- 作家名
- 梅原龍三郎
- UMEHARA Ryūzaburō (index name)
- Umehara Ryūzaburō (display name)
- 梅原龍三郎 (Japanese display name)
- うめはら りゅうざぶろう (transliterated hiragana)
- 梅原良三郎
- Umehara Ryōzaburō
- 生年月日/結成年月日
- 1888-03-09
- 生地/結成地
- 京都府下京区
- 没年月日/解散年月日
- 1986-01-16
- 没地/解散地
- 東京都新宿区
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
作家解説
1888年3月9日、京都府京都市下京区に生まれる。父は呉服商として悉皆屋[しっかいや]を営み、屋号は宇治屋。兄弟は7、8人いたというが、無事成長したのは兄と姉それぞれひとりで、3歳の時に父が再婚し、継母ゆきによって大切に育てられる。後に一時、名を良三郎と改める。京都市で尋常小学校、高等小学校、そして府立第二中学校に学んだが、画家志望の思いも強く、中学校を中途退学して伊藤快彦[やすひこ]の家塾鐘美会[しょうびかい]に入った後、浅井忠が開設した聖護院[しょうごいん]洋画研究所で、浅井の指導を受ける。後に同研究所が発展した関西美術院にも学び、1907年には第6回関西美術会競技会で油画が褒状、墨画が1等賞となる。
1908年、関西美術院でともに学んだ田中喜作と渡仏。ルノワールの実作に接して感動し、アカデミー・ジュリアンに学ぶ。翌年、ルノワールに会い、推薦されたアカデミー・ランソンでも学ぶ。スペイン、イタリアなどを訪れ、1913年の帰国を前に、フランスのカーニュにルノワールを訪ねる。同年6月に帰国し、京都に戻る。9月に東京に出て、翌月白樺社主催による「梅原良三郎油絵展覧会」が開かれる。翌年、二科会の創立に際し、監査委員に選ばれ、以後は会員として同会に出品する。同年、洋画家・亀岡崇の妹・艶子と結婚。1915年8月に長女・紅良[あから]生まれる。1918年に本名の龍三郎に改め、二科会を辞す。翌年1月、長男・成四[なるし]が生まれる。1920年にはふたたび渡仏。翌年9月に帰国し、鎌倉材木座の家に住まい、近くに住む長與善郎を訪ね、岸田劉生とも親交を結ぶ。1922年、小杉未醒[みせい](放庵)らと春陽会を結成。1925年の第3回春陽会名古屋展の会合で、岸田劉生が脱会し、岸田の入会に尽力した責任をとって梅原も同会を退会する。同年7月に、土田麦僊ら日本画家集団である国画創作協会の洋画部新設に際し、川島理一郎らとともに迎えられる。1926年に初めての画集『梅原龍三郎自撰油画集』がアトリヱ社から刊行される。
1929年4月、上海で大美術展が開催され、日本の油彩画も出品されたのを機に中国に渡る。西湖で制作する。1931年夏に、後に梅原作品のコレクターとなる熱海の野島熙正[ひろまさ]の別荘を借りて制作。以後、しばらくの間、毎夏熱海で制作を続ける。この頃には、盛んに裸婦を描き、《竹窓裸婦》(1935年、大原美術館、倉敷)をはじめ、豊満な裸婦像を生み出し、《裸婦扇》(1937年、大原美術館)はその頂点といわれる。1933年4月、座右宝刊行会の後藤真太郎によって清光会が組織され、安井曾太郎、坂本繁二郎らとともに会員になる。10月に初めて台湾に旅し、藤島武二とも交友する。翌年1月に鹿児島に旅し、桜島などを描く。1935年、帝国美術院(現・日本芸術院)の会員となる。同年12月に、大阪と銀座・資生堂で「藤島武二、安井曾太郎、梅原龍三郎新作洋画展」が開催。1936年7月、大阪の美術新論社で、安井曾太郎とともに創作版画展が開かれる。1939年7月に、満州国美術展の審査のために満州に渡る。大連から空路北京を訪問し、その景観に感動して《雲中天壇》(1939年、京都国立近代美術館)や《姑娘とチューリップ》(1942年、東京国立近代美術館)の作品をはじめ、一連の北京風景や中国女性像などを描く。帰国後も、北京で入手した赤絵壺に挿した薔薇の絵を数多く制作する。1944年6月、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科教授に任命され、翌月、安井曾太郎とともに帝室技芸員を命ぜられる。秋には、伊豆に独居して制作に専念する。
1946年3月、東京都美術館で開催された文部省主催第1回日本美術展(日展)に、審査員として出品する。翌月、戦後最初に開かれた公募展である第20回国画会展で、梅原龍三郎20年史室が設けられ、41点が特別陳列される(翌年、冨岳本社から展覧会画集『梅原龍三郎二十年史画集』が刊行される)。この年の夏から秋にかけて、軽井沢に滞在して制作する。1947年、国画会、日展に不参加を表明。1948年、第4回日展の第二部油絵の審査に際し、小杉放庵、須田国太郎、安井曾太郎とともに審査員辞退を申し出るが、受理されなかった。この年、石原求龍堂から『梅原龍三郎素描集』が出版される。1949年、髙島屋で丹楓会[たんふうかい]が組織され、中川一政、伊藤廉らとともに会員となる。1950年夏に軽井沢矢ヶ崎で過ごし、浅間山を描く。11月に、新宿区市ヶ谷加賀町に転居する。1951年、国画会での主導的立場を退いて名誉会員となり、以後、会の運営から手を引く。夏から秋にかけて、大仁(静岡)に滞在して制作。1952年3月、安井曾太郎とともに東京藝術大学教授を辞任する。11月3日、安井曾太郎とともに文化勲章を受章する。翌年5月、本間美術館(山形)で「文化勲章受賞記念 梅原龍三郎・安井曾太郎展」が開催される。秋には、自邸に吉田五十八[いそや]設計のアトリエを新築し、軽井沢にもアトリエを新築。以後、ほとんど毎年、夏から秋にかけて軽井沢で制作する。この年、美術映画「梅原龍三郎」(高場隆史監督・撮影、ブリヂストン美術館製作、「美術映画シリーズ」)が完成する。
1956年4月、第30回国画会展に5点を出品、チューブから絵具を絞り出して描く技法が話題となる。6月、艶子夫人とともにイタリアに向かい制作する。1957年1月、第27回朝日文化賞受賞。6月、自由な立場で仕事をしたいと、日本芸術院に会員辞任届を提出する。7月、長男成四没す。この年、朝日新聞社からイタリアなどで制作した作品が掲載された『梅原龍三郎仏伊近作画集』が出版される。1958年5月、長女・嶋田紅良とともに渡欧、その後、艶子夫人とともに、イタリア、南仏カンヌなどを訪問する。この時期から1960年代にいたる、岩絵の具によるデトランプの手法で描いた作品や、金泥を用いた絢爛な画面は琳派をも彷彿とさせる。この年には、求龍堂から『梅原龍三郎第一部 1905-1924』が刊行される。1960年3月、髙島屋で好日会が組織され、林武、鳥海青児、中川一政らとともに会員になる。4月、京都市美術館で「梅原龍三郎画業50年記念展」(読売新聞社主催)が開催され、翌月、東京日本橋・髙島屋にも巡回する。5月、京都市美術館と国立近代美術館(現・東京国立近代美術館)に自作を寄贈する。この年には、読売新聞社から『梅原龍三郎自選画集』が刊行される。1961年、長女・紅良とともに渡仏、後に艶子夫人と入れ替わり、カンヌで制作する。
1960年代もたびたびイタリアやフランスに旅行し、1968年頃から、粘土をひねって裸婦などの塑像を創作しはじめる。1973年3月、日仏交流に貢献した功績で、フランス政府からコマンドール勲章を贈られ、フランス大使館で伝達式が行われる。晩年も薔薇や牡丹をはじめ精力的に制作し、ギャルリー・ためながや吉井画廊ほかの画廊、愛知県美術館や梅田近代美術館、百貨店などでも個展が数多く開催される。1985年12月、痰を詰まらせて呼吸困難になり慶應病院に入院。翌年1月16日、急性肺炎のため同院で死去。生涯をとおして華麗な色彩と装飾的で大胆な筆致によって生み出された個性豊かな作品群は、「日本的洋画」を象徴する事例として高く評価されている。
(山野 英嗣)(掲載日:2023-09-11)
- 1936
- 梅原龍三郎安井曾太郎創作版画展, 美術新論社画廊, 大阪, 1936年.
- 1938
- 梅原龍三郎新作油絵展, 日本橋高島屋, 1938年.
- 1947
- 梅原龍三郎・安井曽太郎・坂本繁二郎: 三巨匠自選洋画名作展, 阪急百貨店, 大阪, 1947年.
- 1949
- 梅原龍三郎・安井曾太郎自選展, 銀座・松坂屋, 大阪・阪急百貨店, 1949年.
- 1957
- 梅原龍三郎仏伊新作展, ブリヂストン美術館, 1957年.
- 1960
- 梅原龍三郎画業50年記念展, 京都市美術館, 日本橋高島屋, 1960年.
- 1969
- 梅原龍三郎展: 画業60年記念 山の連作, 上野松坂屋, 名古屋松坂屋, 大阪天満橋松坂屋, 1969年.
- 1970
- 梅原龍三郎・安井曽太郎二人展, 秋田市美術館, 1970年.
- 1977
- 梅原龍三郎展: 近作・未発表作品を中心とする, 日本橋・三越, 大阪・三越, 名古屋・オリエンタル中村, 札幌・三越, 横浜・三越, 熊本・大洋, 広島・三越, 仙台・三越, 1977–1978年.
- 1978
- 梅原龍三郎展: 日本洋画壇の最高峰, 岩手県民会館, 1978年.
- 1980
- 梅原龍三郎・安井曾太郎展, 愛知県美術館、大阪・大丸, 1980年.
- 1982
- 梅原龍三郎・安井曽太郎展, まちだ東急百貨店, 浦和伊勢丹, さっぽろ東急百貨店, 1982年.
- 1984
- 梅原龍三郎展, 有楽町アート・フォーラム, 1984年.
- 1987
- 梅原龍三郎とその周辺展, 梅田近代美術館, 1987年.
- 1988
- 梅原龍三郎遺作展, 東京国立近代美術館, 京都国立近代美術館, 1988年.
- 1991
- 梅原龍三郎展, ふくやま美術館, 西宮市大谷記念美術館, 香川県文化会館, 1991年.
- 1994
- 日本洋画壇の三巨匠: 梅原龍三郎・安井曾太郎・須田国太郎, 大丸ミュージアムKYOTO, 大丸神戸店, 福岡天神・大丸, 大丸心斎橋店, 1994–1995年.
- 1996
- 梅原龍三郎展: 没後10年, 奈良そごう美術館, そごう美術館 (横浜), 京都高島屋, 千葉そごう美術館, 三越美術館・新宿, 姫路市立美術館, 宮崎県立美術館, 1996年.
- 東京国立近代美術館
- 京都国立近代美術館
- 京都市美術館 (京都市京セラ美術館)
- 石橋財団アーティゾン美術館, 東京
- 大原美術館, 岡山県倉敷市
- 清春白樺美術館, 山梨県北杜市
- 永青文庫, 東京
- メナード美術館, 愛知県小牧市
- 下関市立美術館, 山口県
- 西宮市大谷記念美術館, 兵庫県
- 1926
- 『梅原龍三郎画集: 梅原龍三郎自撰油画集』東京: アトリエ社, 1926年.
- 1933
- 武者小路實篤『梅原龍三郎画集』 東京: 春鳥会, 1933年.
- 1940
- 『梅原龍三郎近作画集』東京:石原求龍堂, 1940年. 普及版 1942年.
- 1944
- 『梅原龍三郎北京作品集』東京: 石原求龍堂, 1944年.
- 1947
- 国画会編『梅原龍三郎二十年史画集』東京: 富岳本社, 1947年.
- 1953
- 徳大寺公英編『梅原龍三郎: I 日本現代画家選』東京: 美術出版社, 1953年.
- 1954
- 座右宝刊行会編『日本洋画篇 現代世界美術全集: 第11巻』東京: 河出書房, 1954年.
- 1957
- 久保守, 石原竜一編『梅原龍三郎仏伊近作画集』東京: 朝日新聞社, 1957年.
- 1960
- 『梅原龍三郎自選画集』東京: 読売新聞社, 1960年.
- 1963
- 『梅原龍三郎 世界名画全集続刊: 8』東京: 平凡社, 1963年.
- 1969
- 求龍堂編『梅原龍三郎作品集: 東京国立近代美術館所蔵』東京: 求龍堂, 1969年.
- 1972
- 小川正隆解説『梅原龍三郎 現代日本美術全集: 12』東京: 集英社, 1972年.
- 1973
- 益田義信編著『梅原龍三郎 日本の名画: 46』東京: 講談社, 1973年.
- 1977
- 『梅原龍三郎 日本の名画: 18』東京: 中央公論社, 1977年.
- 1979
- 『梅原龍三郎作品集』東京: 読売新聞社, 1979年.
- 1984
- 梅原龍三郎『天衣無縫』全2巻, 東京: 求龍堂, 1984年 [自筆文献].
- 1985
- 『梅原龍三郎 アサヒグラフ別冊, 美術特集日本編』40 (1985年5月).
- 1987
- 『梅原龍三郎/安井曽太郎 20世紀日本の美術: アート・ギャラリー・ジャパン: 14』東京: 集英社, 1987年.
- 1988
- 河北倫明監修『梅原龍三郎: 生誕百年記念』東京: 集英社, 1988年.
- 1988
- 「梅原龍三郎<特集>」『三彩』487号 (1988年4月): 8-85頁.
- 1998
- 『梅原龍三郎 新潮日本美術文庫: 40』東京: 新潮社, 1998年.
- 2006
- 嶋田華子編『色彩の画家梅原龍三郎』東京: 読売新聞社, 2006年 (会場: 日本橋三越本店, 大丸ミュージアム・心斎橋, 大丸ミュージアムKYOTO, 大丸札幌店) [展覧会カタログ].
- 2019
- 東京文化財研究所「梅原龍三郎」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10082.html
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「梅原龍三郎」『日本美術年鑑』昭和62・63年版(315頁)昭和洋画の巨匠、文化勲章受章者の梅原龍三郎は、1月16日肺炎のため東京都新宿区の慶応病院で死去した。享年97。故安井曽太郎とともに昭和洋画界の双壁をなし、恵まれた資質が自ら成熟し豪華絢爛たる独自の芸術境を拓いた梅原は、明治21(1888)年3月9日、京都市下京区に、染呉服業を営む梅原長兵衛の子として生まれた。兄姉は七・八名いたというが多くは早世し、事実上次男、末子であった。はじめ龍三郎、のち良三郎...
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梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう、1888年〈明治21年〉3月9日 - 1986年〈昭和61年〉1月16日)は、日本の洋画家。京都府京都市下京区生まれ。1914年(大正3年)までは梅原 良三郎(うめはら りょうざぶろう)を名乗った。ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術・琳派・南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れ、絢爛な色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開。昭和の一時代を通じて日本洋画界の重鎮として君臨した。
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- 2024-02-29