A1199

荻原守衛

| 1879-12-01 | 1910-04-22

OGIHARA Moriye

| 1879-12-01 | 1910-04-22

作家名
  • 荻原守衛
  • OGIHARA Moriye (index name)
  • Ogihara Moriye (display name)
  • 荻原守衛 (Japanese display name)
  • おぎはら もりえ (transliterated hiragana)
  • Ogihara Morie (translitarated Roman)
  • 荻原碌山 (art name)
  • Ogihara Rokuzan (art name)
  • おぎはら ろくざん
  • Ogiwara Rokuzan
  • Ogiwara Morie
  • Ogiwara Moriye
生年月日/結成年月日
1879-12-01
生地/結成地
長野県南安曇郡東穂高村(現・長野県安曇野市)
没年月日/解散年月日
1910-04-22
没地/解散地
東京府東京市
性別
男性
活動領域
  • 彫刻

作家解説

1879年12月1日、南安曇郡東穂高村矢原[みなみあづみぐんひがしほたかむらやばら](現・安曇野市穂高)の農家の五男として生れる。本名は守衛[もりえ]。苗字は荻原自身のアルファベット表記「Ogihara」から「おぎはら」が正しいと思われる。号・碌山[ろくざん]は、2回目のパリ留学時代に愛読していた夏目漱石の『二百十日』(『中央公論』1906年10月)の登場人物「碌さん」に由来し、1907年の夏頃から使い始めた。こちらについても彼自身のアルファベット表記「Rokuzan」が残っているため、「ろくざん」と発音していたことがわかる。 高等小学校では学業優秀で、特に図画、算数、作文、体操を得意とし、卒業後は家業を手伝った。1894年に東穂高禁酒会に入会し社会的視座を育む。1896年、心臓の病のため病臥する生活が続き、農業の重労働に従事できなくなり、好きな絵に時間を費やすようになった。1899年10月20日上京、明治女学校の片隅に仮寓。校長・巌本善治[いわもとよしはる]の勧めもあり、小山正太郎[こやましょうたろう]が主宰する画塾・不同舎[ふどうしゃ]に入塾する。しかし上京後2年をまたず、知人に時期尚早といさめられながらも渡米を決意、家族を説得し、1901年3月13日には横浜港からアメリカへ向かう。留学の資金は、兄や祖母が用意してくれた。その後も荻原は海外から何度か家族に無心し、毎回ではなかったが兄たちはなんとか弟の願いを叶え送金している。家族の理解と後押しがなければ、彫刻家・荻原守衛は生まれなかったといえよう。 ニューヨークへ渡ったものの、最初の半年は苦しみの連続だった。体調を崩す、仕事を探しても英語が未熟なため長続きしない、一時は死すら考えたという。そんななか幸運にも富豪フェアチャイルド家の学僕となり、働きながら美術学校へ通うことを許された。この頃は美術学校アート・スチューデンツ・リーグに通い、石膏デッサンを行い、続いてチェイス・スクールで画家ロバート・ヘンライの指導のもと、表現主義的な絵を描いていたと伝わる。 その後荻原は1903年10月、憧れのパリに渡る。画塾アカデミー・コラロッシ、アカデミー・ドゥ・ラ・グランド・ショーミエール、続いて画塾アカデミー・ジュリアンの絵画部へ通った。ジュリアンへの転学はパリで知り合った不同舎の先輩・中村不折[なかむらふせつ]の勧めによる。ジュリアンでは画家ジャン = ポール・ローランスの指導を受け、腕一本のスケッチに明け暮れた。 再び学資を稼ぐため帰米する間際、ロダンの《考える人》と出会い、彫刻への転向を決心する。帰米後は人体構造の把握に努め、解剖学研究を熱心に行ったと伝わる。再渡仏し、アカデミー・ジュリアン彫刻部に入り彫刻の研鑽を積む。1907年、少なくとも4回ロダンのもとを訪ね、時には直接指導を受けることもあった。このころの作品に《坑夫》、《女の胴》(いずれも1907年、ブロンズ、碌山美術館他)がある。《坑夫》にみられる彫刻における量、面、動勢への理解や、《女の胴》にみられる流動感ある粘土づけなどは、ロダンの作品から感得したものであろう。やがて荻原は美術の本場は何も西洋だけではないことに気付くとともに、日本美術をあらためて研究してみたいと思い、1907年12月17日帰国の途に就く。途上、イタリア、ギリシア、エジプトで名作の数々を見て、3月13日に帰国する。 帰国した荻原に次兄・荻原本十[ほんじゅう]は新宿角筈[つのはず]にアトリエを用意してくれた。荻原は愛読したバイロンの劇詩『マンフレッド』の台詞にちなんで「オブリヴィオン庵」と名付けた(英語「オブリヴィオン oblivion」は「忘却」の意)。 帰国後の第一作《文覚[もんがく]》(1908年、ブロンズ、東京国立近代美術館他)は、鎌倉成就院[じょうじゅいん]の《伝文覚自刻像》を見たことが制作のきっかけとなった。当初は「ストラッグル(煩悶)」というテーマで全身像の制作を始めたが半身像となった作品。文覚は平安鎌倉時代に実在した僧侶。仏門に入りながらも欲望を払拭できずに苦悩する姿に、荻原が当時抱えていた想いが重ね合されている。それは同郷の先輩・相馬愛蔵[そうまあいぞう]の妻・良[りょう](黒光[こっこう])への道ならぬ想いである。第2回文部省美術展覧会(文展)で三等賞を受賞。なお、この作品とともに出品されながらも落選した《坑夫》は現在、日本の近代彫刻の嚆矢として高く評価されている。 相馬良への想いはなかなか完成に至らなかった《デスペア》(1909年、ブロンズ、碌山美術館)にもみることができる。その想いを乗り越えたのであろうか、1909年は制作が充実し、肖像彫刻の傑作《北條虎吉像[ほうじょうとらきちぞう]》(1909年、ブロンズ、東京国立博物館他)を生みだすことになった。本作は第3回文展で三等賞を受賞。その石膏原型(1909年、碌山美術館)は1968年重要文化財の指定を受けた。 荻原の最後の作品《女》(1910年、ブロンズ、東京国立近代美術館他)は没後第4回文展に出品され三等賞を受賞し、文部省買上となった。その石膏原型(1910年、東京国立博物館)は1967年、明治以降の彫刻として初めて重要文化財の指定を受けている。流動感のある粘土づけが螺旋状に展開する面の構成とあいまって、作品に動きをもたらしている。 地面にひざまずき、天を仰ぐ《女》は、体を右側に緩やかに廻す哀感漂うポーズをとる。モデル・岡田みどりはとても苦しく長く続けられなかったとの言葉を残している。両腕が後ろ手に取られていると見れば不自由な状態にあるとも読める。ところが顔の表情はどちらかといえば穏やか。このことから、自分の意に沿わぬ苦境にあっても、それに何とか折り合いを付けながら、理想を忘れずに持ち続けていこうとする精神的態度が表された作品と解釈されている。 《女》の顔が、モデルの岡田ではなく、相馬良の顔に似ていることに注目すれば、良がモチーフとなった作品といえよう。《女》の姿に込められた精神性は彼女が貧しさや悲運といった苦難を乗り越えてきた姿と重ね合わせることができるだろう。さらに旧習に抗いながら自由な女性の生き方を求めた女性解放運動という同時代のムーブメント「新しい女」を表象しているとの解釈も可能だ。 加えて、荻原が良への想いに苦しんでいたことに依れば、《文覚》の「苦しみ」、《デスペア》の「絶望」、それらを乗り越えた心の持ちようが表された《女》ととらえることもできる。《女》は実に重層的な意味を奏でる作品なのである。《女》は、荻原がロダンから学びとった芸術における生命感の表現が形の上でも内面的にも最もよく現れた作品といえよう。とはいえ、その静謐で抑制のきいた表現はロダンとは異なり、そうした方向への展開を志向していたようにみえる。 荻原が帰国後主唱したのは、生命感を第一に考えるというものであり、それは「生命の芸術」と呼ばれている。友人の彫刻家・高村光太郎[たかむらこうたろう]、戸張孤雁[とはりこがん]らと共有する芸術観であったし、後進の彫刻家・中原悌二郎[なかはらていじろう]、画家・中村彝[なかむらつね]らに受け継がれた。荻原を慕う彼らは、荻原を中心に、相馬愛蔵、良夫妻が開いたパン屋・中村屋に集まった。そのため彼らのことを「中村屋グループ」と称するが、荻原(1910年4月22日没)に続き、中原(1921年没)、中村(1924年没)、戸張(1927年没)が短命だったことに加え、芸術表現が表現主義的傾向を強めていく時代の趨勢もあり、その煌めきは長く続かなかった。 荻原の作品は没後ほどなくして、新宿中村屋の敷地の建物に移され「碌山館」として公開され、1917年以降は生家の「碌山館」に移され公開された。そのため作品や資料の大半が散逸することなく伝えられ、1958年に開館した碌山美術館に受け継がれている。 (武井 敏)(掲載日:2023-11-17)

1910
太平洋画会第八回展覧会, 上野公園竹之台陳列館, 1910年.
1955
四人の作家: 下村観山, 荻原守衛, 靉光, 橋本平八, 国立近代美術館 (京橋), 1955年.
1957
荻原碌山の彫刻, 日本橋三越, 1957年.
1975
碌山と中村屋サロン, 長野県信濃美術館, 1975年.
1999
荻原守衛と朝倉文夫展: 日本近代彫塑入門, 徳島県立近代美術館, 1999年.
2010
明治の彫塑: ラグーザと荻原碌山, 東京藝術大学大学美術館, 2010年.
2011
没後100年: 荻原守衛展: ロダンの情熱を継いだ人, 長野県信濃美術館, 2011年.
2019
生誕140年・開館5周年記念: 荻原守衛展 彫刻家への道: 碌山, 中村屋サロン美術館, 2019年.
2020
荻原守衛「碌山」: ロダンに学んだ若き天才彫刻家: 特別展: 没後110年, 井原市立田中美術館, 2020年.

  • 碌山美術館, 長野県安曇野市
  • 東京国立博物館
  • 東京国立近代美術館
  • 東京藝術大学大学美術館
  • 中村屋サロン美術館, 東京

1911
荻原守衛『彫刻真髄』東京: 精美堂, 1911年 [自筆文献].
1954
東京藝術大学石井教授研究室編『荻原碌山: 彫刻家』長野: 信濃教育会, 1954年 (増補版: 東京: 岡書院, 1956年. 第3版: 穂高町(長野県): 碌山美術館, 1969年).
1967
仁科惇『碌山荻原守衛』池田町(長野県): 柳沢書苑, 1967年.
1977
仁科惇『荻原碌山: その生の軌跡』池田町 (長野県): 柳沢書苑, 1977年.
1979
碌山美術館編『荻原守衛の人と芸術』長野: 信濃毎日新聞社, 1979年.
1980
『碌山美術館報』第1号- (1980年-).
2009
碌山美術館編『荻原守衛作品集』安曇野: 碌山美術館, 2009年.
2015
荻原守衛書簡集編集委員会編『荻原守衛書簡集』安曇野: 碌山美術館, 2015年.
2018
荻原守衛日記・論説集編集委員会編『荻原守衛日記・論説集』安曇野: 碌山美術館, 2018年.
2018
碌山美術館編『彫刻家荻原守衛: 芸術と生涯』安曇野: 碌山美術館, 2018年.
2024
「荻原守衛(碌山)について」碌山美術館. 閲覧日2024年1月5日. http://rokuzan.jp/%e8%8d%bb%e5%8e%9f%e5%ae%88%e8%a1%9b%e7%a2%8c%e5%b1%b1%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/.

Wikipedia

荻原碌山(おぎわら ろくざん / おぎはら ろくざん、1879年(明治12年)12月1日 - 1910年(明治43年)4月22日)は、明治期の彫刻家。本名は守衛(もりえ)、「碌山」は号である。

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VIAF ID
290820063
ULAN ID
500121395
AOW ID
_00065592
Benezit ID
B00154960
Grove Art Online ID
T063293
NDL ID
00058219
Wikidata ID
Q7360123
  • 2024-03-01