, 1995年.
1999
小野竹喬: 生誕110年・没後20年記念展, 京都国立近代美術館, 東武美術館, 笠岡市立竹喬美術館, 1999年.
2009
小野竹喬展: 生誕120年, 大阪市立美術館, 笠岡市立竹喬美術館, 東京国立近代美術館, 2009–2010年.
2018
国画創作協会の全貌展: 創立一〇〇周年記念, 笠岡市立竹喬美術館, 和歌山県立近代美術館, 新潟県立万代島美術館, 2018–2019年.
2019
小野竹喬のすべて: 生誕130年記念, 笠岡市立竹喬美術館, 2019年.
2020
小野竹喬・春男: 父と息子の切ない物語, 京都府立堂本印象美術館, 2020年.

  • 笠岡市立竹喬美術館, 岡山県
  • 京都国立近代美術館
  • 京都市美術館 (京都市京セラ美術館)
  • 東京国立近代美術館
  • 東京都現代美術館
  • 山種美術館, 東京
  • 福田美術館, 京都
  • 安来市加納美術館, 島根県
  • 岡山県立美術館
  • ワコーミュージアム, 岡山県

1919
小野竹橋「主観客観融合の絵画」『美術画報』第43編2巻(1919年12月): 30–31頁. [自筆文献].
1920
小野竹橋「国展所感」『美術画報』第44編2巻(1920年12月): 21頁. [自筆文献].
1966
今泉篤男「小野竹喬の人と芸術」『小野竹喬作品集』東京: 三彩社, 1966年, 3–18頁.
1975
梅原猛「純粋な自然詩人」『小野竹喬展: 画業60年記念』[出版地不明]: 読売新聞社, [1975]年 (会場: 日本橋三越, 大阪北浜三越).
1978
池田弘『句抄絵奥の細道: 小野竹喬の人と芸術』大阪: 創元社, 1978年.
1979
小野竹喬『冬日帖』東京: 求龍堂, 1979年. [自筆文献].
1981
河北倫明「小野竹喬の芸術」『小野竹喬遺作展』東京: 日本経済新聞社, 1981年 (会場: 東急(渋谷), 京都市美術館).
1984
加藤一雄「小野竹喬」『京都画壇周辺: 加藤一雄著作集』東京: 用美社, 1984年.
1986
橋本喜三「小野竹喬」『近代京都美術の創造者たち』京都: 京都書院, 1986年.
1987
島田康寛「小野竹喬」『東西の巨匠たち: 近代日本画』京都: 京都新聞社, 1987年.
1995
山種美術館編『小野竹喬: その人と芸術; 特別展』[東京]: 山種美術館, 1995年.
1997
加藤類子「風景の画家: 小野竹喬」『京都日本画の回想』京都: 京都新聞社, 1997年.
1999
上薗四郎「竹喬絵画の展開と形成」『小野竹喬大成』東京: 小学館, 1999年.
1999
内山武夫[ほか]編『小野竹喬: 生誕110年・没後20年記念展』[東京]: 毎日新聞社, 1999年 (会場: 京都国立近代美術館, 東武美術館, 笠岡市立竹喬美術館).
2003
笠岡市立竹喬美術館友の会編『竹喬のことば』全9冊. 笠岡: 笠岡市立竹喬美術館友の会, 2003–2020年.
2009
弓野隆之, 上薗四郎, 徳山亜希子, 鶴見香織編集・執筆『小野竹喬展: 生誕120年』[東京],[大阪]: 毎日新聞社, NHKプロモーション, NHKプラネット近畿, 2009年 (会場: 大阪市立美術館, 笠岡市立竹喬美術館, 東京国立近代美術館).
2010
上薗四郎「小野竹喬と近代日本画」博士論文, 関西大学, 2011年.
2018
笠岡市立竹喬美術館編『小野竹喬のすべて: 生誕130年記念』[笠岡]: 笠岡市立竹喬美術館, 2019年 (会場: 笠岡市立竹喬美術館). [展覧会カタログ].
2018
『竹喬研究』1– (2018年–). 笠岡: 笠岡市立竹喬美術館.
2019
東京文化財研究所「小野竹喬」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9587.html
2023
上薗四郎監修・文『小野竹喬の世界: うつりゆく自然を描く; 笠岡市立竹喬美術館名品集』[京都]: 青幻舎プロモーション, 青幻舎(発売), 2023年.

日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art

日本画家小野竹喬は、5月10日胃ガンのため京都市内富田病院で死去した。享年89。本名英吉。1889(明22)年11月20日岡山県笠岡市の小野才次郎の四男として生れた。1903年京都に出て竹内栖鳳の門に入った。1907年第1回文展に「山家の春」が初入選後、1909年には創立間もない京都市立絵画専門学校に入学した。在学中から新傾向の日本画を模索し、当時の旧芸術の行きずまりによる新しい芸術思潮や動向に強...

「小野竹喬」『日本美術年鑑』昭和55年版(274-278頁)

Wikipedia

小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11月20日 - 1979年(昭和54年)5月10日)は、大正・昭和期の日本画家。本名は小野英吉。

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VIAF ID
11170455
AOW ID
_00065712
NDL ID
00061898
Wikidata ID
Q11464231
  • 2025-03-14