A1151

榎倉康二

| 1942-11-28 | 1995-10-20

ENOKURA Kōji

| 1942-11-28 | 1995-10-20

作家名
  • 榎倉康二
  • ENOKURA Kōji (index name)
  • Enokura Kōji (display name)
  • 榎倉康二 (Japanese display name)
  • えのくら こうじ (transliterated hiragana)
生年月日/結成年月日
1942-11-28
生地/結成地
東京府
没年月日/解散年月日
1995-10-20
没地/解散地
東京都世田谷区
性別
男性
活動領域
  • 絵画
  • 写真
  • コンセプチュアルアート

作家解説

1942(昭和17)年、現在の東京都世田谷区奥沢に生まれる。父の榎倉省吾は古家新、向井潤吉らと行動美術協会を結成した洋画家である。幼少期から父のモデルを務めたり、ともに写生旅行に出かけたりするなど作品制作が身近な環境にあり、1962年に東京藝術大学美術学部絵画科に入学する。大学時代から山口薫教室に在籍し、1966年には同学大学院の美術研究科に進学した。榎倉は絵画や彫刻といった旧来の美術表現に疑問を抱き、モチーフと背景の接点やメディウム同士の物質的な接触に関心を抱くようになる。活動の初期には、線遠近法によって室内空間が描かれたグラフ紙の上に綿を貼り付けたり、立体作品の制作を試みたりしていた。 1969(昭和44)年に椿近代画廊で開催された初個展「歩行儀式」では、メタリックなカラーで塗装したベニヤ板やインストラクション(指示)を配し、鑑賞者に画廊の空間を周回させるインスタレーション作品を発表した。また翌年には「第10回日本国際美術展 人間と物質」に、油を浸した藁半紙を床に敷き詰めたインスタレーション《場》(現存せず)を出品している。1971年には「第7回パリ青年ビエンナーレ」に参加し、公園にある2本の木の間をコンクリートで埋めた大型作品《壁》(現存せず)を制作。この作品によって榎倉は優秀賞を受賞し、1973年から1年間パリに滞在した。1960年代末から1970年代にかけて制作されたこれらのインスタレーション作品は、空間と事物の関係や物質の特性を扱うものであり、当時の美術動向と軌を一にしている。高度経済成長を経て情報化が進む社会の中で、若い作家たちは表現行為やイメージ性を排除し、物質や存在と端的に向き合う方法を模索していた。 その中でも、水や油による浸透や物質同士の付着といった物理的な現象を扱う榎倉の方法論は彼独自のものといって良いだろう。榎倉は油でしみを付けたり、水で濡らしたりする行為についてしばしば「出来事性」という言葉を用いており、行為によって生じた痕跡はその過程に要した時間を鑑賞者に追体験させ、生理的な感覚を刺激する。榎倉は1970年代前半から中頃にかけて版画や写真など様々な形式の作品を試みているが、これらの表現の中にも共通した関心を見てとることができる。例えば〈予兆〉という版画のシリーズ作品では、シルクスクリーンを刷る際に通常のインクではなく油が用いられており、刷りの際に生じた図像と油のしみという、二つの痕跡が残されている。また代表的な写真作品《予兆—海・肉体(P.W.-No.40)》(1972年、東京国立近代美術館ほか)では、砂浜に押し寄せる波に沿って身体を横たえる榎倉自身の姿が写されている。これらの作品は一見異なる表現のように見えるが、油と紙、水と身体の物理的な接触が強調され、榎倉の行為そのものが浮き彫りになっている。こうした特徴からわかるように、榎倉の関心は事物の存在を露にすることではなく、空間と身体、あるいは身体と事物の関係そのものを、総体的なレベルで認識することに置かれていた。 一度は絵画制作から離れた榎倉だったが、1977(昭和52)年から再び平面作品の制作に取り組むようになる。下塗りをしない生のキャンバスを縫い合わせ、その一部分を黒や茶色で塗りこめる作品群は晩年まで制作された。油彩が用いられた1970年代の平面作品や1980年代後半以降に制作された〈干渉〉というシリーズでは、しばしばキャンバスの前に角材が置かれ、キャンバスにはそれと全く同じサイズのしみが描かれている。この構造は角材をキャンバスに押し付けて、そのしみが残るという版構造を意識させるもので、版画や写真作品において試みられた榎倉の行為の痕跡としてのイメージと共通する関心が表れている。一方で、榎倉はキャンバスに縫い目を残し、時にはたわませたりすることで、絵画空間としての矩形の平面と、物質性な布として存在するキャンバスを同時に提示している。彼は後年にインスタレーション作品《場》(1970年)を振り返り「キャンバスの代わりに現実空間を、絵の具の代わりに油によって浸された紙、と言えなくはない」(註1)という言葉を残している。常に絵画制度を意識しながら作品を発表してきた榎倉にとって、これらの平面作品はそのキャリアの集大成といえるものであり、1978年、1980年と続けて参加したヴェネチア・ビエンナーレにおいてもキャンバスを用いた平面作品を発表している。 国際展や美術館、画廊等で目覚ましい活躍を見せた榎倉だったが、自宅や野外など美術制度から離れた日常空間での制作を継続していた点も重要である。1970(昭和45)年には高山登の下宿先のアパートの庭で「Space Totsuka 70(木・壁・草・土・家・石・空・地・火・空気・水…)」を開催。高山登、羽生真、藤井博と共に草木が生い茂った場所を整地し、コンクリートの壁に廃油を塗った《湿質》の制作や、作品の周囲の地面を這うパフォーマンスを行った。また複数人の作家が自宅で作品を発表する「点展」(1973年、1975–1977年)参加し、榎倉は世田谷にある自宅の庭の木に水を流す作品や、スライドによって空間に光を明滅させる《予兆—光》などを発表している。こうした初期の実験的な試みは榎倉の創作の原点となっていった。さらに1980年代以降にも「白州・夏・フェスティバル」(後のアートキャンプ白州)の立上げに携わるなど、榎倉はキャリアの全般にわたって、友人や作家の仲間たちと一から場を作り上げる経験を重視していた。 1980年代にもの派をめぐる分析が活発化していく中で、榎倉の実践は李禹煥、関根伸夫、吉田克朗、小清水漸、菅木志雄、成田克彦、本田眞吾の傾向と区別されつつも、もの派のひとりとして認識されていった(註2)。これまでに「1970年—物質と知覚〈もの派と根源を問う作家たち〉」(岐阜県美術館ほか、1995年)や「もの派―再考」(国立国際美術館、2005年)、「太陽へのレクイエム:もの派の芸術」(ブラム・アンド・ポー、ロサンゼルスほか、2012年)など、もの派の大規模な回顧展でも紹介されている。一方で、1980年代前半の時点では「『もの派』とほぼ同じ世代でしかし『もの派』のすこし後に続いた」(註3)作家として紹介され、榎倉自身も「(もの派の)動きの中に追従するつもりはまったくなかったし、むしろ批評的であった」(註4)と語っていることなどから、「榎倉康二=もの派」という位置付けは、事後的かつ段階的に形成されていったものであるといえる。 1995(平成7)年10月、榎倉は52歳という若さで急逝する。1970年代から東京藝術大学に非常勤講師として在籍し、1992年に同大学美術学部写真センター長就任、翌年には教授に就任するなど多忙を極めた最中のことであった。翌年には回顧展「榎倉康二遺作展 1964–1995」(東京藝術大学芸術資料館陳列館ほか)が開催された。当時の東京藝術大学において現代美術の分野で活躍していた教授は珍しく、榎倉は現在も第一線で活躍するアーティストたちを輩出しており、教育者として果たした役割も大きい。没後10年となる2005年には東京都現代美術館で大規模な回顧展が開催された。 (佐原しおり)(掲載日:2025-12-01) 註1 榎倉康二「素材の関わりの中で 素材との対話」『絵具箱からの手紙』29号、1984年6月、2頁 註2 千葉成夫『現代美術逸脱史 1964〜1985』(晶文社、1986年)、峯村敏明「『モノ派』とは何であったか」『モノ派』(鎌倉画廊、1986年9月)、峯村敏明『もの派とポストもの派の展開 1969年以降の日本の美術』(多摩美術大学、西武美術館、1987年)参照。 註3 千葉成夫「変貌の時代の交流」『[パリ–東京]現代美術交流展』図録朝日新聞社、1984年、10頁。 註4 榎倉康二「とつぜんお便り もの派を語る:『もの派とポストもの派の展開』展をみて」『美術手帖』587号、1987年11月、124–125頁。括弧内筆者。

2019
東京文化財研究所「榎倉康二」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28134.html

日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art

東京芸術大学教授の美術家榎倉康二は10月20日午後6時30分、東京都世田谷区の自宅で倒れ急死した。享年52。昭和17(1942)年11月28日東京に生まれる。同36年私立独協高等学校を卒業して、同37年東京芸術大学油画科に入学。同41年、同科を卒業して同大学大学院油画科に進学。また、同年より同48年まで、すいどーばた美術学院非常勤講師をつとめる。この間、同42年東京のイトー画廊でグル一プ.ルモン第...

「榎倉康二」『日本美術年鑑』平成8年版(327頁)

Wikipedia

榎倉康二(えのくら こうじ、1942年11月28日 - 1995年10月20日)は東京都生まれの日本人画家でインスタレーション・アーティストである。彼は1960年代から1970年代にかけて台頭した「もの派」の一員であった。もの派の作家たちは、石、鉄板、ガラス、電球、綿、スポンジ、紙、木、鉄線、ワイヤー、ロープ、革、油、水といった、「もの」自身を主題にするとともに、諸要素と空間の相互依存に焦点をあてた作品を制作した。また、自然的な物質と工業的な物質の出会いを探求し、それらを一過性の静止状態に配置することによって作品とした。

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VIAF ID
33973617
ULAN ID
500122860
AOW ID
_10205672
NDL ID
00991439
Wikidata ID
Q18608391
  • 2023-02-20