A1146

瑛九

| 1911-04-28 | 1960-03-10

EI-Q

| 1911-04-28 | 1960-03-10

作家名
  • 瑛九
  • EI-Q (index name)
  • Q Ei (display name)
  • 瑛九 (Japanese display name)
  • えいきゅう (transliterated hiragana)
  • 杉田秀夫 (real name)
  • すぎた ひでお
  • 寂音 (haiku name)
  • Eikyu
  • Ei-kyu
生年月日/結成年月日
1911-04-28
生地/結成地
宮崎県宮崎市
没年月日/解散年月日
1960-03-10
没地/解散地
東京都千代田区神田淡路町
性別
男性
活動領域
  • 絵画
  • 版画
  • 写真

作家解説

1911(明治44)年4月28日、現在の宮崎県宮崎市に杉田直[すぎたなお]と雪の次男として生まれる。初期は本名の杉田秀夫、1936年以降は瑛九の作家名で活動。眼科医の父は地元で俳人としても知られた人物で、宮崎県立図書館に生家に由来する杉田文庫が所蔵されていることからも、知に恵まれた環境で育ったことが窺える。1925(大正14)年、入学したばかりの宮崎県立宮崎中学校(現・宮崎県立大宮高等学校)を中退し、上京する。日本美術学校洋画科に入学して絵画を学び、1927年には同校も中退。同じ頃、『アトリヱ』、『みづゑ』等の美術雑誌に本名で美術評論を盛んに投稿した。 1930(昭和5)年、オリエンタル写真学校と推定される写真専門学校に入学。写真独自の機械的な表現を重視する新興写真の潮流が隆盛していた中で技術を学び、モホイ=ナジやマン・レイ等の受容を通じて、カメラを使用せず印画紙上に物体等を直接置いて感光させるフォトグラムという写真技法と出会う。また、新興写真を牽引した『フォトタイムス』誌に本名で写真評論を次々と発表し、ときにそれらに試作の図版を添えた。1932年半ば以降は再び油彩画に専念する。公募展に挑戦し続けるも、1935年の中央美術展に油彩画《海辺》(行方不明)が入選した以外は落選し続け、未だ模索の時期が続いた。他方、1934年に兄・正臣[まさおみ]の影響でエスペラント語の学習を始め、エスペラントのネットワークを通じて生涯の支援者となる美術評論家・久保貞次郎[さだじろう]と出会う。また同時期、地元宮崎の図画教師らとの交流を通じ、後に瑛九の評伝を著す山田光春[こうしゅん]との親交も始まった。 1936年初頭、郷里宮崎にて、フォトグラム技法をベースとし、型紙による影絵のような効果とペンライトが生み出すオートマティックな光の軌跡を特徴とする写真作品を大量に制作し、上京。前衛美術家の長谷川三郎のもとに持ち込む。絵画性の強いそれらの写真作品は、長谷川および彼の紹介による美術評論家・外山卯三郎[とやまうさぶろう]から高い評価を受け、2人の助言も踏まえて「フォト・デッサン」と命名される。軌を一にして「瑛九」もしくは「Q Ei」という作家名も誕生した。これが転機となり、同年、外山主宰の芸術学研究会からオリジナル印画の複製10点による『瑛九氏フオートデッサン作品集 眠りの理由』(猪野喜三郎印画、限定40部、東京国立近代美術館他)を刊行。また、長谷川を中心とする若手作家小グループ「新時代洋画展」に参加し、メンバー連続個展の一環として紀伊國屋画廊(銀座)にてフォト・デッサンの個展を開催。個展は三角堂(大阪)、西村楽器店(宮崎)でも開催された。瑛九名義のフォト・デッサンは、かつて写真界の文脈において制作された杉田秀夫名義の試作フォトグラムとは異なり、美術界の文脈において「美術作品」として意識的に制作、発表されたものだった。日本のアートシーンに写真というメディアが持ち込まれた最初期の作例とも位置づけられる。1937年初頭には自由美術家協会の創立に参加。同会は、「新時代洋画展」や「黒色洋画展」といった複数の若手作家小グループが集結した前衛美術団体だった。なお、当時の瑛九はフォト・デッサンだけでなく、自由美術家協会第1回展に出品した〈レアル〉シリーズ(1937年、東京国立近代美術館)他のフォトコラージュ、転写技法を用いた《マッチの軌跡(作品–D)》、《作品–E》(いずれも1936年、宮崎県立美術館)他の抽象的な油彩画、自在な筆致とスクラッチが施された〈よいどれ心理〉シリーズ(1937年、宮崎県立美術館)他のガラス絵等々、メディア横断的に作品制作を行っている。 気鋭の前衛美術家として頭角をあらわした瑛九は、1937年の半ば頃に早くも画壇に対する失望感を募らせる。1938年6月、自由美術家協会を退会。岡田式静座法に熱中して兄・正臣と「坐る会」を発足したり、「寂音[じゃくおん]」の号で俳句を作ったりと、再び方向性を模索し始めた。戦時下の1940年に自由美術家協会に会友として復帰するも、翌年には会の運営方針を批判して再び退会。その後も、絵画のやり直しを目的とする独立美術協会研究所への入所、印象派風油彩画の制作、エスペラント語小説の執筆と種々の試みを行ったが、体調不良や時局悪化による画材不足等も影響してあまり成果を生みだせないまま終戦を迎えた。 1946(昭和21)年1月、日本共産党に入党(6月に離党)。党活動の一環として宮崎の自宅で開いた文化講座で出会った谷口ミヤ子と、1948年に結婚。翌年から制作活動を本格化させ、自由美術家協会に会員として復帰して第13回展に出品、美術団体連合展第3回にも出品した。また同じ頃、久保から提供されたプレス機を用いてエッチングの試作を開始。1950年、宮崎県教育会館で作品展、上野松坂屋でフォト・デッサン展を開催、翌1951年には宮崎商工会議所および梅田画廊(大阪)におけるフォト・デッサン展の開催、オリジナル印画9点の複製による『瑛九フオトデッサン作品集 真昼の夢』(限定100部、国立国際美術館、大阪ほか)の刊行等、矢継ぎ早に作品発表が続いた。活動の本格化にともない拠点を東京に移すべく、同年9月には埼玉県浦和市に転居。また、前後する時期に大阪と宮崎の美術家を中心とした新グループの結成を計画し、やがてそれは既存の公募展への不出品を参加条件としたデモクラート美術協会(1951–1957年)の設立に結びつく。エスペラント語で「民主主義」の意を持つ同会は、わずか7年の活動期間においてグループ展の開催や機関誌の発行を行い、靉嘔[あいおう]、河原温、池田満寿夫、磯部行久、細江英公、泉茂といった次世代の国際的な才能を数多く輩出した。1930年代に本格的活動を開始し戦後の若手作家を育てた点において、瑛九は、具体美術協会を主宰した吉原治良や、実験工房を組織した瀧口修造と並び、戦前の前衛を戦後につなぐ役割を果たした存在と位置づけられる。また、1952年には久保、北川民次等と新しい美術教育を目指す創造美育協会を創設。デモクラートのメンバーも巻き込んで、展覧会、講演会、セミナー等の普及活動を熱心に行った。1956年にはリトグラフのプレス機を入手し、制作を集中的に行っている。 1950年代における瑛九の作品発表の場は、デモクラート展をはじめ多様に広がった。瀧口修造が企画を担当したタケミヤ画廊(東京)もそのひとつで、3度の個展を開催し、グループ展にも出品した。1953年にはアメリカで個展を開催する話が浮上したが実現せず、送った作品はトップス・イン・フォトグラフィー展(ニューヨーク)に出品された。また同年、新設の国立近代美術館(京橋・東京、現・東京国立近代美術館)における企画展「現代写真展」および「抽象と幻想」展に出品。1957年には、国際展の第1回東京国際版画ビエンナーレにも招待出品している。初期以降のフォト・デッサン70余点を展示した日本橋髙島屋の「瑛九フォト・デッサン展」(1955年)等、百貨店でも展示を行った。また、郷里宮崎をはじめ大阪、福井、久保の自宅があった真岡(栃木県)等、結びつきの強い作家や支援者たちの地元での展示も頻繁に行っている。 戦後の瑛九の制作は、戦前期以上に多様なメディアを駆使しながら、それらを互いに関連づけて複雑に展開していった。エッチングはフォト・デッサン同様、下絵なしでオートマティックに絵柄を作り出す方法がとられた。また、フォト・デッサンにおいては型紙によるイメージに加えて、《作品》(1953年、宮崎県立美術館)等に見るエッチングを思わせる密な描線、《街》(1954年、宮崎県立美術館)等に見る荒々しい筆触等が登場し、《お化粧》(1954年、宮崎県立美術館)のようにときに複数のイメージが層のように重ね合わせられた。描線や筆触のイメージは、ガラスやセロファン等の透過物にインクや絵具で描画を施したものを印画紙に密着焼きして得られたものだったが、あたかもそれはガラス絵のフォト・デッサン化とも言える手法である。また、1957年頃に開始される《カオス》(東京都現代美術館)等のエアーコンプレッサーによる吹付け絵画シリーズはカラー版フォト・デッサンともいうべき趣で、型紙の痕跡を絵具の吹付けによって生じさせる構造がフォトグラムのそれに酷似している。以上のような領域を超えて複雑に絡み合う制作のあり方には、メディアとメディアのあわいに身を置きながら、常に造形思考を更新していこうとする瑛九の意識があらわれている。 最晩年の点描による油彩画のシリーズもまた、戦後のフォト・デッサンや吹付け絵画等で模索したイメージを複雑に重層化させる方法の延長にあったものと捉え得る。瑛九は同シリーズに1958年ごろから熱中し始め、画面は徐々に微細さと多層性を増していった。1959年10月、過度の疲労によりに病床につき、慢性腎炎の診断を受けて浦和中央病院に入院。年末に退院するも、病状は思わしくなく翌1960年初に再入院した。2月、兜屋画廊(銀座)で「瑛九油絵個展」を開催。1958年制作の《午後(虫の不在)》(東京国立近代美術館)、《影》(宮城県美術館)、1959年制作の《つばさ》(宮崎県立美術館)、《雲》(埼玉県立近代美術館)、《ながれ-たそがれ》(うらわ美術館)等、点描シリーズの大作9点を発表するも、会期中に同和病院(東京・神田)に転院。3月10日に急性心不全により48歳で歿した。 死去からわずか1カ月後に国立近代美術館で開催された「四人の作家」展(1960年)には、菱田春草、上阪雅人、高村光太郎と並んで瑛九の作品が出品された。以後現在に至るまで、瑛九をとりあげた展覧会は、関係の深い宮崎や埼玉をはじめ国内各地で頻繁に開催されている。関係者による顕彰の動きも活発で、1965年には瀧口修造、久保貞次郎、オノサトトシノブ、山田光春等を発起人として「瑛九の会」が結成された。1976年には、地道な調査に基づく山田光春『瑛九 評伝と作品』(青龍洞、1976年)が刊行された。瑛九との交流や評伝執筆等のための歿後の調査を通じて山田のもとに蓄積された資料群は、現在、宮崎県立美術館、愛知県美術館、東京国立近代美術館に分蔵されている。 (谷口 英理)(掲載日:2023-09-11)

1960
四人の作家: 菱田春草, 瑛九, 上阪雅人, 高村光太郎, 国立近代美術館 (京橋), 1960年.
1960
瑛九遺作展, 福井市繊協ビル, 主催: 福井瑛九の会, 1960年.
1970
瑛九遺作展, 北九州市立八幡美術館, 1970年.
1978
瑛九フォト・デッサン展, 福岡市アートギャラリー, 1978年.
1980
瑛九展: 前衛絵画の先駆者: 20回忌記念展, 宮崎県総合博物館, 1980年.
1986
瑛九とその周辺, 埼玉県立近代美術館, 宮崎県総合博物館, 和歌山県立近代美術, 1986年.
1988
瑛九とその仲間たち展, 町田市立国際版画美術館, 1988年.
1990
瑛九展: 油彩・フォトデッサン・版画, 伊丹市立美術館, 1990年.
1996
瑛九展: 魂の叙情詩, 宮崎県立美術館, 1996年.
1997
光の化石: 瑛九とフォトグラムの世界, 埼玉県立近代美術館, 1997年.
1999
デモクラート1951~1957: 開放された戦後美術, 宮崎県立美術館, 和歌山県立近代美術館, 埼玉県立近代美術, 1999年.
2000
浦和画家とその時代: 寺内萬治郎・瑛九・高田誠を中心に, うらわ美術館, 2000年.
2001
瑛九の銅版画と源流: 池田満寿夫監修摺り, 大川美術館 (桐生) , 2001年.
2004
瑛九 : 前衛画家の大きな冒険, 渋谷区立松濤美術館, 2004年.
2005
瑛九フォト・デッサン展, 国立国際美術館 (大阪), 2005年.
2011
生誕100年記念瑛九展, 宮崎県立美術館, 埼玉県立近代美術館, うらわ美術館, 2011年.
2014
瑛九と前衛画家たち展: 真岡発: 久保貞次郎と宇佐美コレクションを中心に, 栃木県立美術館, 2014年.
2016
瑛九1935-1937: 闇の中で「レアル」をさがす, 東京国立近代美術館, 2016年.
2021
生誕110年記念瑛九展: Q Ei: 表現のつばさ, 宮崎県立美術館, 2021年.

  • 宮崎県立美術館
  • 埼玉県立近代美術館
  • 東京国立近代美術館
  • うらわ美術館, 埼玉県
  • 下関市立美術館
  • 国立国際美術館, 大阪府
  • 北九州市立美術館, 福岡県
  • 東京都現代美術館
  • 福岡市美術館
  • 東京都写真美術館
  • 横浜美術館
  • 本間美術館

2019
東京文化財研究所「瑛九」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9217.html

日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art

油絵・版画・写真の各部門で早くから前衛的な活動の軌跡を残してきた瑛九(本名杉田秀夫)は3月10日心臓障碍のため没した。1930年代の初期スュルレアリスム運動の一端としてフォトグラム、フォトデッサンに新鮮なヴィジョンを展開し、後エッチング、ついでリトグラフおよび油絵制作にもたずさわった。略年譜明治44年 4月28日宮崎市、眼科医杉田直の次男として生れる。大正14年 日本美術学校入学、1年で退学。昭和...

「瑛九」『日本美術年鑑』昭和36年版(134頁)

Wikipedia

瑛九(えいきゅう、1911年4月28日 - 1960年3月10日)は、日本の画家、版画家、写真家。前衛的な作品、抽象的な作品(抽象絵画)が多い。本名、杉田秀夫。QEiとも自署した。浦和画家として有名。

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VIAF ID
50134361
ULAN ID
500317234
AOW ID
_10202203
Benezit ID
B00058053
Grove Art Online ID
T025659
NDL ID
00005231
Wikidata ID
Q2044914
  • 2024-05-14