- 作家名
- 岩田藤七
- IWATA Tōshichi (index name)
- Iwata Tōshichi (display name)
- 岩田藤七 (Japanese display name)
- いわた とうしち (transliterated hiragana)
- 岩田東次郎 (birth name)
- 生年月日/結成年月日
- 1893-03-12
- 生地/結成地
- 東京府東京市日本橋区
- 没年月日/解散年月日
- 1980-08-23
- 没地/解散地
- 東京都新宿区
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 工芸
作家解説
1893年、東京府東京市日本橋区に、岩田呉服店店主・岩田藤七の長男として生まれる。幼名は東次郎。京都生まれの父・初代藤七は、京都市上京区両替町で呉服問屋を営み、後に東京日本橋にも出店して繁盛した。二代目藤七となる東次郎は幼少期を京都で過ごすが、1899年には日本橋常盤尋常高等小学校に入学した。1900年、7歳の時に父を胃がんで亡くした。母・以ちは東京下谷の鮮魚商の家庭に生まれ、算法書を愛読した才女で、父亡き後の藤七の多岐にわたる教育は、母の才覚であった。小学校から漢文と習字の塾に通い、1907年に大手町の商工中学校に入学後、翌年から築地居留地内のイギリス流英会話教室にも通った。1909年、四条派日本画家の稲垣雲隣からつけ立て技法を学び、1911年に中学を卒業すると、白馬会洋画研究所にて岡田三郎助に師事した。工芸にもガラスにも造詣の深い岡田は、藤七にとって生涯の師となり、多大なる影響を及ぼすこととなる。この年の秋、岡田より「絵はほんの少数のすぐれた人がすすむ道であって、君は工芸を学びなさい」(岩田藤七「ガラス十話」『岩田藤七ガラス作品集』毎日新聞社、1968年)と言われた時からその道を志し、ガラス工芸に進んだのも、岡田の勧めであった。1912年、東京美術学校(現・東京藝術大学)金工科に進み、その間、金工を海野勝珉[うんのしょうみん]や平田重幸に、漆芸を六角紫水に学んだ。さまざまな工芸について研鑽を積みながら、度々その制作現場を見学するうち、工芸家たるもの弟子や工人を抱えることが不可欠であるという認識を強くしていった。1918年に同校金工科を卒業後、西洋画科に再入学した藤七は、彫刻も学び、耽美派の文学にも傾倒し、当時の幅広い芸術的人脈を構築しながら1923年に卒業した。在学中の1919年に彫刻家竹内久一の長女邦子と結婚したのは、藤七26歳の時であった。
藤七は、美術学校卒業の前年である1922年から帝国美術院美術展覧会(帝展)に出品し始めるが、当初はまず彫刻を試みた。彼がガラス工芸への道へと大きく舵を切るきっかけとなったのは、美術学校卒業直後あたりの出来事にあったと思われる。1923年頃、藤七は銀行家で橘ガラス社長の今村繁三に出会った。中村彝[つね]のパトロンでもあった今村は、三菱財閥を背景に、ガラス食器を製造する橘ガラスも経営していた。同社は第一次世界大戦と関東大震災との混乱で、1925年に閉鎖されることになるが、藤七は今村の私邸で、当時はまだ秘中の秘とされていた多彩な色ガラスの調合を学ぶ機会を得た。また自身がガラス造形を試み始めた頃から、橘ガラスの職人たちの何名かを迎え入れることができたようである。1924年に東京・上野の日本美術協会列品館(上野の森美術館の前身)で開催された第3回仏蘭西現代美術展覧会を観た時の感動は一入だったようで、エミール・ベルナール、ポール・シニャック、ギュスターヴ・モローなどの絵画やロダンの彫刻とともに出品されていたドーム兄弟のガラスについて、「私をして切り子以外にこんなにもやわらかい、近代的なガラスもあるものかと、これまでのガラスの観念を変えさした」とその衝撃を吐露している(岩田藤七「ガラス十話」前掲書)。今村からガラスの調合法を得る一方で、岡田三郎助の紹介によって、1927年には岩城硝子の研究所にも通い、ガラス製造におけるさまざまなノウハウも学んだ。
1928年、前年に美術工芸部(第四部)が設置された第9回帝展に、ガラス作品としては初となる《吹込みルビー色硝子銀花生》(富山市ガラス美術館)を出品し、これが特選を得た。続く第10回帝展に《硝子製水槽》(所在不明)を、第11回帝展には《はぎ合わせ硝子スタンド》(所在不明)を出品し、3年連続して特選を勝ち取った。このことは、岩田藤七本人の認知もさることながら、未だ美術としても工芸としても芸術の分野で認められずにいたガラスの美的価値を、広く知らしめることとなった。翌年の1931年、藤七38歳にして、葛飾区小菅町に岩田硝子製作所を創設した。
1935年、藤七は初の個展となる「岩田藤七氏作―硝子によるげてもの展」(上野松坂屋、東京)を皮切りに、「新興硝子器展覧会」(日本橋髙島屋、東京)、「スッフレガラス展」(大阪日本橋松坂屋)と立て続けに開催し、以後自身の発表の場を個展へと移行した。1937年に日本橋髙島屋で開催した「岩田藤七考案―第三回新興硝子展覧会」には、とんぼ玉手と題した花器を多数出品した。それは当時高級品として人気を博していたカットガラス器とは反対に、古代日本の丸玉や勾玉に見られるとんぼ玉風の、プリミティブで無骨とも言える風情を呈したガラス器であった。同展の際、藤七は堀口大学から「玻璃のミラアジ」と題した賛を受けている。それは彼の作品に、日本の風土が凝縮していることを謳ったものだった。藤七は熟年期を過ぎるまで外遊をしなかったが、それが反って、外国のガラスの影響を受けることなく、原始的で、日本的な柔らかさを取り込んだ造形を生み出すことになった。
多くの職人を抱え、燃料を絶やすことのできないガラス工場を維持するには、並々ならぬ努力が必要だった。藤七は第二次世界大戦中も戦後もさまざまな逆境を乗り越えながら、多彩な色ガラスを駆使し、溶けたガラスの流動性や、遠心力によって形作られる際のダイナミズム、また吹いたガラスの膨張性を活用した、漆器や陶器では決して表現することのできない、ガラスならではの造形を探究し続けた。1980年に87歳で往生を遂げる前年まで個展を継続し続けた藤七の、長きにわたる創作活動の中、彼がガラス造形の分野に新たに取り入れた事柄のうち、華道とのコラボレーション、展示効果の高い美的空間、建築的ガラスの制作、そして茶器への挑戦は特筆すべきであろう。
昭和初期、花生けは陶器か鋳物、あるいは竹籠と決まっていた。しかし前述のとおり、藤七はガラスで花器を作った。草月流創始者の勅使河原蒼風がこれに花を生けたのは、早くも1936年第2回の個展の時であった。彼は単に自身の想いを作品に託すのではなく、ガラスに新たなる用途を加え、人々の生活に即した作品によって、暮らしにさらなる美をもたらして豊かにしていくことを視野に入れていた。1950年の第6回日本美術展覧会(日展)に出品した花器《光りの美》(所在不明)では日本芸術院賞を受賞し、1954年には日本芸術院会員となった。翌年の「岩田藤七作品発表展 硝子と花」(大阪心斎橋大丸)では、専慶流蒼丘社の西阪慶美が一点ずつ花を挿した花器を、パイプと板ガラスと照明とを組み合わせた展示方法で見せ、好評を得たという。作品を取り巻く空間や生活を総体的に考えていた彼ならではの創意が表れている。
1960年から、藤七が新たに取り組んだガラス造形に、「コロラート」と呼ばれる一連の平面的なパネル類がある。多彩な色ガラスを接着剤で連ねていったもので、イタリア語で「色付きの」を意味する名前は、当時神奈川県立近代美術館館長であった土方定一と相談して決めたという。試作を個展で発表したところ、翌年横浜髙島屋の食堂を飾る大壁面の制作を受注し、1963年には東京・日比谷の日生劇場の入り口正面スクリーンも設置した。藤七のガラス造形は、卓上の美を遥かに超えて、建築家の設計の一部を彩る造形へも飛躍した。
さて、常に既存概念や通念を超えて制作に臨んだ藤七が、本格的に茶道の世界へとガラスを導いたのは、1965年の「岩田藤七新作茶器展」(日本橋髙島屋)の時である。「千利休が茶の湯にガラスを持ちいなかったから、ガラスは骨董にもならないし、粗末にされ、安物とよくいわれる」(岩田藤七「ガラス十話」前掲書)と嘆いた藤七は、戦前よりガラスの茶器を構想していたというが、満を持して茶器に取り組んだのは、ガラスの用途を広げること、ガラスによって様式美に新しいものを投じたいという思いからであった。彼の水指や茶碗は、花器と同様、ガラスの流動性を生かした色鮮やかなもので、従来の「わび」、「さび」とはかけ離れた世界観である。ここでも藤七は既成概念に一石を投じたのである。岩田藤七は、ガラスという素材に先見性を見出し、昭和初期から生涯をかけて、用の美、そして造形表現の素材として、ガラスらしさを十分に生かした造形を手がけては、その可能性の認知に尽力し続けた第一人者であった。
(土田 ルリ子)(掲載日:2023-09-11)
- 1982
- 近代日本のガラス工芸: 明治初期から現代まで, 東京国立近代美術館工芸館, 1982年.
- 1986
- 日本のガラス造形・昭和, 北海道立近代美術館, 東京都庭園美術館, 1986–1987年.
- 1987
- 岩田藤七・久利展: 日本の色ガラスのあゆみ, 日本橋高島屋, 1987年.
- 1999
- 岩田藤七・久利展: 日本の近代ガラス工芸の先駆者たち: アメリカ展帰国記念, 日本橋三越本店, 大丸ミュージアムKobe, 福岡・天神岩田屋, 飛騨高山美術, 1999年.
- 2011
- 岩田ガラス: 藤七・久利の花器と茶器, 町田市立博物館, 2011年.
- 2014
- 岩田藤七・久利・糸子: スケッチブックとガラス作品, 町田市立博物館, 2014年.
- 2017
- 色ガラス芸術のパイオニア 岩田藤七, 久利, 新宿区立新宿歴史博物館, 2017–2018年.
- 2020
- 日本ガラス工芸の先達たち: 藤七、鑛三、そして潤四郎, 郡山市立美術館, 2020年.
- 新宿区立新宿歴史博物館
- 町田市立博物館
- 草月会
- 北海道立近代美術館
- 神奈川県立近代美術館
- 東京藝術大学大学美術館
- 東京国立近代美術館
- 横浜美術館
- メトロポリタン美術館, ニューヨーク
- コーニング ガラス美術館
- 富山市ガラス美術館
- 1968
- 『岩田藤七ガラス作品集』東京: 毎日新聞社, 1968年.
- 1972
- 岩田藤七『ガラスの芸術: 岩田藤七作品集』東京: 講談社, 1972年.
- 1993
- 武田厚編『岩田藤七のガラス芸術』京都: 光村推古書院, 1993年.
- 1999
- 国際文化協会編集『岩田藤七・久利展:日本の近代ガラス工芸の先駆者たち: アメリカ展帰国記念』東京: 朝日新聞社, 1999年 (会場: 日本橋三越本店(7階ギャラリー), 大丸ミュージアムKobe (大丸神戸店), 福岡・天神岩田屋, 飛騨高山美術館).
- 2001
- 水田順子『岩田藤七: ガラス幻想・縄文的モダニスト ミュージアム新書: 21』札幌: 北海道新聞社, 2001年.
- 2011
- 町田市立博物館編『岩田ガラス: 藤七・久利の花器と茶器 町田市立博物館図録: 第131集』町田:町田市立博物館, 2011年 (会場: 町田市立博物館) [展覧会カタログ].
- 2014
- 町田市立博物館編『岩田藤七・久利・糸子: スケッチブックとガラス作品 町田市立博物館図録: 第134集』町田: 町田市立博物館, 2014年 (会場: 町田市立博物館) [展覧会カタログ].
- 2019
- 東京文化財研究所「岩田藤七」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9796.html
- 2020
- 郡山市立美術館編『日本ガラス工芸の先達たち: 藤七, 鑛三, そして潤四郎』郡山: 郡山市立美術館, 2020年 (会場: 郡山市立美術館) [展覧会カタログ].
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「岩田藤七」『日本美術年鑑』昭和56年版(258-261頁)日本芸術院会員、文化功労者のガラス工芸家岩田藤七は、8月23日急性肺炎のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年87。1893(明治26)年3月12日、東京市日本橋区に生まれ、1911年商工中学校を卒業し、白馬会洋画研究所で岡田三郎助に師事して、洋画を学ぶ、12年、東京美術学校金工科に入学、彫金を海野勝珉に学び、また工芸にも関心の深かった岡田の影響を受け、18年に金工科卒業後西洋画科に再...
東京文化財研究所で全文を読む
Powered by
Wikipedia
岩田 藤七(いわた とうしち、1893年3月12日 - 1980年8月23日)は、ガラス工芸家。幼名、東次郎。妻は彫刻家の竹内久一の長女・くに(邦子)。岩田久利は長男。岩田糸子は久利の妻、イワタルリは孫。
Information from Wikipedia, made available under theCreative Commons Attribution-ShareAlike License
- 2023-12-01